6. それよりなぜ君はチェーンソーを持っているんだ

 蝉の唸り声が夏を貫く。


 その轟音に俺はハッとした。そして同時にハッとすることをあらかじめ知っていたことにもハッとした。


 不可解な気分を鎮めようとエアコンの室外機から漏れる音に耳をすまし、古民家の屋根に取り付けられたアンテナ、緑色のテープでぐるぐる巻きにされた古い物干し竿、やけに赤い郵便受けや佐川という表札、その対面で恥ずかしそうに枝を伸ばす植木の松、マンホールの丸さと鈍さ、電柱へ巻くためだけに作られた黄色と黒の何かが電柱に巻かれている様子、などをひと通り見回した。


 退屈な住宅街の光景に胸を撫で下ろす。だが俺は今見回した一連の退屈を、今見回すのだと分かっていた。胸を撫で下ろすことも予定調和に感じられた。そしてその感覚は撫で下ろした胸を一層ざわつかせた。俺は歩く。


 首の筋肉を活用して上を向くと、青いインクが垂れてきそうな碧空。焔の陽射しが年季の入った家々にあたり鉄板化路面へ影を渡す。影は、我も街だと言わんばかりに存在感を拡散させる。


 俺は汗の塊を落としながら団地を進む。己が直線になった気分。直線は辿りつくだろう。どういうわけか俺は、目的地に到達する自分の姿を克明に描くことができるのだ。


 しかし、にも関わらず、どういうわけか、俺は目的地の場所や方角が分からない。手がかりもない。


 経験の連鎖や、時間の堆積といった「現在」をかたち造るはずの流線を知覚できない。


 デジャヴとシンクロニシティが同時成立してコンフリクトを起こしているかのようだ。


 電柱の、無機質を突き詰めた質感の灰色が風景を殺す。家屋は無感情なアスファルトを感傷的に眺める様子で連なっている。そこには生活の残像があり、沈黙のメロディーが流れ、妖の匂いが立ち込めていた。


 俺はそれらが仄めかす暗示に気づくわけでも気づかぬわけでもなく、ただまっすぐに歩き続けている。


 朧ヶ丘では風のかわりに忘却が吹く、という言葉が大脳新皮質の表面を撫でる。どこで聞いた言葉? 曖昧の彼方だ。蝉がうるさい。思考が千切れそうだ。


 ――さあ七回表勝島高校の攻撃です――


 野球中継の実況が聞こえる。団地の一角、淡い水色をした民家から溢れているのだ。


 ――マウンド上の獅子川は球数八十球を超えています。岸野さん、ここは正念場ですね。そうですね、ダブルスチールなんかも警戒した方がいいかもしれませんよ。なるほど。さあ第二球を投げた、走った! ダブルスチール! しかしバッテリー外している! キャッチャーからサードへ! アウトー! ダブルスチールならず! これは花山第二バッテリー、会心の読みです――


 なにやら盛り上がっているようだが野球に興味はない。気にもとめず通り過ぎ緩い坂を上る。前方に朧ヶ丘金物店。時代錯誤な商店だ。店内に工具が並ぶ。自動ドアにはポスターが貼られている。


 店の前まで到達するとそのドアが開いて若い女が出てきた。


 霧のように清涼な女は俺と目が合うや否や小走りに近づく。俺はたじろいで後ずさる。


 女がチェーンソーを握っていたからだ。


「びっくりした」


 俺のセリフを盗んだのか。違う。女の感嘆である。


「うそー。びびった。あの、わたし、ちょっとびっくりです」


 びっくりしたのはこちらのほうだ、というニュアンスの「なんですか」を返す。


「聞いてくれますか? わたしがなんで驚いてるか」


 返事をする前に女はまくし立てていた。整理すると「びっくり」の中身はこうだ。壊れた工具の修理のためこの金物店を訪れたが、道中口ずさんでいた歌が店内で流れていたので驚いた。


 さらにサビの歌詞「ドアを開けると濡れたあなたが立っていた」と同様、汗まみれのあなた――つまり俺――が立っていたもんだから感動だ。以上二点が女の話の要点である。


 女はスピーディーに話し終えると「これは運命のディスティニーです」と付け加えた。俺はその間ただ呆気にとられていた。


「それよりなぜ君はチェーンソーを持っているんだ」


「もちろん切りたいものがあるからですよ」


 女は柔らかな微笑みを浮かべ答えた。粉雪を感じた。同時に蝉の声が遠くなり、俺の心身に何かが満ちていく。


「君はいま、誰かの描いた物語のなかにいるような気分なんだろうね」


 何かに衝き動かされて誰のものかも分からないセリフを吐くと、女は満足そうに笑い瑞季と名乗り、朧ヶ丘を案内すると言って俺を大通りに連れ出した。瑞季は大通りに並ぶ店の評判やおすすめメニューを説明し、俺はそれを黙って聞いた。


 どこへ向かうでもなくゆっくりと歩いていると、緩い坂の中腹で珍妙な集団に出くわした。『フィットネススタジオ小猿』と『山賊クリーニング』の前にテーブルを出してバーベキューをしている一団。


 彼らの珍妙さは姿と行為に支えられている。3メートルはあろうかという蝶の羽根を肩に縫い付けている中年。フルフェイスをかぶった子供。割烹着姿にサングラスをかけた女性。ひとりごく平凡な出で立ちの痩せた青年。


 彼らはテーブルの脇にバーベキューコンロを設置し、火もつけず食材も無しに騒いでいる。バーベキューのふりをしている、と言い換えてもよいだろう。


 俺は目を合わさず通り過ぎようとした。相手もよそよそしく、露骨に目を合わさない。視界に入れることすら頑なに拒んでいる様子だ。俺たちが通り過ぎると彼らは賑やかになった。逆に瑞季は沈黙した。


 しばらく無言で歩くと教会が現れた。門の前に宣教師風の男が立っている。若く太く白く長い。嫌な予感がしたので俺はまたやり過ごそうとした。沈黙の瑞季。蝉の音色。


「来ましたね。お告げの通りです」


 宣教師が口を開く。


「中へ」


 瑞季は涙を浮かべて門を潜ろうとした。俺の脳内に歪な警笛が鳴る。白が赤に変わる不快なイメージ。


 直感がはたらいて後ろを振り返ると、路地の影に制服の男がにやり。高笑いのチャンスを伺う保安官。漠然とした予感が胸を締め付ける。


「だめだ、瑞季」


 俺は瑞季の手を掴んだ。


「このなかは安息愚物で、尻穴にパンで、二時時二十二分が危険だ。ポルチーニ」


 予感を言葉にするのは難しい。苦虫を噛み殺していると、宣教師が持っていた本を地面に叩きつけ俺に抱きついた。


「待っておりました。教祖様」


 背後でにやり、保安官。

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