5. 健康で文化的な最低限度の、蝉にならない生活を送る権利
「わざわざどうもありがとう。送らせちゃってごめんなさい」
瑞季がしおれた草のように頭を下げた。
「今日は色々あったから早めに休むといいよ」
俺もまたしおれていた。瑞季が住む一軒家の玄関前。瑞季の家は朧ヶ丘の古民家としては平均的であったが、一人で住むには広すぎるのではと思われた。
俺たちはしばらく立ち尽くしていた。沈黙を蝉が埋め立てる。瑞季は玄関を背にして何かをためらうような、諦めを噛みしめるような力無い微笑を浮かべていた。つい先ほど起こった凄惨な光景についてはお互い触れない。
「ここに一人で住んでるの?」
「そう」何かを逡巡する沈黙のあと瑞季はいった。
「家族がいたけど、数年前に悲しいことが起きたの。今は一人で住んでる」
長い蝉の時間。俺は言葉を見つけられなかった。言葉のかわりに瑞季を抱きしめたいという渇望が沸き、それを押し殺した。過去に何が起きたか聞こうとは思わなかった。
「ねえ、ここでわたしと暮らしてくれない?」
ゆらめく情緒を見透かしたように、瑞季は半歩近づき言った。
俺は「会ったばかりだ」と狼狽してみせたが、その申し出に煌めきを感じもした。
「おかしなことを言ってるのは分かってるわ。あなたを引き留めるなんて、バーベキューの連中と変わらない。だけどわたしはわたしの自由意思を信じるわ。言ったでしょ? 運命のディスティニーだって」
俺は風が――忘却が――吹くだろうと予感した。
ひとたびそれにあたれば体に何かが満ちて、俺は俺のものではないセリフを吐くだろう。この家で暮らしはじめ、柔らかな安息に堕ちてゆくだろう。
霧のような女とチェーンソーにモーニングキスをして、チェーンソーが断裂させた聖なるかなしみを燃えるごみに分別し、火曜日と金曜日に指定された場所へ出すのだ。
退屈したら女に黙って仮装仮想バーベキューへ出掛け、熱々の無を頬張り、火傷して笑う。おどれぶわあ、と猛り狂う女を連れ、復活した冥王主の豚言葉を頂戴してポルチーニ。
やがて朧ヶ丘に慣れてゆく。住所と正反対の座標から届く架空請求はいつか途絶える。不老を得て浮浪を失う。
生命の残像と局地的違和感と戦慄的綻びのグルーヴ。予感のブルース。嘘とセックスを祝福するファミリア・デイドリーム。無縁と引き換えに結ばれる何かの縁。右手に幸福のレプリカ。左手には荘厳たる屈辱。前方に誇り高き自慰。背面に神龍の死骸。
蓋然的白昼夢。白昼無。白昼堂々の無。食卓に並ぶ絶望のごま和え。憂鬱のおひたし。蒸した普遍。発酵した不変。黄昏の燻製。
前兆と忘却の螺旋永遠。安息愚物安息愚物脾物供物愚物。俺は壇上から信者たちを見下ろして云った。
二十一人の信者たちは復唱し、豚をみるような目で俺を讃え奉る。こぞって四つん這いになりケツを向けるので、俺は祭壇を降りて一人ずつ尻穴にパンをねじ込みこれを善しとした。
場にアッパーハピネスが充満してそれは肛門線と尿酸の香り。支配欲の回旋。無力感の凱旋。
やがて暴虐が扉を圧して一筋の陽。保安官の蹂躙。花火の匂い。花火の音。時計をみる。二時二十二分。
それも悪くないと俺は思った。風吹かぬ街で風の赴くまま、予感をなぞるような日々を愛すのだ。だから俺は忘却が吹くのを待った。
しかし空気は仄かに揺れることさえなかった。何も満ちない俺の内部はからっぽ。いつのまにか瑞希がファミリア・デイドリームを口ずさんでいる。
小気味よいメロディーが耳をくすぐり、からっぽの俺に歌が注がれていく。内側から溺れそうになり酸素を探す。意識が垂れる。垂れた意識がアスファルトにこぼれる寸前、俺と瑞季のあいだを茶黒い塊が横切った。
蝉。
垂れた意識が逆流。蝉はどこに止まるでもなく、透明に何かを描くように飛び回る。残像をなぞると無限マーク。または横に倒れた砂時計。空間にそれを描いている。
やがて分裂でもしたのか、蝉は二匹になった。二匹になった目的と理由を突き止めようとした途端三匹になった。訝って目を凝らすうち四匹になり、当然のように五匹、六匹と増殖した。
そして目視の範疇を超えたおびただしい数となり、俺はあっという間、蝉の壁に囲まれた。
蝉壁の外で瑞季が何かを叫んでいるが聞こえない。俺はすでに蝉のけたたましさに埋もれてしまったのだ。
耳が焼け鼓膜が爛れるほどの音塊。洞穴でギロチン同士を擦り合わせるかのような音。
音の中心で俺は救助懇願肉と化した。蝉たちは救助懇願肉の体に止まった。すべての隙間が蝉になる。
皮膚では感知できない蝉。皮膚そのものが蝉になったのかもしれない。
俺はもう皮蝉なのだ。いずれは蝉人間なのだ。そして蝉人間はヒューマノイド蝉への初歩的段階なのだと思うと悲しくなった。
この悲しみを切り裂く鋭利はどこだ。助けて。蝉になりたくない。俺はまだ蝉になりたくないんだ。
蝉の幼虫は何年も蝉になりたいと願い続けるのだろう。願っても蝉になれない幼虫もいることだろう。だから俺は蝉になる権利を彼らに譲りたい。蝉になる権利は蝉にこそふさわしいのだ。
そして俺には究極的に正当な、蝉にならない権利がある。健康で文化的な最低限度の、蝉にならない生活を送る権利が保証されているのだ。
蝉を抜け出したい。抜け出さなくてはいけない。抜け出してどうしたい。そうだ。俺は歩くのだ。目的地に向かって歩き続けるのだ。
――俺は歩きたい!
それは染色体中心部のさらに中央、自己中心の深淵から吹き上がる波動であった。
俺は目を閉じて波動を体の細部まで行き渡らせ、皮膚の表層、角質の表面にある自己とそれ以外を隔てる最後の一枚から滲ませた。するとギロチン音が遠ざかった。
蝉の音はもっとも遠いところまで立ち退いたのだ。俺は蝉にならずに済んだ歓びを歌にしたくなった。
瞼の裏の暗黒舞台に三日月の白光が浮かんだ。滑らかで白々しい三日月の先端に、カラスのコンコルドが止まっている。
俺は暗黒舞台に上がって手を伸ばす。コンコルドがつぶらな瞳をこちらに向けて首をかしげる。俺は三日月に向けて投網の要領で波動を放射した。
波動と三日月とコンコルドが同期してひとつの円形発光体となり、暗黒舞台を滔々と照らす。
明るくなった暗黒舞台は伸び、縮み、捻れ、回転したのちどこかへ自由落下してゆく。ぐわ、と叫ぶと同時に蝉の鳴き声が戻る。
鳴き声はもうギロチン音ではなくなっていた。適切な距離とバランスを保った規格通りの蝉の音だ。
暗黒舞台の明るさに耐えきれず目を開けると。朧ヶ丘。
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