4. 冥王主は一切れのパンを貧民の尻穴にねじ込み此れを善しとした

「あなたには目的地がある。そうでしょう?」

 朧ヶ丘メインストリート下り坂。一体どうしたんだと問い詰めた俺に対して、瑞季はレーザーのような眼光で俺を貫き言った。すっかり霧のような清涼さを取り戻し、先ほどの取り乱しが嘘のようだ。

 

俺は黙る。瑞季にはどこへ向かうかなど話していないし、俺に目的地があることと瑞季の暴走に因果関係が見つからなかった。


「この街にはいろんな人が暮らしているわ。なかにはさっきみたいな連中もいるの」

「バーベキューごっこをする連中が?」

「目的地に向かう人を引き止めて、仲間に招き入れようとする連中よ」

「でも悪気はなかったんじゃないか? 俺も楽しくなってきたところだった」

「わたしは許せないの。答えのない街で勝手に作った解答用紙を押し付けるやつらが」

「だからって、チェーンソーを振り回して怒らなくても」

「あなたは目的地にたどり着ける人よ。わたしは知ってる」

 知ってる。という言葉だけが、瑞季の内側奥底から奈落を這い上がるようにして聞こえた。

「本当のところ、目的地がどこにあるのか分からないんだ」

「それも知ってるわ。この街を訪れる人はみんなそうだもの」

「どういうことだ」

「街に騙されないで。朧ヶ丘は企むのよ」


 続きを問いかけたがそれは叶わなかった。歩き続けていた俺たちの目の前に、いつの間にか大きな男が立ちふさがるように存在していたからだ。


「こんにちはです」


 大男は外国人であり、若く、白く、太く長かった。白いシャツにワインレッドのネクタイを締め、手のひらに分厚い本を開いたまま乗せている。


「来世の魂を予約しませんか」男はにこやかに言った。


 男の斜め後方に教会らしき建物があり、入口脇の壁に『冥王セント・ドナカルトの会』というプレートが埋められていた。男の首元からは十字架が下がっていたので、冥王セント・ドナカルトの関係者なのだろうと察しがついた。


 宣教師風の男は、俺の無視をもろともせず「教会へ行ったことはありますか?」と畳み掛ける。男の日本語は曇りなく流暢であった。


「ありません」


 俺はぶっきらぼうに答えた。


「それはもったいないことです。冥王神は信じる者を救います。冥王神は魂を除菌して来世に発送してくれるのです。あなたがたはかなしみを抱えているように見えます」


 俺は無言で、訝しく宣教師を睨んだ。先ほど瑞季が言った「街に騙されないで」という言葉を思い出す。また街が騙そうとしているに違いない。 この宣教師はそれでなくとも怪しい。また瑞季が猛りだす前に立ち去らなければならない。


 しかし瑞季が宣教師に返したのはあまりにも意外なひと言であった。


「どうして分かるんですか?」


 それはすがるような声にも聞こえた。


「それは、その、あなたたちの魂、つまりスピリチュアル、えー、ソウル、んーパワー、そうスピリチュアルソウルパワーが泣いているからです。スピリチュアルソウルパワーはオーラのようなもので、魂の汚れ、魂のレベルを反映します。あなたがたの魂は号泣しています。このままだと魂が脱水症状を起こしてしまいます。ポルチーニ」


 宣教師は時折手もとの本に視線を落としながら言った。叱られた子供が言い訳を並べるときの口調に似ていた。


「その、スピリチュアル、ぽーるパワー? はどうしたら泣き止みますか?」


 瑞季はやはりすがるように聞くのだった。


「教会で冥王神様のお告げと経典を聞けば、魂はミルクを口にした赤子のように泣き止むでしょう。そして来世に向けて聖光まみれの門出を迎えるのです。ポルチーニ」


 俺は宣教師の話を遮らなくてはいけないと感じた。何を言っているのか砂ほども理解できない。このままでは怪しげな宗教に入信させられてしまう。先を急ぐので、という言葉を吐きかけたそのとき、ぶうっとひとかたまりの忘却が吹いて体にこれ以上ない何かが満ちていき、俺は抗う術をなくした。瑞季は涙ぐんで冥王神様に会いたいと懇願し、脱力の俺がこれにへなへなと頷き、宣教師は我々を教会の内部へと連れ入っていった。


「冥王神は、いや冥王豚は、あなた方のかなしみを食べてくれるでしょう。」


 壇上で教祖が叫ぶ。頭には豚の被り物。首には無数の十字架。それ以外の箇所、全身といっていい広範囲を包帯でぐるぐる巻いている。


「かなしみの歯ごたえは魚卵と同じ!」

「魚卵と同じ!」


 信者たちが教祖の言葉を復唱する。狭く暑苦しい教会には冷房が効いていない。信者二十余名の熱気が夏をさらに燃やしている。


「ぷつぷつしていて気持ち悪い!」

「ぷつぷつしていて気持ち悪い!」


 復唱は呼吸や納税にも優先するのだと言わんばかりの圧力が、建物に満ちていた。


「さあ脱ぎ捨てるのです己の皮を! 明日からあなたも脱皮野郎!」

「脱皮野郎!」


 脱皮野郎、のフレーズの場面で教祖は包帯を剥がし、信者たちは衣服を可能な限り破った。俺は仕草のみを真似て服は破らなかった。瑞季はチェーンソーを床に置いた。


「さあみなさん、二時二分になりました。経典の時間です」


 おおお、と信者が湧く。教祖は目を瞑りなにやらぶつぶつとお経のようなものを唱え始めた。


「ポルチーニ。メンソレータム、バジルピッツァ、ゴルゴンゾーラ、インフィールドフライ」


 信者たちがしくしくと泣き始める。瑞季の泣き声も混じっていた。


「輪廻転生風人間 脱衣 迅速。象牙的快楽 開放的密閉 焼身的昇進。マラカス鳴動 死傍 転倒三昧。ポルチーニ」

「ポルチーニ」


 信者たちが復唱する。


「道徳的嘔吐 消極的耄碌 牢獄的損得 安息愚物安息愚物安息愚物供物贓物愚物。ポル

チーニ」


 ポルチーニ。続いて冥王神は分厚い本を広げ、そこに記されているのであろう文章を読み上げ始めた。


「冥王主は、来日二日目にして森羅万象を有機栽培し臥床した。そのまま七十七日睡り続けたのち、干からびた土地に酸性雨を降らせ、肥沃なる土地へは鬼を派遣した。街へ出ると飢えたる貧民がにやつきながらおねだりしたので、冥王主は一切れのパンを貧民の尻穴にねじ込み此れを善しとした。農民には新しい鍬と酒と蛇を送り、着払いであった。羊飼いには自らの靴を、漁師には自らの着物を、音楽家には自らの髪を授け、そのまま七十七日睡り続けたのち猥褻物陳列罪で拿捕され、此れを善しとした。そしてすぐに螺旋永遠がやってきた。ポルチーニ」


 ポルチーニ。冥王主の言葉はすべての細胞に染み渡り、俺は泣いていた。経典のあと、教祖はポルチーニストーンの話をした。その石にはアッパーハピネスとスピリチュアルエネルギーが通常の四兆倍も含まれていて、信者であればなんと六十四万円で購入できるということで俺はお値打ち価格に驚いた。


神聖この上ない時間の最中、ばんっと音がして背後の扉が開いた。多くの信者と同じように振り返る。扉から男たちが蹂躙の面持ちで侵入してきた。


 手を上げろと叫ぶ声は荒々しく、不愉快な音階であった。一様に纏う青黒い制服に縫い付けられた仰々しいバッジ。保安官の証。


 数十人の男たちは口々にいった。我々は正義だ。正義市民だ。市民を守る市民だ。貴様らは市民ではない。市民をたぶらかすペテンの因子だ。引き金が引かれるにはそれだけ理由があれば十分だ。


いつかの花火と同じ音、同じ匂いがした。教会の白い床は見慣れない赤を歓迎した。椅子も赤く色づいた。俺は教会の壁に掛けられた時計を見た。そのあともう一度床を見た。死亡推定時刻午後二時二十二分の死体が二十二体転がっていた。


 静かな元生者の上にゆっくりと硝煙が上っていく。足の震えに気がついたのはそのときだ。


 教祖と信者たちは撃たれ、俺と瑞季は撃たれなかった。撃たれた理由も撃たれなかった理由も釈然としないまま、俺たちは外へ連れ出された。


 荒々しい眩しさに目を細める。俺のなかにあった冥王神に対する絶対的な信頼は忽然と消えていた。


「危うく騙されるところでしたね。大丈夫、ぶっ殺しましたから」


 恰幅のいい保安官は高笑いしながらいった。よろつく瑞季を支えていたもう一人の年配保安官がそれに続けた。


「ああいう輩には気をつけてくださいよ、人を騙してもなんとも思わない外道中の外道、鬼と畜生のハーフみたいな奴らなんですから」


俺は殺戮のあとに高笑う男たちを軽蔑した口調で「あの人たちはなぜ殺されたのですか? 集まって経典を聞いていただけじゃないんですか?」と聞いた。


「テロを企てていたかもしれないんですよ」

「かもしれない、で殺されてしまうのですか?」

「そりゃあ、ルールですからね」


 ルールは絶対ですよ、保安官たちの高笑いは禍々しく蝉の鳴き声と混ざり路地に響いた。

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