2. ひょんなことからの『ひょん』ってなんでしょうね。かわいいな
女はいよいよ接触まで半歩という距離まで近づくと言った。
俺は「え、いや、あの」と困惑の三段活用を零すのが精一杯である。
「ええと、どこから話したらいいかな。あのう、わたし、電動ドライバーが壊れたんでそこの金物屋さんに修理を頼もうと思って店に向かったんです」
女は俺のうろたえをなぜか話してよし、と受け取ったようで、8ビートのテンポのもと話し始めた。
「電動ドライバーを直すのはもちろん締めたいネジがあるからで、ネジは座らない方の椅子のもので、なんで座らない椅子のネジが緩むのかは不思議なんですけど、とにかく直さなきゃと思いまして」
女はチェーンソーを持っていない方の手でネジを締めるジェスチャーを見せながら疾風のように口を動かす。
「それであの、なんの話でしたっけ? あっ、そうそう、それで家を出て、お店までの道中にせっかくだから何か口ずさまなくちゃと思い立って、そうしたら十年くらい前によく聴いていた曲をひょんなことから思い出しまして。む、ひょんなことからの『ひょん』ってなんでしょうね。かわいいな」
俺は女が嬉々として話す様子を呆然と眺めるしかない。
「まあひょんは置いといて。とにかくふいに頭に浮かんだその曲を、ここへ来るまで何回か口ずさんだんです。といってもサビの一部分、知ってる箇所だけなんですけど。ファミリア・デイドリームって歌知ってますか?」
「いや、知らないな」
俺が答えるなり女は英語と思わしき歌詞をメロディーに乗せた。ディスコサウンドを基調とした軽快な曲だ。
「このフレーズ、聴いたことありません? 当時けっこう流行ったんですよ」
「洋楽は聴かない。そんなことより、あのさ」
言いかけたが、彼女の勢いと色香に惑わされてそれ以上続けられなかった。
俺がたじろいだのをみて自身のターンが終わってないと判断したのか、女は「わたしも久しぶりに、ほんと十年ぶりに思い出したような曲で、だから口ずさんだのも多分初めてだったんです」と話を続行した。猪突猛進型この上ない。一人っ子かもしれない。
「はあ」
「それでここからがびっくりなんですけど。あのう、朧ヶ丘金物店に着くなりわたし
はもちろん店内に入りました。自動ドアがういんと自動で開いて、なかに入ったらなんと! さっきまで口ずさんでたファミリア・デイドリームが店内に流れてたんですよ!」
彼女の剣幕のけたたましさは蝉のけたたましさを凌駕した。身振り手振りを交えて話す癖があるのか、セリフが躍動するたびに左手のチェーンソーが上へ下へと動き、俺は話の内容よりもチェーンソーの刃先が気になって仕方がなかった。俺が唖然の淵にいる様子を見かねて、女がもう一言。
「すごくないです!?」
何か言わねば。
「すごい、のかもしれない」
俺は誘導されるままに答えたが女は不服そうにまくし立てを続行する。
「え、だって、十年ぶりに思い出した曲がですよ? しかも初めて口ずさんだ曲が、口ずさんだ五分後に流れたんですよ! 偶然にしては出来過ぎです。」
なるほど確かに、よくできた偶然だ。
「確率の向こう側からの使者、摂理を無視した奇跡、としか思えません!」
しかもですよ、女は語気を強める。
「それだけじゃないんです。さっき歌ったサビっていうのが和訳すると要するに、『扉を開けると濡れたあなたが立っている』って意味なんですけど。金物屋を出たら汗で濡れたあなたがいるではありませんか」
なんちゅう歌詞だと思いながら、俺は相変わらず上下に跳ね踊るチェーンソーを目で追った。
「初めて口ずさんだ曲が店で流れていて、しかも歌詞の内容と現実がぴたり一致したんです。わたし運命とかそういうの信じてないんですけど、正確には信じるか信じないか決めてなかったんですけど」
女はたっぷりと間を溜めると「これはもう、運命のディスティニーですね」と締めくくった。
言い終えると女は満足そうに俺の表情を覗き込んだ。俺は女の期待するリアクションを推察したが分からないので、なるべく平坦なトーンで答えることにした。
「君の遭遇した出来事はすごいと思うよ、とんでもない確率だろうし、本人にとっては事件なんだろう」
「事件というか事変ですよ、大事変」
「うん。けれど俺はそれよりまず聞きたい。たとえばなぜ君はチェーンソーを持っているのか、とか」
「え? そんなの決まってるじゃないですか、切断したいものがあるからですよ」
女はにこりと笑ってチェーンソーの平らな面を撫でた。
「いやそういうことじゃなくて。チェーンソーは金物屋で買ったのか、家を出た時すでに握っていたのか」
「え、起きたてほやほやの奇跡よりチェーンソーなんかが気になるんですか? 」
変わった人ですねと言って女は粉雪の表情で微笑んだ。ふいに蝉の声が遠くなる。すると体のなかにこれ以上無い何かが満ちて、俺はそれ以上チェーンソーについて詮索できなくなってしまった。
かわりに、彼女が望んでいる言葉が頭に溢れ、気づけばそれをすらすらと声に出していたのだ。
「確かにそれは小さな奇跡だね。虫の知らせってやつかもしれない」
虫の知らせた運命です。女は粉雪の微笑を崩さず嬉しそうに頷く。
「まるであらかじめ決まっていたかのように、物事があるべきところに収まっていく。誰かの描いた物語のなかにいるような、きっと今君はそんな気分なんだろう」
作為的な偶発。思いがけない予定調和。一本道の阿弥陀くじ。起きそうにもないことがあたかも当然の現象として、営みの対岸からやってきて日常に潜り込む。似たような経験は俺にもある。――いまだってまさに――それを奇跡と呼ぶのなら、世界はコンパクトな奇跡で溢れている。
「ここが物語のなかなら、きっとわたしはヒロインですね」
女は丸い目を眩しそうに細めて言った。言葉が両耳の蝸牛あたりまできたとき、俺は暗示めいた何かに気づきかけたが、同時に吹いた一迅の忘却がそれをかき消す。
蝉の鳴らす不協和音が長い沈黙を埋め立てた。
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