忘れられた忘却
ユーキビート
1. 朧ヶ丘では風のかわりに忘却が吹く
蝉の唸り声が夏を貫く。青く分厚い空に六角形の陽が滲む。
煮えたぎる眩しさの塊が瓦屋根や電柱にぶつかって濃い影を伸ばし、漆黒の凸凹がアスファルトの底にもうひとつ街をつくる。
俺は歩く。ふたつの街の狭間を黙々と。鋭利な決意に衝き動かされて爪先で天を突き、力強く踵を地に打って。脚は動作を繰り返す。
髪先でまるまった汗がゆれながら滴るたび、俺の歩みはかろうじて束の間の痕跡を地表に残した。
やがてそれもゆらめく陽炎に連れ去られ、あるべきところに還ってゆくだろう。
俺が歩くのはやはり目的地へ辿り着くためだ。俺は己が目的地へ到達すると知っている。それは願望ではなく、限りなく体験に近い、血肉に刻まれ骨髄に沁みたる確信である。
しかし確信を強めるほど、感性の淵で不穏が疼く。
俺は目的地がどこにあるのか分からないのだ。スマートフォンの電源が切れて地図アプリを起動できなくなり、それは突き詰めると充電を怠る不精な性分によるものであるが、果たして充電の無くなる前は目的地を把握していたかというと、どうだったっけ。
ともかく俺は、到着の確信を抱きながらも、たとえば次の角はどちらに曲がるべきなのか、方角は正しいのかなどについては皆目見当がつかないのだ。
――朧ヶ丘では風のかわりに忘却が吹く。
どこかで聞いたセリフがリフレインする。タクシーを降りるとき運転手が不意に、不敵に、不気味にこぼした言葉だ。その言葉が比喩なのか運転手の耄碌なのかは判断できなかったが、なるほど今なら少なからず意味が分かる。
この街には忘却が吹いている。輪郭のぼやけたこの街にあってそれだけが正しい。
朧ヶ丘の地形は複雑だ。カーブばかりで方向感覚は失われるし、角を曲がれば三叉路に、坂を下れば五叉路に突き当たる。枝葉に放射した路はまるで自ら好き勝手に伸びたかのようだ。
だがそういった構造上の性質だけでなく、この住宅街には本能に絡みつくような難しさが漂っている。妖の臭気。神秘のささやき。意思を持つ透明。足を踏み入れたとき踵に感じた奇妙な違和感は今や全身を這う。
どうやらこの霞のような不明瞭さが、この界隈――つまり仙台市○区朧ヶ丘団地――を司る曖昧な秩序の骨格であり、同時に背筋を震撼させる戦慄的な綻びの正体といってよさそうだ。
俺は奇妙な気分を鎮めようと、深呼吸をしながら住宅街を見回した。
ひび割れた路面。くすんだ電柱。うなだれた電線。手入れがゆき届かず野生のままに茎を伸ばす生け垣と、そこに罠を張る蜘蛛。植木鉢のなかで枯れた花。変色した如雨露。玄関前で寂しげに虚空を見つめるセントバーナード犬の置物。掠れた表札。埃で灰色がかる自転車のサドル。『糞尿お断り』と札が貼られた開閉式の車庫と、字が読めないのか札の真下に尿をする煤けた猫。道の中央で仰向けに倒れ、終わりに抗おうと脚をひくつかせるカミキリムシ。ひときわ目を引く綺麗な家と、そこにかけられた『売り物件 大型リフォーム済み』の看板。
団地の構成物はわざとらしいくらいに普遍的で、綻びを隠すように佇んでいる。
違和感は拭えなかった。拭えないこともなんとなく分かっていた。やはり歩くほかない。引き返すにもどこから来たか分からないのだし、この場にへたり込んでも蒸し焼きになるだけだろう。前進しか選択肢はないのだ。だから俺は置き去りにされたものたちの隙間を、白昼夢じみた団地の中央を、闇雲に歩く。
頭上では嵐の如き蝉の咆哮が街を飲み込むように轟いていた。
道幅が狭く歩道のない住宅街の日陰を歩いていると、どこからか野球中継の音が聞こえてきた。どうやら淡い水色をした和風家屋の、すだれがかけられた窓から漏れているのだった。家の傍までくるとアナウンサーの小気味好い物言いがはっきり聞こえる。
――七回表勝島高校の攻撃はワンナウト一、二塁、長打が出れば同点の場面を迎えています。さあマウンド上の獅子川、球数も八十球を超えましたが岸野さん、ここは正念場ですね。そうですね、ここはなんとかゲッツーを狙いたいところです。さあ獅子川、第二球を投げた、おっと走った! なんとダブルスチール! キャッチャー投げた、ボールが逸れる! ランナー一気に三塁へ! これは花山第二、痛恨のプレーが出ました――
アナウンサーの高揚ぶりから試合が迎えた局面の重要度は推し量れたが、状況を思い浮かべるのが億劫で聞き流す。
水色の家の一角を過ぎて少し歩くと右手に金物店が現れた。住宅街に突如として個人商店が姿を見せるのは朧ヶ丘団地でままある光景である。俺はこれまでに目にした布団店や豆腐屋の古い看板を思い出した。
金物店はガラス張りになっていて、脚立やシャベルやあらゆる工具が雑然とひしめき合っている様子が外からも見えた。なかでも『徐行』の標識が屋内にある様子は可笑しかったので物珍しげに眺めていると、自動ドア――コードレスを強調した何らかの工具のポスターが貼られている――が音もなく開き、中から金物店には似つかわしくない若い女が出てきた。
肩にかかる茶色い髪。クリーミーな淡い色のワンピース。自動ドアが閉まる。女は俺を見つけるなり「え?」と感嘆の声を挙げ一目散にこちらへ駆け寄る。
複数の戸惑いが折り重なって俺を後ずさりさせた。まず女の駆け寄り方があまりに迷いなく勇ましかったこと。霧のように清涼な姿態から、ただならぬ色香を零していたこと。何よりノースリーブから伸びる細く白濁とした腕の先でチェーンソーを握っていたこと。
以上三点に圧されて俺もまた、女と同じように「え?」という言葉を発した。後ずさる体が言葉だけをおいてけぼりにしたようであった。
「あの、ちょっといいですか?」
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