4 工場-1-
手早く朝食をすませたカイロウは、投げ捨ててあった作業着に着替えた。
鏡の前に立ち、汚れ具合を確かめる。
油の飛びはね方も煤の付き方もいい。
袖のあたりが寂しいので、彼は作業棚から塗料を取り出し袖口に塗り広げた。
「少々わざとらしいか……?」
改めて全身を見てみる。
どこか違和感があるのは、袖口の汚れだけが新しいからだ。
少し時間を置けば馴染むだろう。
わざと汚すのは毎度気が引けるが、これから会う相手にはこれが正装になるのだから仕方がない。
時計に目をやると、午前9時を少し過ぎたところだった。
そろそろ頃合いだと見た彼は大きなバッグを抱えて家を出た。
たいそうな荷物だが車は使わない。
彼が扱う品物は繊細だから、こんな凸凹の道を走ればすぐに駄目になる。
誰か舗装してくれないものか、と不満に思いながら坂を下っていく。
行き交う人々の表情は暗い。
このところ濃度を増した霧のせいもあるが、人や街に活気というものが見えなかった。
貧しい世帯が多いことも一因だろう。
この辺りは農家が多いが、長く大気を覆う霧のせいで作物が充分に実らない。
昔は市外に出荷しても余るほど豊かだった穀物や果物も、今では当時の百分の一も育たない。
どうにか収穫期を迎えても、栄養のほとんどない萎びた作物ばかりである。
この窮状をどうにかしようと彼らも開墾したり、品種改良したりと打てる手は打ってきた。
だがそれよりも環境が悪化するスピードのほうが早く、ついに万策尽きてしまった。
しまいには農地を捨て、クジラの恩恵で糊口をしのぐ有様である。
そんな中で潤っているのがここ、レキシベル工業だ。
元は農地だった場所に建てられた小さな工場だったが、ある年から莫大な利益を上げ続けて急成長を遂げた。
おかげで雇用が生まれ、生活にあえいでいた者の多くがここで工業製品の製造にあたっている。
「おう、待っていたぞ、ドクター」
受付に着くなり、粗暴そうな男がカイロウを見つけて駆け寄ってきた。
ボロボロの作業着をだらしなく着こなす彼は、とても来客対応ができるようには見えない。
「その呼び方はやめてくれと言っているだろう。私は技師だ。医者じゃない」
「似たようなものだろ。扱ってるのが人かモノかのちがいだ」
「人と物の区別くらいつけたほうがいいぞ」
「冗談だよ。それより奥の部屋へ行こう。品を見せてくれ」
男は挨拶もそこそこにカイロウを案内する。
いつものことなので彼は特に気にもとめない。
むしろこの男が世辞でも使いだしたら、何か企みがあるのかと勘繰ってしまいたくなるほどだ。
ガラス越しの作業場を左手に狭い通路を進む。
トラックほどの大きさの生産設備が整然と並び、各部門をベルトコンベアがつなぐ。
数百人を超える作業員が流れてきた部品に手作業で加工を施していく。
作業自体は部品同士をネジで留める、本体を裏返す、表面の一部を磨く等の単純なものだ。
その様子をカイロウは何とはなしに眺めていた。
やっていることは自分と変わらない。
自分の元に巡ってきたものに手を加え、次へ渡す。
人間はそうやって生きてきたハズだ。
それは正しい。
しかし本当にそれでいいのか?
そのままでいいのか?
流れ作業を黙々とこなすのは、ここだけではなく――。
おそらくほとんど全ての人間が、自分の人生そのものを部品と同じようにコンベアに乗せてはいないだろうか?
「………………」
ここからでは作業員の顔はよく見えない。
それがかえって自分の意思を持っていないように映り、彼は咄嗟に目をそむけた。
よくない考えがよぎるのは、きっと疲れているからだ。
そう思いなおし、先を行く男を小走りに追いかけた。
小部屋が並んでいる。
男はそのうちのひとつに入り、カイロウに椅子を勧めた。
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