第9話 打開

 甲斐の顔を見ないで済むように、顔を下げたまま、横を通り過ぎる。もし、今、甲斐の顔に、嫌悪の表所が浮かんでいるのを見つけたら、私は二度と立ち直れないだろう。


「ちょっと待って、朱莉ちゃん」


 せっかく無事通り過ぎたと思ったのに、甲斐に呼び止められて背中が痛いほど張り詰めた。


 止まりたくない!止まりたくない!

 でも、ことを荒立てたまま無視をして、甲斐を嫌な気持ちにさせたくはない。幻滅したと甲斐の口から一言聞けば、私の役目も終わるだろう。

 朱莉は何も聞きたくないと抗う心をねじ伏せて、甲斐を振り返った。


「俺は、いかにも保護欲を誘う女の子より、自分の意見を言える強い人が好きなんだ。俺の話が出たついでに、一緒に帰らないか?」


 まだ冷静に考えられない頭では、覚悟していた言葉と違う内容を理解できず、朱莉は目を白黒させて、返す言葉を探した。

 そんな朱莉をよそに、水谷と優菜にいいな?と目で伺いを立てた甲斐は、朱莉を連れて歩き出した。

 

 体育館の北側の通路から東に回り込んで、テニスコート沿いの道を歩いて門からでると、甲斐は朱莉を正面から見て、にやりと笑った。


「驚いたよ。やるな~朱莉ちゃんは。咄嗟に思いついて、取った行動とは思えないほど決まっていた。頭の回転は速いし、友人思いだし、恰好良かったよ」


 えっ?と驚いて見上げた朱莉に、甲斐が優しく微笑みかけた。

「優菜ちゃんが直樹に嫌われないように、大芝居を打っただろ?」


 言い当てられて、朱莉は真っ赤になった。

 頭がショートする前に、もう一つ水谷に暴露されたことを謝らなくてはいけない。

 さっきは水谷を心の中で責めたけれど、朱莉だって、水谷の親友の甲斐を好きだと言って、二人を仲違いさせるようなことをしたのだ。

 自分だけ良い恰好をするほど心臓は強くない。ドキドキして酸欠に陥りそうな胸を抑え、朱莉は口を開いた。


「あの、甲斐先輩の名前をお借りして申し訳なかったのですが…」


「分かっているから、言わなくていい。水谷の申し込みを断るために俺の名前を出したんだろ?」


 そんな風に受け止められたとは知らず、朱莉は驚いた。

「ち、違います。本当のことです」


「気を使わなくてもいいよ。実験の時に俺に嫌われたくないから緊張すると朱莉ちゃんが言ったのを、告白だと勘違いして俺はその気になった。でも、俺から話しかけても、どうもそんな素振りも見えないし、さっきテニスの後に呼び止めてぶつかった時も、思いっきり避けられてるからね」


 すっかり状況を拗らせてしまったことを朱莉は悟った。

 甲斐を意識するあまりに、苦手だと勘違いしていて、ぎこちない態度を知らずに取っていたのだから、急に朱莉から好きだと告げられても、甲斐がハイそうですかと信じられるわけがない。

どうやって誤解を解いたらいいんだろう?


「違うんです。あの実験の時言ったことは本当です。嫌ってなんかいません」


「嫌いじゃないんだ。じゃあ、普通の人と同じくらいには格上げされたってことかな?」


「ち、違う!同じなんかじゃない。好きなんです。甲斐先輩のことが好き……」


 さっき怒りで高ぶった感情は、簡単に沸点を極めてしまう。好きだと気持ちがせり上がってきて、涙が出てきた。どうして好きかと聞かれても、今はただ好きだとしか言えない。朱莉はただ、甲斐先輩が好きと繰り返した。


 甲斐の手が遠慮がちに伸びて、頬の前で止まる。きっと朱莉が避けないか確かめているのだろう。こんなことをさせてしまった自分が情けなくて、甲斐に申し訳なくて、朱莉は甲斐の手を取って、手のひらに頬を擦り付けた。


 温かくて大きな手は、朱莉の涙を塗り広げて頬全体を濡らす。甲斐は目を細めて耐えているような表情を見せた。涙が手のひらについて、気持ちが悪かったのだろうかと慌てた朱莉は、顔を横向けて、甲斐の手のひらにチュッと口付けた。


 これで、少しは好きだと伝わっただろうかと、甲斐の顔を見ようとした途端、いきなり抱きしめられて、息を飲んだ。すぐに放してくれたけれど、全力疾走をしたときのように、心臓の音が耳の中でグォングォン鳴って、甲斐の声が遠くに聞こえる。


「直樹には悪いが、俺は本気で朱莉ちゃんと付き合いたい。さっきの優菜ちゃんへのパンチと今のでダブルパンチを食らった気分だ」


「パンチじゃないです」


 あまりの展開についていけず、朱莉はどうでもいい訂正を入れた。


「ああ、引っぱたいたんだったな。いざという時の勇気のある行動に打たれたよ。今のは特に効いた」


 甲斐の手のひらにしたキスを思い出して、朱莉は恥ずかしくて甲斐の顔が見られずに横を向く。


「どうかな?俺が彼では役不足かな?」


「役不足なんて思ってないくせに」


 からかっているようにも、半分挑むようにも見える表情で、甲斐が朱莉の答えを促してくる。甲斐の顔を探りながら、ひょっとしたら朱莉は誘導されて、好きだと本心を言わされたのかもしれないと思った。

 体育館の裏で、甲斐は意見を言える強い人が好きだと言った。甲斐の前なら、朱莉は自然体でいられるのかもしれない。


「時々暴走してもいいなら、彼女にしてください」


「いいよ。俺が受け止めるから」


 じゃあ、よろしくと照れながら握手を求める甲斐を見て、さっきは一瞬だったけれど、もっと大胆なことをしたくせにと、抱きしめられた感覚を思い出して朱莉まで照れてしまった。


 ひしひしと喜びが湧いてきて、感情の赴くまま甲斐の手を取って口元に運ぶと、手のひらに唇の柔らかなパンチをおくった。

 手のひらに温かくて柔らかい感覚を受け止めながら、甲斐は詰めていた息を大きく吐き出し、トリプルショックだと呟いた。




月曜日、ゼミの合同作業が行われている会議室では、朱莉を遠巻きにして、あちらこちらで囁かれる悪意のこもった噂話で満ちていた。


「へ~っ、大人しそうな顔をして、あの優菜さんを叩いて、好きな人を奪ったの?」


「いや、二股かけてたって話も聞いたわ」


 朱莉は少し離れたところで計算をしている優菜を横目で見て、水谷の告白を根に持って、こんなひどい噂を流したのだろうかと、優菜にも、中傷を真に受けて面白おかしく噂話に興じる人たちにも嫌気がさした。


 だから男のことしか頭にない人は苦手なんだってばと、心の中で毒づいて、噂なんて耳に入っていないかのように平然と振舞う。

 覚悟はしていたとはいえ、今の朱莉に味方はいない。突き刺さる周囲の視線が痛かった。


 突然部屋に、バン!とファイルを机に叩きつける音が響き、部屋中の話声がぴたりと止んで、辺りがし~んと静まりかえった。

 無表情の優菜が、先輩たちをジロりと睨む。


「朱莉、部署変えしてもらうように甲斐先輩に言いに行こう。誰が見ていたかしらないけど、人を陥れる嘘をつく人って、最低だよね」


 噂の元は優菜じゃない?はっとした朱莉は、それ以上先輩たちを刺激しないよう、優菜の口を塞ごうとしたが遅かった。それまで優菜に同情的だった先輩たちが、むっとした顔で二人を睨んだ。

 

 その気が無かったとはいえ、優菜の片思いを砕いたのは朱莉だ。恨みこそすれ、助けることなんてないのに、優菜は朱莉を守ろうとしている。

 優菜の自由さに気おされて、今まで優菜に批判的だった先輩たちを味方にできるチャンスだったはずなのに、優菜は違うものは違うと突っぱねた。


「朱莉は二股なんてかけていません。確かに水谷先輩から告白されたみたいですけれど、私が水谷先輩を好きだと知っていたから、断ってくれたんです。友達思いの優しい人です」


「えっ?でも、優菜さんは朱莉さんに叩かれたんじゃないの?水谷さんをめぐって修羅場だったって聞いたわよ」


 先輩の一人が好奇心に勝てず、優菜に質問すると、優菜は大きくかぶりを振った。


「てっきり朱莉が水谷先輩を誘ったのだと勘違いして、頭にきた私が先に朱莉を殴ったんです」


 殴ったなんて大げさだ。違うと朱莉が首を振りながら叫んだのに、あちこちで上がる驚きの声にかき消されてしまった。

 会議室には「え~っ、それは酷い!」と先輩たちの声があちこちで上がって、誰も朱莉に注目しない。


「それを見ていた水谷先輩が、私を罵倒したのを、朱莉が…」


 普通、失恋したことなんて知られたくないはずだ。思い出すだけで辛いだろうに、優菜は全部曝け出して朱莉の汚名を注ごうとしている。


 優菜は損得勘定で付き合ったりはしない。朱莉が原因で失恋したとしても、自分が選んだ友達だから、自分の恥や痛みを晒したって、朱莉の味方につくのだ。


 それなのに、自分は優菜に対してどんな気持ちでいただろう?

 優菜の化粧を否定しながら注意してあげることもせず、テニスは楽しいくせに、優菜に付き合わされているように装い、さっきは噂を流したのは優菜かと疑って、男のことしか頭にないとバカにしたのだ。


 愚かで蔑まれるのは自分の方だ。

 優菜は自由に振舞っているようで、人の機微も捉えている。人が何を言おうが、失敗しようが真っ直ぐでいる。


 過去の失敗に囚われて、したいこと言いたいことを抑え、偽りの自分でしかいられない弱い自分と優菜を、気づかないうちに比較していたから、真っすぐな優菜を苦手に感じたのだ。


「朱莉さん、悪く言ってごめんね」

 先輩たちに謝られて我に返った朱莉は、とんでもないと手を胸の前で振った。


「朱莉よかったね」

 優菜が笑顔を浮かべ、タッチしようと片手を上げる。朱莉は自分の手を押し当ててから、そっと両手で優菜の片手を包んだ。


「優菜、ありがとう」


「友達だもの、当然でしょ」


 その心強い言葉に恥じないよう、自分も成長しなければと朱莉は思った。



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