第8話 告白と爆発


 体育館の西側の通路沿いに植えられたクチナシの香りを、胸一杯に吸い込みながら、朱莉は体育館の壁を背にして置かれたベンチに腰掛けた。


 着替えが終わって、東側の体育館の出入り口で優菜とは別れたが、なかなか話が終わらない優菜に忘れ物をしたからとウソをついて、別れたことが少し気がかりだった。


 でも、今から優菜のいいところを水谷に話すのだから、騙したことは仕方がないと気持ちを切り替えた。目の前の花壇には、6月の代名詞のような紫陽花や、色とりどりのインパチェンスや、薔薇が植えられていて、普段は花に目を留めることも、興味を持つこともなかった朱莉でも、その美しさに惹かれて自然に笑みがこぼれた。


 体育館からは、掛け声とともに、バスケットボールが床でバウンドする重たい衝撃音が聞こえてくる。キュッキュッと体育館シューズが立てる音と、叫び声、そのあとの拍手から想像すると、きっとシュートを決めたのだろう。

 早く来ないかなと北側を見たら、クチナシの垣根沿いに走ってくる水谷が見えた。


 まだ息も整わない水谷が、待たせてごめんと頭を軽く下げて、朱莉の横に腰掛ける。いえいえ、と朱莉が答えて話を待つものの、水谷がなかなか話を切り出さないので、朱莉は居心地が悪くなり、部長のお仕事は大変ですかと聞きながら、副部長の話への誘い水にしてみた。


 ところが水谷は「ああ」とか「うん」とか相槌を打つだけで、それ自体が何だか空返事だ。だんだん苛立ってきた朱莉はとうとうストレートに聞いてみた。


「水谷先輩、お話って何ですか?」

 

 聞いた途端、ぴくりと水谷の身体が揺れた。そして、決心をしたように朱莉の方に向き直った顔は、真剣すぎて、朱莉を不安にさせた。


「あのさ、色々考えたんだけれど、言葉が上手くまとまらないから、そのままずばりと言うけれど、僕とつきあってくれないかな?」


「え~と、サークル上の仕事のパートナーとして、副部長になれということでしょうか?」


「違う。僕は、朱莉ちゃんがゼミに入って以来、ずっと気にかけてきたんだ。ファンだと言ったのは嘘じゃないよ。できればサークル以外でも会ってもらえるかな?もちろん二人でという意味だけれど…」


 予想もしていなかった告白に、朱莉は衝撃を受けた。

 な・な・なんで私?と口を開きかけ、何か言おうとするけれど、まとまらなくてまた閉じる。頭の中では、優菜の顔が瞬いて、朱莉を余計に慌てさせた。

 

 そんな様子に焦れた水谷が、部長であるいつものリードを取り戻したようにたたみかける。


「朱莉ちゃんは僕たち男から見ると、理想に近い女の子なんだ。真面目で優しくて、公平で、飾らないきれいさがあって、このまま男のエゴで汚したくないと思えるような……」


 一体誰のことかと思うほど美化された人物像を聞いて、呆れた朱莉は、こんなロマンチストとつきあったら、欠点だらけの自分を晒すことができずに、苦しくなるだろうと思った。


「盛り過ぎです!私は普通の女子ですから、理想を勝手に押しつけられても困ります」


 水谷の誉め言葉を遮って、ようやく口にした拒否を、水谷がいとも簡単に払いのける。


「いや、そんなつもりは全くないよ。悪かった。僕の思っている朱莉ちゃんと違うなら、僕に本当の朱莉ちゃんを教えてくれないかな?」


 機嫌を損ねてしまったのだろうかと焦った水谷が、ベンチの上で身体を捻って、右手を伸ばして朱莉の左腕をしっかりと掴む。

 普段の爽やかな部長から一転して、男を覗かせた水谷が生々しく感じられて、朱莉は拒否することしか考えられなくなった。


 こんな時に言うのは卑怯かもしれないと思ったけれど、防御のためにさっきからチラついている名前を、苦し紛れに出してしまった。


「水谷先輩、優菜の気持ちを知ってます?」


「ああ。……木下さんが僕のことを、気にかけているのは知っている」


 揺さぶりが効いたのか、緩んだ水谷の手から腕を抜いて、移動して水谷との間を空ける。朱莉は逃げたいのを我慢して、優菜を見てもらえるように、水谷の説得にかかった。


「優菜は水谷先輩のことをとても思っていて、私に話すことと言えば、水谷先輩のことなんです。素直で、真面目で優しいのは優菜の方です。そんな優菜を裏切れません。先輩も優菜を見てあげてもらえませんか」


 お願いだから優菜のことを考えてと思ったのに、水谷は感動したように言った。


「君は本当に、心の中まできれいなんだね。友達思いの朱莉ちゃんを、ますます好きになりそうだ。僕は勧められたからと言って、好きでもない人と付き合うことはできないよ。朱莉ちゃんに好きな人がいるなら別だけれど、僕とのことを真剣に考えてくれないか?」


 なんでこうなる?と焦りながら、好きな人がいれば別という言葉を聞いた途端に、甲斐の顔を思い浮かべた。


 好き?…‥まさか、私は、甲斐先輩のことが好き?


 どきどきとあらゆる感情が押し寄せてくる。

 慄きも、緊張も、甲斐の視線に一喜一憂する自分も、全てが一つに繋がっていく。苦手……じゃない。さっき甲斐が話があるというのを断った時に感じた辛さや、去っていく後ろ姿を見て覚えた寂しいような切なさも、全部、全部、甲斐のことが好きだから感じた気持ちだ。


 突然目隠しが外れたみたいに、自分の気持ちがはっきり見えて、どうしようもないくらいに甲斐の存在が心に溢れてきた。


「ごめんなさい水谷先輩。私…甲斐先輩が好き……みたいです」


 言葉に出すと、余計に好きがはっきりとした形になった。コントロールできないほどの感情のうごめきは、甲斐を思う度に激しくなる。


 目の前に信じられないというように目を見開いて固まった水谷が、ようやくショックから立ち直ったように口を開いた。



「り、隆矢とは、いつ親しくなったの?まさか、優菜ちゃんと僕をくっつけるために、隆矢の名前を出したんじゃないよね?」


 水谷にとって、甲斐は親友だ。朱莉を諦めさせるために、親友である甲斐の名前を出したと疑われても仕方がない。

 傍から見たら、甲斐を怖がっているようにしか見えなかった朱莉が、甲斐を好きだと言うのを聞いて驚くのは当たり前だろう。


 誤った態度を取り続けたために、水谷に余計な告白をさせてしまい、朱莉は罪悪感を覚えたが、もう、自分の気持ちをもう誤魔化すことはできなかった。


「ごめんなさい。自分で自分の気持ちが分かっていなかったんです。甲斐先輩に嫌われたくないから、私はいつも緊張していたんだって、今分かって……」


 涙が溢れてきた。自分が甲斐にとっていた態度は最悪だ。朱莉が甲斐を嫌っていると知りながら、甲斐は苦手な人との仲を向上するための実験につきあったと言っていた。


 甲斐の心の広さを知って申し訳なくて泣いた時、甲斐は朱莉が泣いてるのを見ないようにティッシュを差し出してくれた。でも、悪いタイミングで入った実験の指令を朱莉が断ったのを、自分の親切を断られたと勘違いした甲斐が傷つくよと言ったのを思い出した。朱莉はどれだけ甲斐に嫌な気持ちを味合わせたのだろうと、思い返すだけで居たたまれない気持ちになった。


 今更、甲斐に好きだとどう伝えればいいのだろう?さんざん嫌な態度を取っていた女から好きですと言われても、信じるわけがないと思う。現に側にいた水谷だってこんなに驚いているのだ。


「自分が情けないです。私の勝手な片思いだから言わないで下さい」


 手の甲で涙を拭いた朱莉を、水谷は優しく見つめて、肩にそっと手をおいた。


「自己完結しないで、隆矢に話してみてごらん。あんまり勧めたくはなかったけれど、朱莉ちゃんが泣くのを見るのは嫌だかからね。一応アドバイスしておくよ」


「ありがとうございます。先輩は優しいですね。私が優菜の気持ちを言ったのも内緒にしてください。優菜は先輩に好かれてないのを分かっているから、告白したら終わっちゃうって悲しそうに言ったんです。私のせいで先輩が優菜を避けたら、本当に自分を許せなくなりそうです」


「そっか。優菜ちゃんは、大胆に見えて、案外繊細なところがあるんだな。分かった。態度は変えないから安心して。朱莉ちゃんも、僕に対して普通に接してくれるとありがたい」


 朱莉は頷いてから、水谷にお礼を言うと、晴れない心のまま、体育館の西側のクチナシの生垣の道を歩いていき、北側へ出るために右に曲がった。


 ところが、角を曲がった途端、目を吊り上げた優菜と出くわし、朱莉は飛び上がるほど驚いた。


「どうして私に内緒で水谷先輩と会っていたの?」


「そ、それは、副部長を断ったからそのことで説得されて…‥」


「うそ!それならみんなの前で話したっていいじゃない。一体二人で何を話していたの?」


 優菜が朱莉を睨みつけながら、二人の一歩間をつめる。朱莉は優菜の気迫に押されて一歩退いた。


「私が水谷先輩を思っているのを知っていて、朱莉は裏切ったの!?」


 こんなに取り乱した優菜を見るのは初めてだった。激しい怒りを握りつぶそうとでもいうように、力を入れて白くなったこぶしがぶるぶる震えている。いつもの可愛くすました優菜はどこにいったのだろう?まるで別人だ。


「誤解だってば。私と水谷先輩は何でもないよ」


「嘘つき!水谷先輩は朱莉の腕や肩に触っていたわ。なんで?どうして私に内緒で、会ったりするのよ?」


 優菜が朱莉の腕を掴んできた。振り払おうとしてもすごい力を込められて、腕が痛んだ。最初の驚きが落ち着くと、何でこんな目に合わなくちゃいけないんだろうと、朱莉はだんだん腹が立ってきた。


「放してよ。痛いってば!優菜の気持ちを知ってるから、誘ってなんかいないし、裏切ってない!それに、ちゃんと断ってる」


 普段はあまり感情を見せない朱莉が叫んだので、驚いた優菜が朱莉を揺さぶるのを留めた。だが、次の瞬間、断ったという意味を理解した優菜の目から、真っ黒な涙がどくどくとこぼれた。マスカラを溶かした何本もの筋が恨みの模様のように朱莉の目に突き刺さる。


「どうして先輩が朱莉のこと…‥ひどいじゃない!こんなにも好きなのに」


 体育館の壁に、優菜の悲痛な叫びが反射して辺りを包む。優菜に押されていつの間にか建物の角に立っていた朱莉は、いつの間に来たのか北側の通路に佇む甲斐を認めて、まるで心臓が捩じられるかのような痛みを覚えた。


 今、この状況だけ見たら、自分は友人の恋人を奪った性悪女に見えるだろう。


 最低だ!甲斐を好きだと自覚したとたん、こんなことに巻き込まれるなんて!とにかくこの場から逃げなくちゃ。


「優菜、落ち着いて。ねっ?ちゃんと説明するから、場所を変えよう。その前に……」


 激しく泣きじゃくる自分の声で朱莉の声が聞こえないのか、優菜はただ首を振りながら、引き離されまいとして、また朱莉の腕を掴む手に力を入れる。

 朱莉は身を捩りながら、片手ずつ優菜の手を強引に外すと、マスカラで汚れた頬を拭こうと手を伸ばした。


 朱莉が乱暴ともいえる仕草で優菜の手を振りほどいたのと、いきなり視界に入ってきた朱莉の手に驚いた優菜は、朱莉が反撃すると勘違いして、いやっといいながら、手を振り回した。


 パシッと乾いた音が響き、朱莉は頬に焼け付くような熱さを感じた。

 一瞬の出来事に、朱莉は動くことも声を出すこともできずに瞠目した。


 どうして、私がこんな目に合わなきゃいけないの!? 

 いつもなら自分から関わったりしないのに、私は、優菜を、優菜の気持ちを何とかして、水谷先輩に伝えたいと思ったんだよ? 


 何で、よりにも寄って、好きな人の前で叩かれなきゃいけないの? これじゃ本当に優菜から水谷先輩を略奪したみたいじゃない。


 甲斐が驚いてこっちを見てる。違う!違う!私じゃない。私は何も悪いことをしていない!

 必死で首を振った。甲斐しか目に入ってなかった朱莉は、いきなり右斜め後ろからかけられた声に、冷水を浴びせられたように背中がヒヤリと冷たく感じて身を竦めた。


「朱莉ちゃん、大丈夫か?」


 今は一番ここに居て欲しくない水谷が、冷たい目で優菜を見下ろしていた。

「感情的になって、乱暴する女性は好きじゃないな。誘ったのは朱莉ちゃんじゃなくて、僕から告白したんだ。でも朱莉ちゃんは…」


 朱莉はハッとした。建物の角を挟んで水谷からは甲斐が見えない。その先を言わないでと、朱莉は首を振ったが、水谷は朱莉を悪者にしたくないらしい。


「朱莉ちゃんは、隆矢が好きだからと言って、僕の告白を断ったばかりか、優菜ちゃんのことを僕にアピールしたんだよ。それを話も聞こうとせずにぶつなんて…」


 何てこと!秘密にしてって頼んだのに、死角だとはいえ、甲斐の前で私が彼を好きってことを言うなんて!

 感情がカオスだ。優菜の勘違いにも腹が立ったが、その原因を作った水谷にも腹が立った。


 水谷に好意を垂れ流している優菜の友人を口説けば、争いが起きるのは目に見えている。それなのに、二人の関係に振り回されたばかりか、甲斐にまで知られたくなかった感情をバラされるなんて、最悪だ!


 ああ、サーモスタットが焼き切れそう。だめだ!怒ったらだめだ!

 でも、でも、我慢するのも、限界だ!いい顔ばかりして望まぬ結果を招くなら、全員に嫌われてしまえ!

 朱莉は前に踏み出して、優菜の頬を思いっきり引っぱたいていた。


「優菜、これでおあいこ。優菜がどんなに水谷先輩のことを好きだか知っているから、私が誘惑したと勘違いしたことを、これで許してあげる」


 いきなり打たれて目をみはった優菜からくるりと背を向け、怒りでキラキラ光る目を水谷に向けた朱莉は、ぞんざいに言い放った。


「水谷先輩、私と優菜は、男同志のように喧嘩できるほど仲がいいんです。優菜のは打ったんじゃなくて、たまたま振り回した手が、私の頬に当たったんです。でも、私は偶然でも、倍返しするほど気が強いんで、水谷先輩が一番幻滅されるタイプだと思います」


 話すうちにだんだん朱莉は自分を取り戻してきた。水谷に嫌われるのは本望だ。優菜だって最初から苦手な存在なんだから、嫌われたってどうってことない。  

 でも、だったらどうして、私は優菜をかばって、仲の良いフリを続けるのだろう?頭のどこかにそんな疑問が湧いたけれど、滑り出した言葉は止まらない。


「私は好きな人の前でも、乱暴な地を曝け出せるほど粗野な人間ですが、優菜は水谷先輩に見られたくなかったと思います。優菜のは本気の恋だから‥‥」


 しゃくりあげる優菜の声が、朱莉の話の邪魔をする。人がせっかく水谷に幻滅されるように仕向けているのに…。

 勘違いから私に当たった無様な様子を、好きな人に見られて泣くくらいなら、最初から水谷に本気でぶつかって、振られてから泣け!と朱莉は言いたくなった。


 ほんとうに……泣きたいのはこっちだ。


 怒り過ぎれば、いつもは抑えている気の強さが暴走して、相手を傷つけることになるからと、今までいい子でやって来たのに…。

 これで月曜から気の強い暴力女のレッテルを貼られて、ゼミどころか学校内でも戦々恐々とされるだろう。


 また、あの小学校の時みたいに、私の周囲から誰もいなくなるのだ。繰り返したくなかったのに!そう思うと新たな怒りが湧いて来る。

 一度解き放った感情は、朱莉を食らいつくそうと暴れまわる。三人の顔を見たら、また余計なことを言いそうで、朱莉はぐっと奥歯を噛み締め、黙って優菜をかわして歩き出した。


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