第7話 甲斐 vs. 水谷

 次の日、体育館の更衣室で、優菜と朱莉はお互いのテニスウェアに採点をしあった。

 優菜はかわいい薄桃色のテニスウェアを着て、どう?と胸を張る。ひらりと翻るスコートがいかにも男性視線を意識したなという気がするけれど、さすがに悩んで決めただけあって、いい線をいっていると朱莉は思い、90点をつけた。


「え~っ、100点だと思ったのに」


 少し色が濃いピンクの口紅を塗った優菜の唇が尖ったけれど、朱莉のコーディネートには、100点をつけてくれた。


「嘘!こんなので100点くれるの?優菜は意外に点数をつけるのが甘いのね」


「朱莉にしては思い切ったコーデで、すごく似合っていて良いと思う。あっ、言い忘れたけれど、100点中、50点はコーディネートのアドバイス点が加算されているから」


「何それ?じゃあ、結局本当の点数は50点じゃない!」


 二人は笑いながら着替えを済ませ、4面並んだ屋外のテニスコートに出て行くと、水谷から20人ほどのサークルメンバーに紹介された。

 院生や社会人を合わせるとかなりの数になるそうだが、普段は15、6人程度で活動しているらしい。


 紹介の途中で、水谷がやたらこちらを見てくるので、優菜がもじもじと朱莉のビスチェの裾を引っ張ってくる。見ていて可愛いとは思ったが、フリンジが伸びそうで閉口してしまった。


 これ以上ほつれさせないでよと優菜を突っついたが、一旦放しても、すぐにまた掴んでくる。横目でやめるように訴えようと見たら、慣れたと思っていた優菜のフルメイクが、スポーツ用のあっさりしたメイクを施した女の子たちの中で、かなり浮いているのに気が付いた。


 いつにも増して盛った睫毛はまるで食中花のようだ。アイラインからシャドーまでばっちりと決めているのが、薄桃色のテニスウェアにはまるで合っていない。


 人々の優菜に向ける好奇心一杯の視線に気が付き、こんなことなら、やっぱり一緒にテニスウェアを買いに行って、一言注意すれば良かったと、苦い後悔が湧いて来る。


 自分の感情を抑えて、周囲から注目を浴びないようにするあまり、友人に対しても、踏み込まない癖がついていたのかもしれない。

 何だか急に、自分が薄情な人間に思えて居たたまれなくなり、優菜から視線を外して反対の方を向いた。すると、こちらをじっと見ている甲斐と目があう。


 広い肩幅や厚みのある身体は、真っ白なテニスウェアに包まれてまぶしいほどだ。どきどき心臓が炙るようで、息まで苦しくなってくる。

 最近は目が合うと、微笑んでくれるようになったのに、どうしてか今日の甲斐は表情を崩さない。


 甲斐の視線が、ゆっくりと朱莉の顔から下がっていき、胸や脚の辺りで一旦止まり、足元まで行くのに耐えていたら、足が震えて力が抜けそうになった。


 視線を上げた甲斐は、怖いくらい真剣な表情をして朱莉を見つめてくる。

 朱莉は甲斐に、そんなに見つめたら苦しいよと心の中で訴えてみたが、甲斐の視線は揺るがない。


 どうして、そんなに怖い顔をするのだろう?この格好が気に入らないのだろうか?でも、代わりのウェアは持っていない。とてもショックで、甲斐の目の前から消えてしまいたくなった。


 軽い準備体操の後、テニスのレベルに合わせて組み分けがされ、球をコートに打ち込む練習や、返す練習をしていると、隣で練習している先輩たちの話が耳に入ってきた。甲斐の名前が出たのが気になって、朱莉はつい聞き耳を立ててしまう。


「今日の水谷部長と甲斐さん、何かおかしくない?いつもなら一緒にいるのに、今日は全然しゃべらないの」


「私もそう思った。二人ともなんか緊張して、ぴりぴりしている感じがする」


 そうなんだ。甲斐の表情が硬かったのは、別の理由があるかもしれないと朱莉が少しほっとした時、メンバーたちがざわつき始めた。


 どうやら、いつもダブルスで練習試合をするのに、1ゲームだけ二人でやらせてくれと甲斐が水谷に試合を申し込んだらしい。甲斐はいつもみんなの動向を見守っているところがあるだけに、率先して戦いを挑むのが珍しいらしく、甲斐さんどうしたんだろうとあちこちで囁きが漏れた。


 1ゲーム4ポイント先取で勝ち負けが決まるテニスでは、1ゲームだけで決着をつけるなら、最初のサービス権を握った方が、断然有利になる。それを知りながら、甲斐はあえて水谷に譲った。


 メンバーたちが練習をやめ、固唾をのんで二人の試合を見つめる中、審判のコールで試合が始まった。


 水谷が2回ボールをコートで弾ませると、ボールを上にあげ、コートに対して横向きで立っていた身体に捻りを加え、腕の回転とともにラインすれすれの内側を狙って打ち込んだ。バーンとラケットがボールを打った音に、飛び上がった優菜が朱莉の腕に抱き着いてくる。


「水谷先輩、頑張…‥」


 優菜が全てを言い終わらないうちに、身体を左右に揺らし、どちらにボールが飛んで来ても、瞬時に動けるようにしていた甲斐が、ダッシュしてボールに追いつき打ち返す。

 今度は朱莉が優菜の腕をぎゅっと握った。

 朱莉も優菜もテニスのルールは詳しくない。でも、二人の強い気迫がコートに満ちていて、真剣勝負なんだということが伝わってきた。


「すごい」


 周囲からも、静かな驚嘆が口々にのぼり、ネットすれすれに行きかうボールの行方を追う。そして、甲斐と水谷が駆け引きを始めたことで、ラリーはより難易度の高いものになった。


 水谷はパワーの面では甲斐に劣るるので、ミスを狙って甲斐がバックハンドで打つ方面にボールを集中して打ち返す。甲斐はすばしっこさでは水谷に劣るので、体力の消耗を狙って、打ち返すボールをコートの左右に振る。


 最初は甲斐のミスで、打ち返したボールがアウトになった。

 優菜がやったと喜びの表情で朱莉を揺するが、朱莉は面白くない。

 ただでさえ、サービス権を持っている水谷は有利なのに、ミスを誘うなんて許せない。正々堂々と戦ってよと応援の拳に力が入る。


 ところが、ラリーを続けるうちに、水谷の脚が遅くなった。広いコートを左右前後に振られては、さすがの俊足にも、限界が迫りっつあるようだ。


「15‐15」


 審判のコールに、朱莉は思わずガッツポーズをしていた。


「あんなに動かされたら水谷先輩かわいそう。甲斐先輩ずるいよ」


「ずるくない!水谷先輩だって、甲斐先輩が打ちにくい方ばかり狙ってるもん」


 朱莉はきっぱり言い切って、優菜の反論を待ったが、優菜は目をまん丸くして朱莉を見つめている。


「びっくりした。朱莉がそんなに感情的になるなんて初めて見た」


「えっと、だって、ほら、その……。ごめん。優菜は水谷先輩ファンだったね」


「ううん。びっくりしたけれど、朱莉が甲斐先輩のこと苦手じゃなくなって良かったなって思う。それどころか……」


 朱莉を見てにやついた優菜が、パーンとサーブを打つ音に反応して、コートを振り返った。朱莉も優菜の言葉よりも、ゲームが気になり、両手をぐっと握りこんで、心の中で甲斐に声援を送る。


 ラリーが続き、40‐40になったところで、甲斐が試合中止を求めた。

 水谷はかなり脚に来ているので、このまま続ければ甲斐が有利なのではと思っていた仲間たちは少し驚いたが、延長するとみんなの練習を妨げるからという甲斐の意見に頷いて、それ以降はいつものメニューに戻った。


 初心者を指導する先輩たちに呼ばれて、朱莉もコートを移動しようとしたが、ふと視線を感じて振り向くと、甲斐が少しだけ唇を上げて朱莉を見ているのに気が付いた。


 引き分けではあったけれど、朱莉には甲斐の勝利が見えていた。だから朱莉もおめでとうと言うつもりで、他の人に分からないようにほんの少し口角を上げた。


 朱莉の気持ちを受け止めたのか、甲斐が安堵したように柔らかく微笑む。

 その笑顔を目にした途端、朱莉の中で切ないような感情が渦巻いた。

 胸が絞られるようなこの感覚は何?一体私は、どうしてしまったんだろう?


 朱莉の顔に困惑する表情が浮かんだ途端、甲斐の笑顔がふっと消え、表情が引き締まった。

 違う、あなたの笑顔が困らせたわけじゃないと、朱莉が小さく首を振ると、甲斐の目に、自信とも決意ともつかない光が宿ったように感じたのは目の錯覚だろうか?


 後ろから先輩たちが朱莉を呼ぶ声が聞こえる。甲斐の側に行って確かめたくなる感情を堪え、朱莉は優菜が再び呼んだのに答えて踵を返した。


 朝9時から始まった2時間の練習はあっという間に過ぎた。

 簡単な体操を済ませると、みんなは一度集まって連絡事項を聞いてから解散になる。水谷が今度は新入生歓迎会も兼ねて、バーベキューでもやろうかと訊ねると、やった~と歓声が上がった。そして、それぞれが更衣室へ歩きだしたところで、水谷が朱莉と優菜の側にやってきた。


「二人とも、どうだった?」


 優菜が重そうな睫毛を瞬いて、楽しかったけれど結構ハードだったと伝えると、水谷が甲斐との真剣勝負を思い出したのか、照れ臭そうに頭をかいて、言い訳をする。


「今日はかわいい新入生がいるせいか、僕と甲斐も含めて、みんな張り切ってしまったみたいだ。いつもはもう少し和気あいあいとして緩いから安心して」


「そんな、水谷先輩の頭脳プレイが見られて最高でした。ものすごくお上手なんですね。私も先輩みたいに上手くなれるよう、頑張って練習しようと思います。上達するための秘訣とか教えてもらえたら嬉しいです」


「あ・ありがとう。優菜ちゃん。朱莉ちゃんはどうだった?楽しんでもらえたかな?」


 優菜の好きですモード全開に押され、たじたじとなった水谷が、朱莉に話しを振ってくる。優菜が途端にがっかりとする様子が目に入り、朱莉は柄にもなく何とかしてあげたいと思った。


 水谷は誰とでも話せる社交的な人間だ。優菜だって物おじしないし、上手くいけば気が合って良いカップルになるんじゃないかと朱莉は踏んでいる。


 水谷とはこの後、副部長のことで話をする予定だから、朱莉はその時に優菜を売り込んでみようと思った。まずはご機嫌を取っておいた方がいいかもしれない。


「優菜の言う通り、水谷先輩と甲斐先輩の試合素晴らしかったです。お二人ともテニス歴は長いんですか?」


「いや、大学に入ってからだよ。僕も隆矢も高校時代は別々の部活をやっていたからね。朱莉ちゃんも、優菜ちゃんもすぐに上手くなるよ」


 だから、サークルを続けて欲しいと水谷は朱莉に向って言った。

 これだけ人数がいるとまとめるのが大変だから、今から部長候補を育てておきたいのかなと朱莉は推測し、あまり人と深く関わりたくない自分には無理だと曖昧に笑って誤魔化した。


 水谷が去ると、かっこよかった~と優菜が身体をくねらせて喜んでいる。

 あまりにも素直過ぎて、自分には絶対に真似ができないと、朱莉は心底感心してしまった。


 着替えをするために、コートの西側にある体育館の更衣室をめざして歩いていたら、お疲れと後ろから声をかけられ、朱莉はその声に反応してぴたっと立ち止まった。


 二人に追いつこうとしたのか、急ぎ足で歩いていた甲斐が、急に止まった朱莉の肩にぶつかりそうになって、細い肩を手で覆って衝撃を防いだ。

 大きな手に肩を掴まれて驚いた朱莉が振り返ると、朱莉の顔を覗き込もうとしていた甲斐と間近で顔を見合わせる形になった。息さえもかかりそうな距離に驚いて、朱莉は咄嗟に甲斐の手から離れ、優菜に身を寄せてしまう。


「驚かせてごめん」


 甲斐が申し訳なさそうに言うのに、何とか答えようとするが、肩に残る手の感覚と熱で動揺して、上手く答えられない。それを察して優菜が朱莉の代弁をした。


「甲斐先輩みたいな大きな人にガシッと掴まれたら、朱莉みたいに大人しい子はびっくりして声も出せないですよ。何を食べたらそんな立派な体格になるんですか?」


「優菜ちゃん、ひどくないか?俺くらいの身長なら他にもいるだろう?体格が良くなったのは、ワンダーフォーゲル部にいた頃、重い荷物を背負って歩くトレーニングで鍛えられたからだよ」


「ふ~ん。そうなんだって、朱莉」


 えっ?どうしてそこで私に振る?と焦りながらも、朱莉は優菜の話術に舌を巻いた。朱莉の知らなかったことが、優菜の誘導で、甲斐の口から次から次へと語られる。


 コミュ力のある優菜には、作った可愛さなんかいらないと思う。水谷の前でもいつもこうやって自然に話している方が断然いいのにと朱莉は残念に思った。

 ただ、それを面と向かっていうのは、勇気がいるし、難しい。男に媚びるのをやめたら?というのは、どんなに婉曲したって、言う方にもいやらしさがでるからだ。


「それでね、朱莉にショートパンツの上には何を着たらいいかって聞かれたんです。甲斐先輩ならどんなのが朱莉に似合うと思いますか」


 ちょ、ちょっと待ってと優菜を止めようとしたけれど、優菜は気にもしない。おかげで甲斐が、そうだなと言いながら、まぶしそうな表情で朱莉を上から下まで視線でなぞる。

 さきほどのような強い視線ではないけれど、かなり短い丈のデニムからはみ出している脚を見られるのが恥ずかしくて、朱莉はもじもじしてしまった。


「朱莉ちゃんんは、名前の通りオレンジ系や、はっきりした色でも似あうと思うよ。でも、そのショートパンツは個人的な意見としてやめて欲しい」


「や、やっぱり、似合いませんよね?すみません。テニスウェアを用意します」


 練習中に甲斐が怖い顔をしていたのは、やはりこれが原因だったのかと思った朱莉は、甲斐の前で脚を晒すのが余計に居たたまれなくなった。


「いや、違う。スタイルもいいし、とっても似合っていると思う」


「じゃあ、どうしてだめなんですか?」


 それは…といいながら、甲斐の目が優菜を気にしている。人前で傷つけたくないから本当の理由を言わないのだろうかと、言いようのないショックを受けた。


「朱莉ちゃん。この後少し時間を取れないか?話がしたいんだ」


 多分、副部長の話だろうと朱莉は思った。この後水谷と話すから、一緒に混ざればいい気がするけれど、水谷は二人きりで話したいと言っていた。

 きっと絶対に断らせないようにガチで説得されるのだろ。


 でも、今日のようなすごい試合を見られるなら、副部長の話は抜きで、朱莉はサークルを続けてもいいと思っている。水谷に、副部長を受けるのは嫌だと言えば、話は長引くかもしれない。できるなら、甲斐を味方に巻き込んで、断るのを手伝ってもらえればいいのだけれど、水谷と会うことを優菜に聞かれたくない理由がある。今から優菜のことを、水谷に売り込むつもりでいるから、秘密にしたいのだ。


「ごめんなさい。この後予定があるんです」


「誰かと会うの?」


「ええ、ちょっと……」


 甲斐が表情を隠して目を伏せたので、予定なんかないと言い直したくなった。でも、甲斐は分かったと呟くと、また、今度と言って、足早に体育館へと去っていった。


「朱莉、いいの?甲斐先輩、大事な話をしたかったんだと思うよ」


 優菜が心配そうに聞くので、余計に後悔が広がって、不安になった朱莉は、話の矛先を優菜に振った。


「私のことより、優菜はどうなの?水谷先輩に告白すればいいのに」


「絶対に無理!」


 優菜が首を振って、あまりにもきっぱり言い切ったので、朱莉はどうして?といいながら優菜を突っついた。


「あんなにも好きですオーラを全開にしてるんだから、絶対に伝わっていると思うよ。いつもの押の強さで言っちゃえばいいのに」


「だって、見てれば分かるもん。水谷先輩は私のことを好きじゃない。告って断られたら終わりじゃない。何も言わずに冗談みたいに迫っているうちは、側にいられるもの」


「優菜……」


 いつも明るい口調で、はっきりと自分を主張する優菜は、怖いものなんてないかと思っていた。でも、その内面に傷つきやすい女の子が見えて、朱莉は純真で健気な片思いを心から応援したくなった。


「ねぇ、朱莉、用事が済むまで待ってたらだめ?」


「……ごめん。今日はちょっと……」


「分かった。時間があったら、朱莉のテニスウェアを見に行ってもいいかなって思ったんだけれど、甲斐先輩よりも優先することなら、私の誘いも通らないよね。じゃあ、着替えに行こう」


 優菜が歩き出したので、つられて朱莉も歩きだしたが、甲斐の誘いを断ったのがいまさらながらに残念で堪らなくなった。

 寂しいような、泣きたくなるようなこんな切ない思いはどこから湧いてくるんだろう。


 副部長を引き受けると言えば、水谷との話は早く終わるだろうか?そうしたら甲斐にすぐ連絡して……と思った時、朱莉は甲斐のスマホの番号さえ知らないことに気がついた。


 どうせ番号を教えるのだったら、水谷だけじゃなくて甲斐にも教えておいてくれたらよかったのにと、朱莉は心の中で、優菜の背中に文句を言った。




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