第6話 兄、晃良のアドバイス
ああ、なんて生意気なことを言っちゃったんだろう!
朱莉は家に帰ってからも、自分の言葉を思い出しては、身の縮む思いに頭を抱えるという挙動不審な動作を繰り返した。
朱莉の様子がおかしいことに気が付いた兄の晃良が、どうしたと声をかけてきたので、朱莉は迷った末に話し始めた。
「例えば、ものすごくバリバリ仕事ができて、察しも良くて、見栄えも良くて、いかにもリーダーという人がいるとするじゃない?」
「大学にいるの?」
「だから、例えばの話だってば!」
晃良はくすっと笑いながら、うん、それで?と朱莉に先を促してくる。
朱莉は唇を突き出したが、いつも冷静な兄の、しかも男の人としての意見を聞きたくて、話を続けた。
「でね、その人のお家が事業をやっていて、これからAI化が進む中で淘汰されるかもしれない職種だとするでしょ。それで、その人から生き残るための意見を求められたとする。もし、すぐに家の家業を継ぐのではなくて、就業形態がどうなるかを探るために、大手企業に就職してみてはどうかと提案したとしたら、無責任な発言になるかしら?」
「ふぅ~ん、相手は3年生か4年生ということか」
「だから、架空の人だってば!」
ムキになる朱莉を見て、くっくっと笑う晃良には、過去のいじめられていた弱いイメージは見当たらない。大人しくて、がりがりだった兄を、そんなにひ弱だからいじめられるんだと、いじめた張本人の安藤と工藤が勝手なことを言いながら、遊びに引っ張り込むようになり、身体も少しずつ鍛えられ、笑顔が増えていったからだ。
今では平均身長はあるし、友人たちに囲まれて、忙しい大学生活を送っている。
「朱莉はその架空の人物に、どう受け取られると嫌なんだい?」
「えっ?それは、その人のお家を軽くみたとか、知りもしないで勝手で生意気なことを言うとか…‥かな」
「そんなことを言いそうな、了見の狭い人なのか?」
「まさか!参考になったとお礼を言われたわ。甲斐先輩は、ものすごく頭が良くて、後輩たちの意見にも耳を傾けてくれるし、嫌な実験にも黙って参加してくれるの。でも私は、嫌われたくなくてテンパって、いつもへまばっかりしちゃうの。苦手なりに頑張って認められたいのに…‥」
最初はにやにやして聞いていた晃良は、朱莉の言葉がネガティブになっていくので慌てて止めた。
「待って朱莉。何だか言ってることがめちゃくちゃだ。聞いている限りでは、周囲からも認められるものすごく良い男に聞こえるけれど、朱莉はその人が苦手なの?」
「えっと、多分、心理学の人も甲斐先輩もそうだろうって言ってたし、私も先輩を見るとどきどきして緊張するから、かなり苦手なんだと思う。これでも、自分から話しかけられるようになったし、努力はしてるのよ。何とか克服しようと頑張ってるの」
「う~ん。実際見ていないから、何とも言えないけれど、ものすごくズレている感じがしないでもないな。でも僕は人について先入観で判断することは避けているんだ。じゃないと、悪いと思っている奴はいつまでも悪いままで、仲良くなれないだろ?」
朱莉は、兄の強さに感心した。もう守ってあげた病弱で泣き虫だった小さな男の子はどこにもいない。役割はとうに終えていると分かっていても、自分だけが感情を爆発させた時の失態に囚われていて、前に進めないでいる。兄との差が開くばかりよのうに感じて寂しくなった。
「僕は朱莉に感謝してるんだ。あの時、朱莉が安藤と工藤に殴り込みに行ってくれなかったら、きっと誰も間違いに気が付かなかったと思う。僕は僕で自分の価値を認められずに、捻くれてしまったかもしれないしね」
「何?急に?先輩に言い過ぎて落ち込んでいるのを、慰めてくれようとしてくれてるの?」
「いや、慰めじゃなくて心配だから……。安藤と工藤が上手く立ち回ったから、お笑いで済んだけれど、最初は、学年が下の女の子が、リーダー格の男の子2人をボコボコにしたと噂が広がって、朱莉はみんなから怖がられていただろ?遊びにも誘われなくなって、当時落ち込んでいたよね?あの時からかな、朱莉は外ではあまり感情を見せなくなったような気がするんだ」
朱莉は思わず身構えた。弱点を指摘されると、人は傷つけられないように反論をしたくなる。朱莉も反射的に、それが何?悪いこと?と晃良を睨んでいた。
「元から冷静に判断できる人と、本当は豊かな感情があるのに、それを抑えつけてクールに振舞っているのとでは、人が受ける印象と、自分の中身があまりにも違って、どこかで
「ふ~んだ。1年しか違わないんだから、そのくらい私にだって分かってますよ~だ。それで、最初の答えは?私が言ったことは、男性にしてみれば生意気に思う?」
「甲斐さんと、もっと話す機会を持ってごらん。今みたいに自分を飾らずにね」
そう言うと、晃良は家庭教師のバイトに行くために、リビングに置いてあった自分の荷物を持って、玄関へと向かった。
答えになっていないと朱莉はふて腐れたが、優菜からテニスのラケットやウェアはどうするというラインがきたので、そういえばシューズも無いと、頭がテニスサークルに参加するための準備に切り替わった。手始めに借りるものと揃えるものの相談をするうちに、晃良の言葉はすっかり頭の隅においやられてしまったのだった。
1年だけのゼミの講義が終わった時、朱莉は、スマホを見せあいながら騒いでいるゼミ仲間の横を通り過ぎた。
「甲斐先輩ってかっこよくない?合同作業は別だから会えないけれど、この間、違う先輩を訪ねて行った時に、何人かと一緒に写してもらっちゃった」
「どれどれ?ふ~ん。大きいね。確かにかっこいいけれど、濃いのは好みじゃないな。私は水谷先輩のさっぱり顔の方がいいかも」
「え~っ!?絶対甲斐先輩の方がいいよ~!
何人もが賛成と言ったのを聞いて、どんな顔の甲斐が映っているのか、朱莉は思わず覗き込みたくなった。だが、授業が終わった後の出入り口は、ただでさえ混雑しているので、立ち止まっては邪魔になる。人波に押されて、廊下へと吐き出された。
自分が苦手だからと言って、他の人もそうかというと、違うのだということを改めて知った。
確かに甲斐も、水谷もタイプは全く違うけれど、平均以上のルックスだと朱莉は思う。いや、かなり上か……。
それに、彫が深いだけで、濃いのは好みじゃないと言った人は、何の特徴の無い顔をしている。それよりは、はっきりとして整った顔の方がよっぽどいいと思う。ルックスだけじゃなくて、中身も優秀だということで判断してあげないと不公平だ。
そう思いながら、甲斐の方がいいと言った女の子たちのはしゃぎようを見ると、それはそれで行き過ぎだと思う。
いまさらのように、甲斐がもてはやされるのを聞いて、朱莉はなぜだか不快な気分を味わった。
何だろう?このもやもやする気持ちや、イライラは……。
例えるなら、穴場のカフェが口コミで広がって、知らない間に有名店になってしまい、いつ行っても満席で、はじき出されたという感じに近いのだろうか。
いや違う。その場合は最初から気にっていたことになるから、今回のは……。朱莉が額にしわを寄せて、自分の気持ちを分析しようとしていると、優菜が購入予定のテニスウェアの写真を見せてきた。
「これ、どう思う?かわいいかな?水谷先輩の好きな色って何色だと思う?」
「まだ、入るかどうかも分からないのに、テニスウェアを買っちゃうの?ラインで話した時は、持っている服で様子見るって言ってたのに」
「そうだけれど、さっきの女の子たちの話を聞いて、甲斐先輩や、水谷先輩はもてるって分かったから、なるべく近くにいて、目に留まるようにアピールした方がいいと思ったの」
朱莉は、テニスサークルに朱莉たちを勧誘した水谷の顔を立てるために、一度見学してから、自分には無理そうだと言って断るつもりだった。
でも、これは1回では済まない。絶対に長期戦になるだろう。
「ごめん、優菜。やっぱり私やめとくわ。優菜だけ入っても問題ないんじゃないかな?」
「それはだめよ!テニスサークルって、新入生から副部長を選ぶ決まりがあるらしいの。それで朱莉を推したら、通っちゃったみたいなの」
「はぁ~~!?何で勝手に推薦するのよ?」
「だって、朱莉はしっかりしてるから適任だもの。あっ、次の講義この部屋だから行くね。朱莉とは別だよね?またあとでね」
してやられたという衝撃で、朱莉はその場に固まってしまい、手を振ってドアの中に入っていく優菜を見送るかたちになった。
そりゃ、自分はいいでしょう。入部すれば、大好きな水谷先輩のそばに居られるし、かわいいテニスウェアを着て、テニスの素振りでも教えてもらえばいいんだから。でも、私は別にテニスをやりたいわけじゃない!
朱莉は次の授業がある教室まで歩きながら、思わず文句を呟いた。
サークルには、就職した先輩たちも来るから、朱莉たちが就活の時に、その会社の新人発掘担当者に口をきいてもらえる可能性があると甲斐は言っていたけれど、まだ1年生になったばかりの朱莉にはピンとこない。
確かに甲斐と親しくなって、苦手意識を無くすにはちょうどいい機会かもしれないけれど、甲斐はどうやら女の子たちにもてるようだ。甲斐のためにかわいいテニスウェアを着た女の子たちを押しのけて、仲良くなりましょうなんて言う勇気もないし、状況的に変だ。
その時に私は何を着るんだろうか?甲斐はどんなテニスウェアが好きなんだろうか?かわいい系?それともシンプル系?はたと気が付いた朱莉は、ああ、これじゃあ、優菜と同じレベルだと頭を振る。
自分の考えがどこに向かっているのか分からなくなり、副部長をやらされることも考えると、面倒くさいと言葉がこぼれた。
それを咎めるように、ヴィ―ッとスマホが振動したので、朱莉はドキリとした。バッグからスマホを取り出して画面を見ると、知らない番号が表示されている。
誰だろうと気になったが、知らない番号に出たくはないので、留守電に切り替わったのを見てほっとした。少し経ってから留守電を聞くと、水谷からだった。
「星野朱莉さんの番号でしょうか?テニスサークルの部長の水谷直樹です。朱莉ちゃんを副部長に推薦した優菜ちゃんから、連絡用に番号を教えてもらいました。折り返し連絡をお願いします」
勝手に副部長に推されたことも腹立たしいけれど、電話番号まで教えることはないでしょうと思いながら、朱莉は水谷にかけなおすと、すぐに繋がった。
『朱莉ちゃん?知らない番号に驚いたでしょ?優菜ちゃんに無理に頼んで教えてもらったんだ』
水谷からのお願いなら、断るのは難しかっただろうなと思い、朱莉は優菜に対しての怒りを少し収めた。
「はい、誰かと思いました。あの、副部長はできれば、他の方にやって頂きたいのですが、変えられるでしょうか?」
『う~ん。やってもらえないかな?朱莉ちゃんが副部長なら、サークルのこと以外でも話ができそうで、僕は嬉しいんだけれどな。一度考えてみて。それと、明後日の土曜日、サークルが終わってから、二人きりで話をしたいんだけれど、時間を作ってもらえないかな?』
どうせ、副部長をやってくれと説得されるんだろうなと、朱莉はため息がでそうになった。
「わかりました。どこでお待ちすればいいですか?」
『体育館の裏に花壇があるのを知ってる?そこのベンチで待っていてくれるかな?僕は後から行くから』
始業のベルがなり、水谷に了解の返事をしてから慌てて切ると、朱莉は堪えていたため息をついた。断れなかったら、テニスウェアを買いに行かなくっちゃ…‥と考える。
買うとしたら、可愛いのがいいのかな?シンプルなのがいいのかな?それともきれいな方がいいのだろうか? 甲斐はどっちが好きだろう。
一瞬頭に浮かんだ疑問は、教授が入ってきたのにかき消され、形のないあやふやなものになってしまった。
サークルの前夜、明日は何を着ようと、朱莉は迷いに迷って、穿きつぶしたジーンズにハサミを入れて、切りっぱなしのショートパンツを作った。
少しデニムを解いて、やり過ぎない程度のほつれを作ってフリンジにする。
ヒップの高さを考えずに切ったので、思いのほか裾が上がってしまい、鏡に映った自分を見て、赤面してしまった。
どうしよう!かわいくも、きれいでも、シンプルでもない、セクシー系になっちゃった! でも、もう代わりのものが無い。
こんなことなら、優菜と一緒にテニスウェアを買いにいけばよかったと後悔したけれど、サークルは明日の朝に迫っている。それに、水谷にスマホの番号を教えたことで、優菜に文句を言った後だったから、一緒に買いにいこうとも言えなかった。
トップに大きめのTシャツを持ってきて、裾の長さを誤魔化そうかと思ったけれど、自分のシャツでは中途半端にしか隠れず、思い切って晃良にシャツを貸してと頼んでみた。
さすがに兄のシャツは大きくて、ショートパンツの裾がギリ見えるくらいの位置までカバーしてくれたので、朱莉はほっと胸を撫でおろした。
ところが、晃良は目を丸くして、本当にその恰好でテニスをする気?と言ってから、急にクククと笑い出す。
「朱莉、ちょっとそれは、彼シャツみたいだから、やめたほうがいいよ。きっと練習どころじゃなくなると思う」
「そんなに変?」
真剣な朱莉を見て、晃良は必死で笑いを堪えようとするが、口元がぴくぴくと動いてしまい、ついに大声で笑い出した。
「ごめん。一生懸命な妹があんまりにもかわいくて…‥。ますます甲斐さんに会ってみたくなったよ」
名前を聞いた途端に、朱莉の心臓がざわざわと揺れ始めた。企業向けの展示会以来会っていないけれど、こんな格好で練習に行ったら軽蔑されるだろうか?
「べ、べつに甲斐先輩のためにおしゃれしてるわけじゃないから。変なこと言うのやめてよ。明日顔を合わせられなくなるでしょ」
頬が熱い気がして、そっぽを向いた朱莉が、やっぱりジャージにしようかなとつぶやくと、晃良がすかさず、せっかく作ったんだからと反対した。
「そのデニムのショートパンツ、かわいいと思うよ。脚だって綺麗に見えるし、いいんじゃないのかな。もし気になるなら、優菜ちゃんだっけ、友達にコーディネートの仕方を聞いてごらん」
そうすると頷いて、朱莉は自分の部屋に戻り、鏡に映った自分の姿をスマホで撮って優菜に送ってから、似合いそうなトップを聞いてみた。
すぐに優菜から返事がかえり、かわいい!セクシー!いい!のスタンプが、どれだけストック持っているの?と思うくらい送られてきた。
【トップの色や形で視線を上に集めるようにして、下手に脚を隠さない方がいいと思う】
なるほど、参考になった、ありがとうと朱莉は送り返し、白いTシャツの上に、肩が紐の薄いカーキ色のビスチェを重ねてみた。
ちょうど編み込んだ糸が長くほつれたようになっていて、デニムの裾とマッチする。
これなら色もシックだし、おしゃれかも!朱莉は満足して、バッグに仮のテニスウェアを詰め込んで用意を終えた。
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