第3話 心理学の講義

 それは悪ガキ仲間と会ってから3日後のことだった。

 心理学実践という授業を取っていた時、向井博司教授が苦手意識とはどこからくるかという話をしたことから始まった。


 向井教授が苦手な人に対して、どう行動を取るかと生徒たちに質問したときに、ある生徒は避けると言ったが、ある生徒は、その人の良さを少しでも知って苦手意識を無くす努力をすると答えた。


 二人の答えには当てはまらないが、朱莉も悪い関係を過去に修復している。あの悪ガキたちには、最初苦手意識というか、兄を傷つけたことへの怒りしかなかったけれど、いけないことに対して、朱莉が本気で向かっていったことがきっかけで、彼らも自分たちの行動を省みて、今は関係も良すぎるくらい良好でいる。


 稀なケースだとは思うけれど、きっと誤解を解くには、相手のふところに飛びこむ勇気が、必要なんじゃないかと朱莉は思う。


それでは、と教授が続けた。

「今まで会ったこともない人に、会ったり、話したりしただけで、苦手意識を抱くのは、どうしてでしょう?」


ふと朱莉の脳裏に、甲斐隆矢の顔が思い浮かんだ。

やばい。苦手だと意識すればするほど、脳がその人を苦手だと認識してしまう。


「どうして、よく知らないひとに苦手意識を抱くのかというと、過去のトラウマや、他の人から嫌な目にあったのを、雰囲気が似ている、話し方や、行動、怒りり方が似ているというだけで、そのまま嫌だった感情をよく知らない人にスライドさせてしまう[転移]と呼ばれることが起きるからです」


 おおっと生徒たちから声があがる。そうか[転移]なら仕方がないと朱莉はほっとしたのだが、その[転移]の元になる人物を思い浮かべようとしても、朱莉には思い当たる節がない。


 あれだけ顔が整って、威圧感を感じるほどの背の高さと、身体の厚みがある男性を朱莉は知らない。こちらをじっと見つめる甲斐の目には、目を逸らしたいのに、怖いもの見たさで見つめていたいような吸引力がある。


 一言でいえば、【The 存・在・感】とでも言えばいいのだろか? 暑苦しいわけではないが、少し離れていても、その気配を瞬間移動のように、ドーンと突きつけるぐらいのカリスマ性を持っている。


 自分の過去をひたすら隠して、自分の中の得体のしれない悪癖に怯えている朱莉には、仕事をする際の何もかも見極めようとする甲斐の態度が、朱莉の内面をも見透かすように感じて、苦手意識を持つのかもしれない。


 ああ、何だかすっきりした気分だ。きっと甲斐を怖がる必要なんかないのだ。理由さえ分かれば、対処のしようがあるのだから…‥。

 そう思った時に、向井教授がソフト開発の手助けをしてくれる人はいないかと生徒に聞いた。


 なんでも、心理学を専攻している生徒たちと、工学部の生徒たちがタッグして、苦手なことや、苦手な人への解決方法をアドバイスするソフトを作る話が出ているそうだ。たくさんの例を必要とするので、できれば元になるデーターを取るためのお手伝いをして欲しいと向井教授が頼んだ。すぐに誰かが手を挙げて質問をする。


「苦手意識を改善するためのソフトなら、お手伝いするには、苦手な人同士が参加しなければいけないんですよね?」


「まぁ、できれば、それが一番いいのですが、心当たりはありますか?」


「いえ、もし、いても言えません。自分だけがある人に苦手意識を持っていたとして、その相手にソフトの開発の手伝いを頼んだはいいけれど、目的を知られた時点で、改善の余地がなくなると思います」


「そうなんです。そこがネックなんですよ。弱ったな…‥。完成したら、役に立つと分かっているソフトなので、開発をする心理学専攻の生徒たちと工学部の生徒たちに協力したいと思うんですが、先ほどおっしゃったように関係を悪化させる可能性もあるので、他の生徒に無理にお願いはできないんです。ambivalentな心境ですよ」


 は~いと教室後方から女子生徒の挙手する時の声が聞こえた。まさかと思って朱莉が振り向くと、優菜とばちりと目が合い、朱莉は嫌な予感に包まれた。


「あの、経済・経営トライアルゼミの生徒たちになら、教授が頼んでも問題はないと思います。ゼミ生たちは、自分たちの知識や能力を使って、学生企業家たちに貢献をしながら、企業のノウハウを学ぶことを義務付けられているので……」


「ああ、そうか、その手があったね。君は誰か該当する人を知っているのかな?」


 朱莉は思わず机に顔を伏せた。向井教授の口から、出てほしくないと思った質問が出てしまい、優菜の張り切った声が聞こえてくる。


「はい、この講義を受講している星野朱莉さんと、3年生の甲斐隆矢さんです。この二人なら教授にご満足いただけるデーターが取れると思います」


 みんなの視線が刺さるのを感じて、朱莉が仕方がなく顔を上げると、向井教授の期待に満ちた視線とぶつかった。そのあとのことはよく覚えていない。



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