第25話 唐突な危機

 リビングルームで1人孤独にコーヒーを飲みながらお菓子をつまんでいる。


 今日もまた1人……。いつものことだ。


 夫である浩一郎はしばらく家に帰ってきていない。


 恐らくは半同棲状態にある愛人のところで寝起きしているのだろう。


 息子の誠一も、三日前に悪友とバイクで出かけて行ってから顔を見ていない。


 携帯で連絡を取ろうにも、2人の連絡先すら知らなかった。


 かたや夫で、かたや息子なのにも関わらず。


 もう、完全に家族としての情も薄れてしまっていた。


 それでもここに居るのは……。


「……今日も暇ねぇ」


 お金があり、時間もある。


 何不自由なく過ごせる生活は、便利極まりない。


 少なくとも、スーパーで朝から晩まで働きづめて、膝を悪くしてもなお仕事に追われていた時期よりはよほどマシだ。


 私がここに居る一番の理由は、恐らくそれ以外になかった。


「華道の先生はまだかしら?」


 ふと思って壁に掛けられた時計に目を向けるが、そもそも日付が思っていたものとズレていた。


 これではため息をつく以外やる事がない。


 誰かが遊びにでも来てくれればいいのに、私にはそんな相手も居なかった。


 ふと、先日訪れて来た青年の事が思い浮かぶ。


 柔らかく丁寧で紳士的な物腰。


 そこまで高級なものではないようだが、スーツを見事に着こなし、長身でスラっとしていて、何より顔がこの世のものとは思えないほど美麗で、テレビで見るアイドルが霞んで見えるほどだった。


 総じて精緻な芸術品を思わせる完璧な容姿をしていたのだ。


 思い出すだけでまたため息が沸き上がって来るほどである。


「安治幽玄さん……居るものねぇ。あんな人」


 また来てくださらないかしら、なんて少し胸を高鳴らせてしまう。


 あんな人と一緒ならば毎日が楽しいでしょうに。


「ああ、写真を撮っておけば良かったわ――あ」


 そういえば、家の門と玄関では常に監視カメラが回っている。


 と、いうことは、必然的に彼の顔も映っているはずだ。


 その事に思い至った私は、思わず腰を浮かせてしまった。


「操作は……どうすればいいのかしら」


 監視カメラに記録された映像を確認するためにはパソコンの操作を行わなければならないが、パソコンが苦手な私はどうすればいいのか、皆目見当がつかなかった。


 毎日派遣されて来る家政婦の誰かなら分かるかしらと思った瞬間――プルルルルッと、ポケットに入れっぱなしだった携帯が派手に音を立てる。


 悪いことなど何もしていないのになんとなく後ろ指をさされた様な気分になりながら、携帯を取り出して耳にあてた。


「はい、もしも――」


『雅美さまでらっしゃいますよねっ。社長はどこにいらっしゃいますか!?』


 通話相手は相当に焦っているのか、挨拶も名乗る事も忘れ、思わず仰け反ってしまうほどの大声で問いかけてくる。


 理由は分からないが、不吉な知らせを前にして、肌がぞわぞわと泡立つのを感じた。


「社長……夫は家には戻ってきていませんけど……」


『そうですか。ではお帰りになられましたらすぐ総務にまで連絡を取るよう伝えていただけますか?』


「ええ、分かったわ」


 私が了承すると、誰かも分からない相手――恐らくは浩一郎が経営するスーパーで働く誰かだろうが――は、お願いしますっと言って通話を切ろうとした。


「待って!」


 大声でそれを制止して、私は一つ深呼吸を入れる。


「何があったの?」


 受話器を通して相手のためらいが伝わって来る。


 だが、迷っている時間も惜しいと判断したのだろう。


『食中毒です。それも何人も』


「えっ」


 たった一つの単語なのに、頭を思い切り殴りつけられたかのようなショックを受けてしまう。


 それぐらい衝撃的な単語だった。


『失礼します』


 電話の相手は短くそう告げると、電話はブチっと音を立てて切れてしまった。


「……食中毒?」


 詳細はまだ分からないが、食中毒を起こしてしまえば飲食業では致命的だ。


 起こした店舗は閉鎖。


 チェーン店であれば、それ以外も強制的に閉鎖させられて、保健所による調査が行われる時もある。


 もちろんその間にも野菜や肉などの売り物はどんどん痛んでいき、売れない事による赤字だけでなく、廃棄のコストや従業員の給料もかさんでしまう。


 損失は雪だるま式に膨れ上がっていき、たった一度の食中毒で倒産することも珍しくなかった。


 その事を、かつて現場で働いていた私は身に染みて分かっていた。


「……大変じゃないっ」


 先ほどまでの穏やかな気分など吹き飛んでしまっていた。


 震える手で携帯を操作して、浩一郎の行きそうな場所に片っ端から電話をかけまくる。


 家政婦を呼びつけて心当たりのある住所に足を運んで貰ったりもした。


 しかし、その全てが空振りに終わってしまう。


 夫であるはずの男性と私は、完全にその繋がりを無くしてしまっており、私に出来ることは頭を抱えてその場にうずくまる事だけだった。

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