第4話 わたし、きれい?
時刻は日付を跨ぐ程度には闇が深まり、草木も眠りに入る頃合だ。
しかし繁華街はそんなこと知らないとばかりに活気づき、様々な店が口を開けて酔客を喰らっている。
そんな繁華街の一角を、40代半ば程度のサラリーマンが一人、千鳥足でさまよっていた。
「俺は~、まだ~飲むぞ~!」
酒臭い息と気炎をまき散らしながらそう豪語する。
とはいえ傍から見れば、男が酒に呑まれているのは明白だ。
こんな状態で来られる店は迷惑以外の何物でもないだろうに、酒で朦朧としている頭ではそれも判断がつかない様だった。
「つ、次の店は~……ど、どこだぁ~?」
男は目的を持って歩いていたのだが……どうやら酒のせいで道を間違えたらしい。人通りも無く、冷たいシャッターだけが辺りを埋め尽くしていた。
男は足を止め、盛んに辺りを見回していたのだが、ふと何かを見つけて訝し気な顔をする。
「ん~?」
目をすがめてその方角を凝視していると、一人の女性が姿を現した。
女性はきれいな長い黒髪をまっすぐ背中に流し、肩にはベージュのハンドバックを提げ、白いワンピースの様な服を纏っている。
男の位置からまだ顔はよく見えない。
こつこつとヒールがアスファルトと蹴って音を立て、その度に男と女性との距離が縮まっていき……。
「ほぉ~……」
男は思わず感嘆のため息を漏らした。
それも無理はない。
顔の半分以上がマスクで覆われているものの、覗いている薄化粧で飾り気の少ない目元は非常に整っており、女性が相当な美人である事が見て取れるからだ。
男はそのまま女性が自分の横を通り過ぎるまで呆然と立ち尽くしていたのだが……。
「な、なあ君!?」
ふと、我に返ると女性の背中に向けて声をかけた。
「待ってくれないか?」
「…………」
女性はその場に立ち止まると、ゆっくりと男の方を振り返ったのだが、急に酔っ払いから声をかけられたにもかかわらず、その瞳には何の感情も浮かんでいなかった。
それで男はより自分の予想を確かなものにしたのだろう。
先ほどよりも多少馴れ馴れしい態度で女性に話しかける。
「君、もしかしてこれから出勤かい?」
こんな夜遅くに繁華街を女性一人が歩いているのは、この女性が夜の店で働いているからだとでも当たりをつけたのだろう。
女性が何も応えないのにも関わらず、勝手に男は話を続けていった。
「よければお……私が一緒に出勤してあげようか?」
「……別に、間に合っていますから」
初めて女性が言葉を発した。
彼女の声は、マスクの奥に潜む美貌――男の過分とも取れる期待も上乗せされているだろう――に見合うだけの美しさを持っている様に聞こえた様だ。
男は大きく相好を崩しながら、女性を口説きにかかった。
「そう言わずにさ。いいだろ? 君みたいにきれいな娘と飲むのはさぞかし気分がいいなと思ったんだよ」
「きれい……」
「そうだよ。なかなか君のように清楚な美人は見たことがないね。私は色々な女性とお付き合いさせてもらった経験があるんだが、君はその中でもかなりの上玉だ。私には分かる」
女性の興味無さそうな口調に比例するように、男性の態度はヒートアップしていく。
男は舌に油でも刺しているのかと思うほど浮ついた言葉を連発していった。
「それに、私はこう見えてもちょっといい役職に就いていてね。私と行くことが一種のステータスにもなると思うよ」
「…………」
ただ、男がどれだけ熱弁をふるおうとも女性は興味無さそうに立ち尽くしていた。
そんな女性のつれない態度がより男の欲求を刺激し、更に男の舌は猛烈な回転を始める。
簡単に手に入る獲物よりも、得難いものの方がより欲しくなるのが人間の
男は自分の知りうる限りの言葉を尽くして女性を珠玉の宝石であるかのように褒め称えていた。
「なっ、いいだろう?」
男は興奮のあまり、あと数センチも近づけば接触しそうな距離にまで女性に詰め寄り口説いている。
そんな男に根負けしたのか、女性は小さくため息をつくと、
「分かりました」
なんて言葉を吐き出した。
「本当かい!? いやぁ、嬉しいなぁ」
その言葉を引き出すのに、どれだけ時間と労力がかかっただろうか。
いや、それすらも喜びを引き立てるスパイスかもしれない。
男はようやく手に入れた栄誉を手に納めようと女性に手を伸ばし――。
「その前に」
感極まった男から、女性は一歩後退る。
男は気付いただろうか。
女性の瞳に先ほどまでとは違う、喜悦の色が浮かんでいた事に。
まるで獲物を前にした肉食獣が、研ぎ澄ました牙をちらりとみせる、そんな光が灯っている事に。
「一つ、聞いてもいい?」
「なんでも聞いてくれ!」
女性は俯く。
女性と男以外、誰の姿も見えない路上で。
眠らない繁華街で、そんな事はあるはずが無いのに。
男は、気付かない。
ひしひしと非日常が、人ならざる存在が近づいて来ている事に。
「ねえ、私、きれい?」
聞いたもの全てが総毛立つほどぞっとするような声で女性が尋ねる。
そうなって、ようやく男も違和感を覚えたのか、少し周りに視線を向けて――しかし愚かにも己の欲を優先し、
「もちろんだよ。君のようにきれいな娘は見た事が無いよ」
答えてしまった。
「そう……」
一瞬、女性の顔が闇に染まって何も見えなくなる。
男は酒のせいかと瞬きをして女性の顔を見なおして――。
「……これでも?」
いつの間にかマスクが無くなり、その下に眠る女性の顔が顕わになっていた。
目元は美しかった。鼻筋もまっすぐ通っていて間違いなく美人と言えるだろう。
だったら口は?
多少歪んでいても、他が極上なのだから美貌は損なわれないはずだ。
はずだが……。
「うわああぁぁぁぁぁぁっ!!」
多少。その枠を大きくはみ出していた。
女性の口は耳元まで裂け、笑っているわけでもないのに、にたりにたりと笑みを浮かべているように見える。
大きすぎる口からは、人間のものとは思えないほど鋭い犬歯が見え隠れし、獲物を喰らう前の肉食獣の様な威圧感を放っていた。
いや、喰らう前というのは比喩ではない。
ようやく男が気付く。
自分の命が狙われていたのだという事に。
自分は今、虎口に自ら足を踏み入れていたのだと。
「わたしきれい?」
「ひっ」
あれほど女性を求めていたというのに、男は思わず一歩後退したのだが、代わって女性が、口裂け女が、男を頭から丸のみでも出来そうなほど大きすぎる口をがばりと開けて、迫る。
「きれいって言ったよねぇ」
「いや……あ……」
段々と口裂け女の口調はヒステリックなものに変わって行く。
それはもう、会話などではない。
一方的な蹂躙。宣告。
口裂け女がその狂的な感情を男にぶつける為だけのもの。
「ねえ、言ったよねぇ!」
男は歯をカチカチと打ち鳴らすだけで、先ほどまであれほど褒めちぎっていたのにも関わらず、今は一言すらまともに発することが出来ないでいた。
出来ることはただ押されるように下がる事だけ。
そんな男にはもう色欲は欠片も残っていない。
代わりにあるのは――。
「これでも!?」
口裂け女の手にはいつの間にか鈍色に光る鋏が握られている。
それがゆっくりと振り上げられていき……明確な殺意が形を結んで男に突き付けられようとしていた。
「ちがっ」
「違わないっ!」
「ひっ」
ひゅっと風切り音と共に鋏が振り下ろされ、男の顔面スレスレを通り過ぎていく。
それで、限界だった。
男の股間からジワリとシミが広がり、足へと滴り落ちていく。
「ああああわぁぁぁぁぁぁひぇぇぁああぁぁぁぁぁっ!!」
男は奇声を発しながら、くるりと背を向けると弾ける様に走り出す。
恐怖で既に酔いも冷めてしまったのか、しっかりと地面を踏みしめていた。
その背中に、
「アハハハハハハハハハハッ!!」
口裂け女の狂ったような笑い声が襲い掛かる。
「たすったすけへ……たすけっ」
それから逃げるために、男は水滴をまき散らしながらも、人っ子一人いない繁華街を必死で遁走し続けたのだった。
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