立ち投げ

 全員のバッティング練習が終わると、今日の全体練習は終わりだ。

 駿河南では、大体の場合19時前後で全体練習は終わる。

 その後はもちろん普通に帰ってもいいし、残って個人練をしてもいい。

 夜の10時まではナイターが使えるので、グラウンドには各部活の熱心な生徒が残っている。


 もちろん伊織は残って個人練だ。

 野球の才能はいろいろあるが、野球が好き、練習が好きというのは最強の才能の一つだ。

 せっかく練習をしても、好きでなければ『やらされている』という気持ちをどうしても持ってしまうからだ。

 その点伊織は練習することで自分の弱点が一つずつ克服されていくことに喜びを感じるのタイプだ。


 どんな才能があっても結局野球がうまくなる近道は、野球を好きになること。

 好きになれば、どんなにキツイ練習にも耐えられるのだ。



 ~~~



 やっと来たな。個人練。

 今日はどうしようかな……。

 いつもの4方向のダッシュは締めにやるとして……。

 せっかくボールが使えるんだし、ティーバッティングかな?

 それとも立ち投げ?

 やっぱりボールが使えるってだけで、めちゃくちゃ選択肢が増えるよなぁ。

 これだけでテンション上がるんだから俺ってほんとに安上がりだよ……。


 よし! 決めた!

 俺はウキウキしながらボールの入った籠を持って歩き出す。

 そして通称『穴開きネット』と呼ばれる穴の空いたネットの前に陣取る。

 今日は立ち投げだ!

 やはり慣れ親しんだブルペンは見ておきたい。



 一般的に野球場にある投球練習場は『ブルペン』と呼ばれる。

 試合に出る前の投手が投球練習を行っていたり、リリーフの投手が待機する場所でもある。

 投手のピッチングに関する練習は、基本的にブルペンで行われる。



 伊織の今日の練習は立ち投げだ。

 内容は簡単、キャッチャーを座らせずに立たせた状態で投げ込むことを立ち投げという。

 しかしまだキャッチャーに受けてもらうほど仕上がっているわけでも無いので、キャッチャーの代わりにネットを置いて投げることにした。

 伊織は早速ブルペンに穴開きネットを持って行く。


 正直に言うといきなりブルペンに入るのはどうかと思ったが、根っからの野球大好き人間の伊織はもうピッチングをしたくてたまらなかったのだ。

 ブルペンに入ると、慣れ親しんだ場所という実感がある。

 マウンドの傾斜であったり、中心にあるピッチャープレートの削れ方が「前の世界」とダブる。


 高校時代に一番長い時間を過ごした勝手知ったるブルペンの中で、一人テンションが上がる。


 よし! ついにこの身体の初めてのピッチング練習だ。

 一応壁先生相手にピッチングもどきはしていたが、はっきり言ってブルペンで投げるのとは全然別の話だ。

 ボールも硬式になるし。マウンドの傾斜や歩幅などにも慣れなければいけない。

 やることは山積みだがこの身体の最後の状態確認と言えるだろう。


 準備を終えた俺はブルペンのマウンドに登るとカゴに入ったボールを握る。

「前の世界」でそれこそ何万球と投げ込んで作り上げたフォーム。

 フォームチェックと体重移動を意識してそれほど力を入れずに、ネットの中心に向かって投げ込む。


 パスンッ!


 パスンッ!


 投げる。

 投げる。

 投げる。

 投げる。


 うん。

 とりあえず真ん中に投げると思ったよりストレートは悪くない。

 最近のトレーニングのおかげなのか、自分の体に慣れただけなのはわからないが、体に関しての違和感はなくなりつつある。

 つい変化球も投げたくなるが自重する。


 先走りそうになるけど、まだ一年生だ。

「前の世界」と同じ体までは無理だろうと思っていた。

 だけどしっかり体を作っていけばもしかすると、前と近いところまでは行けるかもしれない。



 そうして伊織はフォームを意識して、きっちり80球をネットに投げ込んだ。

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