第二話 霧の向こう

 遅い朝食はトーストとスクランブルエッグ、昨夜の残ったサラダが用意してあった。

「いつもはパンだけなのに」

「せっかくの旅行だから気分を上げていこうかと思って」

 苦笑いしながら翔太は手を伸ばす。

「しばらく留守にするから卵を使っておかないとね」

 食事を終えるとすぐに彼はダウンジャケットを手にした。

「支度をして待っていてくれ」

「どこに行くの?」

「秘密。もうミステリーツアーは始まってるのさ」

 小一時間ほどで翔太が帰ってきた。

 荷物を持って階段を下りていくと、ナンバーの軽自動車が停まっている。薄曇りの空を映しこんだような色の車体に彼が手を掛けた。

「え、これで行くの!? ドライブなんて久しぶりー。付き合ってから初めてじゃない?」

 はしゃぐ佳奈を見て翔太も笑顔になる。

「いいから早く乗れよ」

 二人を乗せた車が静かに走り出した。


「ナビまでついてるー」

「これハイブリッドってやつ? 静かだなぁ」

「いつものバスから見る景色と違って新鮮」

 一人でしゃべっている佳奈には目もくれず、翔太は真剣な表情で前を見ていた。

 見慣れた街並みを抜け幹線道路を進んでいく。

 首都高速の高架下を並行に走り、しばらくすると合流車線へと移って行った。

 坂を上るとゆっくりと連なっている車列が目に入った。

「うわ、混んでる」

「渋滞予想は昨日がピークだったのに……」

 翔太は舌打ちをしてため息をつく。

「仕方ないよ、ゆっくり安全運転で行けばいいじゃない。時間が決まってる予定があるの?」

「うん、いや……」

 歯切れの悪い彼にかまわず、佳奈はナビをいじり始めた。

「これってラジオも聞けるよね」

「機械オンチのくせに分かるのか?」

「ラジオを聞くくらいなら私にだって――これかな」

 車内に耳障りのいい軽やかな女性の声が流れだす。

「どうよ」

 誇らしげにあごを反らせる彼女につられたかのように、ふっと浮かんだ微笑もすぐに消える。翔太はハンドルを握りながらまっすぐ前を見つめていた。

『それでは、ここで曲をお届けします。back numberで「オールドファッション」』

「あ、私この曲好き。ドラマの主題歌だよね」

 ミディアムテンポの優しい歌声が車内を満たしていく。

 佳奈のおしゃべりも止まった。

 いつしか車も流れ始め、首都高から外環自動車道へと進んでいる。

 大泉ジャンクションへと差し掛かり、佳奈が案内表示に目をやった。

「新潟方面へ行くの?」

「ああ」

 短く答え、翔太はダッシュボードの時計をちらっと見る。


 関越道へ入るとすぐに赤い文字の表示が目に入ってくる。

「この先四十キロ、事故渋滞だって」

「まいったな……」

「ってことは、もっと先まで行くのね。新潟まで行ってスノボか、少し手前で温泉か……ね、そうでしょ?」

「秘密だ」

 翔太の返事はそっけなかった。

 二十分ほど走り鶴ヶ島インターチェンジを過ぎた。

「次のサービスエリアで休憩しよう。もうすぐ渋滞に捕まるからな」

 高坂サービスエリアは昼時と言うこともあり、駐車スペースを探すのにも苦労するほど混雑していた。

「先にトイレ行ってくるね」

 女性トイレに並ぶ列を見て、佳奈が小走りで駆け出す。

 その背中を見送って、翔太はスマホを取り出した。

「もしもし、俺。渋滞にはまって遅れるから……え……しかたないだろ!……もちろんつれて来てるよ……わかったよ……出来るだけ急ぐけどさ……あぁ、わかったから」

「うるせーな、まったく」通話を終えて小さく吐き捨てた。


 やっとの思いで席を確保して食事を済ませ、サービスエリアを出たのは一時過ぎだった。そこから十分も経たないうちに前を走る車がハザードランプを点滅させる。

 翔太もスピードを落とし、ハザードを点けた。

「少しもやがかかってない?」

「これで事故ったのかもな」

 結局、車列が流れ出すまで一時間以上も掛かってしまい、藤岡ジャンクションに着く頃には三時になろうとしていた。

 ここを左へのルートを取り上信越道に入っていく。

「あれ、越後湯沢へ行くのかと思ってたのに。こっちへ行くと観光地はどこがあるの?」

 佳奈の問いかけに答えることなく、翔太はアクセルを踏み込む。

 サービスエリアでもらってきたマップを眺めたあと、勝ち誇ったように彼女が宣言した。

「わかった、軽井沢でしょ。きっと当たりね」


 今までとは変わって山間の道を二人が乗った車は走っていく。聞こえていたFMラジオの声も途切れ途切れになり、やがて雑音に変わってしまった。

 上っては下り、大きなカーブを繰り返し、トンネルをいくつか抜けて横川サービスエリアへ入った。

「うわっ、かなり寒い」

「そうだな」

 ダウンジャケットのチャックをいっぱいまで上げ、翔太はトイレへ入っていく。

 人もまばらな洗面スペースで電話をかけ始めた。

「もしもし……あぁ、いま横川のサービスエリアに着いた……うん、あと一時間半くらいかな……五時を過ぎるかも……わかってるって。そっちこそ準備できてるのかよ……あぁ、それじゃ」

 大きなため息が白く広がっていった。


 再び走り出した車は碓氷軽井沢インターチェンジを出て行く。

「ほらぁ、やっぱり」

 佳奈は得意げな笑みを浮かべる。

「冬の軽井沢って何があるの?」

「寒くてもゴルフに来る人、いるんだ」

「あ、ここのアウトレットに来たーい」

 おしゃべりが止まらない彼女を横目に、翔太はナビに頼ることなく車を走らせる。

 軽井沢の中心部を抜けると右に曲がった。

「星野リゾート! まさか……だよね」

 そこを通り過ぎると段々と家も少なくなってくる。やがて両脇から覆いかぶさるような木々だけとなった。

 すでに日も暮れかけている。

「……霧が出てきた……」

「そうだな」

 ヘッドライトをつけ、曲がりくねった道をゆっくりと上っていく。

 先を走る車も、後からついてくる車もない。

 霧はみるみる濃くなり、ライトが照らす範囲しか見えない。

「なんか怖い……どこへ行くの?」

 翔太は無言のまま、少し体を前に倒してハンドルを握りなおした。

「まるで魔法の世界へ入っていくみたい。道は合ってるの?」

 黙ったままうなずく。

 それっきり佳奈も口をつぐんだ。


 ずっと上っていた車が下り始めた。それと合わせるかのように少しずつ霧が晴れていく。

 そして左に折れ横道に入ると車が停まった。

 待ち構えていたように、向こうから人がやってくる。

「これって……」

 驚いた表情のまま、佳奈は翔太を見つめた。

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