第2話 事件解決

「捏上さん、待ってください」

 松葉杖で必死に追いかけているのに探偵は自分のペースを崩さずにずんずんと歩いている。こいつ俺のファンじゃなかったのか。

「さっきはありがとうございました。あやうく犯人にされてしまうところでした」

 なんとか追いついて礼を言う。だが、こちらを一瞥いちべつしただけで、やはり構わず歩き続けてる。

「それにしても、どうしてあの部屋を見ただけで内部の犯行だと思ったんですか」

 小さな背に向かって質問するとやっと興味を持ったのか、こちらを向いた。

「そんなの簡単じゃないですか。金満さんの血痕を踏まないように慎重に歩いていた犯人がどうして窓を開けっ放しにするなんてヘマをするんですか」

 探偵はそこで立ち止まって一席打つことにしたようだ。

「いつ誰がくるかわからない状況で、そこまで冷静に足跡をつけない人物が窓を開けたままにしたということは……」

「外から出入りしたと、思わせたかった」

「正解」

 生徒の回答に満足した教師のように頷いて再び歩き出す。

「それに外部から侵入してきたのなら金満さんが悠長にソファに座ってワインを飲んでるのもおかしいでしょう」

「……たしかに、そうですね。僕は窓が開いていたから外から族が侵入してきたとしか考えませんでした」

 正直に感服した。

「警察だってバカじゃありませんからね。それくらいはお見通しでしょう。だから、あなたが疑われたんですよ」


「チョコレートというのは、どれも一緒だなんて考えてる人がいますが愚の骨頂ですね。そういう輩はチョコレートと準チョコレートの区別すらついていない。カカオ分が三十五%以上あってはじめてチョコレートと言っていいのであって十五%以上程度のものは準チョコレートなんです。こんなの食べてみればすぐにわかることなのに、そんなこともわからないなんて悲しい限りです」

 捏上探偵は俺と濱西を前にチョコレートの講義を始めているが、今お前さんが美味そうに食ってるチョコ棒は間違いなく準チョコレート菓子だぞ。パッケージの裏くらい見ろよ。

 お茶を持ってきてくれた濱西もどうリアクションをとっていいか、わからずに途方に暮れているのがありありとわかる。

「ところで……捏上さんは犯人の見当はついてるんですか」

 チョコレート講義をやめさせたくて事件の話題をふる。捏上は話を中断させられたのが気に入らないのか

「……見当は……ついてる……と言えば、ついてますね」

 歯切れの悪い返事をする。

「誰なんですか?」

 直球で聞く。どうせ婉曲に聞いても、まともに教えてはくれないだろう。

「そんなこと、ここで言えるわけないでしょう。なにしろ、あなたたちは容疑者なんですから」

「私もですか?」

 濱西が驚いた声をあげる。

「別に驚くことはないでしょう。事件のあった時間にこの家にいた人は、みんな容疑者の資格がありますよ」

「でも、さっき犯人がこの家のどこかに隠れてる可能性があるって言ってたじゃないですか。それで警察は残っている人で家探しを始めてるんですよ」

 そのために俺の実況見分は中断された。ただし家探しがある程度、済めばまた再開されるので家に帰ることはできない。だから仕方なく捏上とお茶をするはめになってる。

「可能性はゼロではないってだけの話ですよ。金満さんは犯人がいたのにくつろいでいたんですから顔見知りの可能性が高い。そんな人がこそこそ隠れる必要はないでしょう」

「……顔見知りだとして来るはずのない人だったら、隠れたとしても不思議じゃないんじゃないですか」

「もちろんです。だから可能性はゼロではない」

 俺たちのやり取りを中断させるのをためらうように、「……あの……」と濱西が小さく声をかけてきた。

「この家には門とかに防犯カメラが付いてるんですけど、それを見れば犯人が映ってるんじゃないでしょうか」

 そうだ、今は警察が来るから警報を切ってあるがこの家はホームセキュリティ会社と契約しているんだった。

「そのカメラは金満さんがつけたんでしょう。でも、持ち主が亡くなってるんですから勝手に防カメ精査なんてしたら問題になりますよ」

「でしたら警備会社に連絡したらいいんじゃないですか」

「そうですね、おそらく警察も連絡を入れてると思いますが、さていつになることやら」


 捏上との会話で確信を持てた。奴は俺たち二人を疑ってる。もし、俺たちが犯人ではないと確信していたら、容疑者だからといって推理を披露しない理由はない。

 だが、リビングでの奴の推理を聞く限りでは一応、俺は容疑から外れていると見ていい。ならやはり疑われているのは濱西だろう。

 ダイニングキッチンのテーブル席に座っている俺たちの傍らで濱西は突っ立ってる。金満から客の見ているところでは休んだりしてはならない、と厳命されてるらしい。その金満が死んでるんだから、気にせずに座ればいいと思うんだが。


「和久利さん、座るのも大変そうですね」

 ボーッと考え込んでた俺に捏上が話を振ってきた。

 キッチンの椅子は俺には小さい上に骨折してる左足をもう一つの椅子に乗せている。ギプスのせいで足を曲げることができないのだから仕方がない。

「リビングでは左足はどうしてたんですか」

「そりゃフットレストみたいなものがあればよかったんですが、ソファについてるスツールって言うんですか、あれを出してもらって足を乗せてました」

「それにしてもさすがに寒いですね。上着を着てくればよかったな」

 こいつの人の話を聞かないのにも、さすがに慣れたな。

 ベストの下は開襟シャツなんだから十一月下旬としては寒いのは当たり前だ。

「普段から、そんな薄着なんですか」

 会話の流れで、そんな雑談をしてみる。

「そうですね、寒さには強い方なので、よっぽどのことがない限り、この格好ですね」

 それは単に脂肪を着込んでるだけだろう。

「そういえば和久利さんも、ずいぶん薄着ですね。上着は持ってきてないんですか?」

「……あれ?そういえばジャンパーを着てきたんですけど、どこにやったかな」

 今の俺も捏上と同じくシャツ姿だ。まあ、肌着も着込んでるからガマンできないわけじゃない。

「リビングにはありませんでしたから、客間じゃありませんか」

「そうかもしれないですね。あとで見てきましょう」

「すみません、お茶をもう一杯いただけますか」

 これは濱西に言ってる。だが、彼女は躊躇ってる。

「どうしましたか?」

「いえ……」

 俺にはピンときた。

「捏上さん、さっき勝手に金満先生の防犯カメラを見ることはできないって言ったばかりじゃないですか。それなのに、先生のお金で買ったお茶を自由に飲むのはどうかと思いますよ」

「ああ」と捏上は合点がいったようにうなずくと

「気にすることはないと思いますよ。このお茶が金満さん殺害の証拠品になり得るんでしたら胃袋に隠滅するのは問題でしょうけどね」

 立ち上がって自分でお茶の支度を始めてしまった。……自由人すぎる。

「……和久利さん……ちょっと、お話が」

 ふいに濱西が俺の耳元で、そっと囁く。

「なんですか?」

 問い返すと「ここじゃ、ちょっと……」と言葉を濁す。

 捏上に

「ちょっと出てきます」

 と言うが自分の茶を淹れることに熱中しているみたいで、こちらを振り向きもしない。


 濱西とキッチンを出ると彼女は迷うことなく階段の方に向かう。

「ちょっ……、上に行くんですか?僕、この足なんですよ」

 先に行こうとする濱西を止めようと声をかけるが彼女はこちらの意向を無視するように、ずんずん先に進んでいく。

 まるで捏上みたいだ。仕方がないから、なんとか松葉杖を駆使して階段を慎重に上る。

「旦那さまが亡くなって私、これからどうしたらいいんでしょう」

 踊り場で立ち止まった彼女が、こちらを振り向いて、そんなことを言い出した。

「濱西さんって家政婦の会社とかから派遣されたわけじゃないの?」

 一歩一歩上りながら聞く。濱西は首を横に振りながら

「先月、そこを辞めて旦那さまに直接雇われたばかりなんです。そちらの方が実入りがいいものですから」

 答えた。

 会社に取られる分を考えたら悩むところだよな。経理など面倒なことを肩代わりしてくれるメリットはあるかもしれないが。俳優だって売れてくれば独立したほうがいいかどうか悩むらしいし。

「また元の会社に戻ってもいいし……濱西さんは若いんだから別の仕事だって探せるでしょう」

 適当に返事をする。正直、興味がない話題だし。これがわざわざキッチンから出てしたかった話なのか?

「……私を取り調べた刑事さんから聞かれました。……旦那さまと和久利さんの間でなにか揉め事がなかったか……って」

「……それで、なんて答えたんですか」

 濱西はこちらを見下ろしながら

「もちろん何も知りませんって答えました。……それでいいんですよね」

 そう言って薄く笑った。

「も……もちろん」

 ……なんだ?何が言いたい?

「私、これからもこの仕事を続けていきたいんです。……ですから和久利さんに雇っていただきたいのです」

 ……はあっ?なにを言ってるんだ、こいつ。

「それだったら以前の会社に戻ったらいいじゃないですか。うちはマンションとは名ばかりのワンルームのアパートですよ。お手伝いさんを雇う必要ありません」

「……でしたら……永久就職でもいいんですよ」

 永久就職って……結婚しろってことか?……冗談じゃない。なんでジジイのお手つきを俺がもらわなくちゃいけないんだ。

「冗談はやめてくださいよ」

 傷つけないよう、せいぜい柔らかい口調で婉曲に断る。が、そんなことは予想してたのか

「和久利さん、旦那さまから『君の面倒を見る気はない』って言われました……よね」

 踊り場から俺を見下すように告げた。……あの時の……金満の、あの口調を真似て。


 クランクアップの日。急遽、俺がやることになったアクションシーンのリハーサルを終えると金満が楽屋にいるので急いで行くようにADから告げられた。

 正直、一人で集中をしたかったんだが仕方がない。ワイヤーを外したハーネスを着込んだまま楽屋に向かった。

 楽屋の金満は不機嫌さを隠すつもりもなかった。映画の主演に起用してくれた礼を言おうとする間もなく

「和久利くん、もう僕は君の面倒を見る気はないよ」

 告げられた。

 一瞬、何を言われてるのか、わからなかった。

「……どういう意味ですか?」

 なんとか一言だけ聞けた。金満は

「そのままの意味だよ。今までもなにかと目をかけてきたが全然かんばしくない。この映画も原作の人気を当て込んで企画を立てたが、君が主演だと公開してからネットでの評判は下がる一方だよ。このままじゃ前売りも公開してからの客の入りも、とてもじゃないが期待できない。

 会社の方でも今回は捨てるしかない、という意見に固まりつつあるよ」

 見下すように罵り続けた。

 なに言ってるんだ。まだ撮影すら終わってないんだぞ。撮影が終わればスタッフが編集し、音をつけて、二時間弱の尺にまとめるんだ。

 それからキャストや監督が宣伝に力を注いで、少しでも多くのお客さんを劇場に呼ぶんだろう。

 それなのに、もう諦めるつもりなのかよ。

 いや正直シナリオは付け焼き刃だし、演出もその場の思いつきの感はたしかにあった。それでもより良くしていこうと現場は頑張ってるんだ。

「正直、君には失望したよ。なにか光るものがあると思って目をかけてきたんだが、どうやら僕の目が曇っていたようだ。出る作品、出る作品数字が取れないんだからね」

 俺のせいかよ!あんたが数字の取れない企画ばかり持ってくるんじゃねえか!「てにをは」も、まともに書けないシナリオライターに、やる気のないディレクターもあんたが引っ張ってきたんじゃねえか。その責任を全部、俺にひっかぶせようっていうのか?

「まあ、餞別代わりと言ってはなんだが、主演作品を送ることができてよかったと思ってるよ。最後まで頑張ってくれよ」

 奴は自分が言いたいことだけ言うと、俺が飲み込んだ言葉を一切聞くことがないまま楽屋を後にした。


「詳しい事情はわかりませんが、こちらでお仕事をさせていただいていると、その辺りのことは、なんとなく察しがつきます。その直後に、このようなことになったのですから……疑われても仕方がないでしょう」

 濱西は、あいかわらず階段の途中で止まっている俺を見下しながら語り続ける。いや、もはや脅迫だ。

「……なに言ってるんだか、わかんないな」

「旦那さまが殺されて疑われているのが、あなたと私。私は私が殺したんじゃないって知っていますから残るは、あなただけです」

「待ってくれよ」

 反論しなくちゃならん。そうでないと、この女、警察にあることないこと喋ってしまいかねん。

「俺だって自分が殺してないって知っている。それだけじゃない。俺はこの足だから犯行は不可能だってことは、あの探偵が証明してくれた」

「……そうでしょうか」

 脅迫者はうすら笑いを浮かべる。

「あの探偵さん。あなたが殺したって知ってますよ」

「……どういうことだ?」

「話してもいいですけど……ここから先は取引を結んでからです」

 彼女はゆっくりと右手を差し出してきた。

「……わかった」

 俺は松葉杖を持ったまま右手を差し出した。


 これは不幸な事故だ。


 差し出した松葉杖が彼女の左足に当たりバランスを崩した。

 前につんのめるようになった濱西は、慌てて俺の松葉杖を掴んだ。その勢いで俺もバランスを崩してその場で倒れた。俺は松葉杖を離した右手で階段の手摺に捕まったおかげで転倒は免れた。

 しかし、濱西は俺の松葉杖に乗っかってしまい、滑るように頭から階下に突っ込んでいった。

 ……嫌な音がして、彼女の動きは止まった。


 その音にまっさきに反応したのが捏上探偵だった。

 彼はキッチンから階段にやってきて、すぐに濱西の耳元で

「濱西さん、僕の声が聞こえますか」

 大声で呼びかけた。あとから重村警部補や家探しをしていた他の刑事たちが駆けつけきた。

「ダメですね。頭から落ちた衝撃で首が折れてる」

 捏上は警部補にそう告げると階段でへたり込んでいる俺のところまで上ってきた。

「……大丈夫。これが事故なのは一目瞭然です。ですから、あなたは正直に事の顛末を証言してください」

 そう耳元で囁いた。そして、

「和久利さんが腰を抜かしているようです。すみませんが手を貸していただけませんか」

 階下でバタバタと動き回っている刑事たちに俺を動かすように声をかけた。刑事たちに肩を借りてなんとか階段の下まで降りることができた。

 階下にうつ伏せで倒れた濱西の顔は見えなかった。


 この事故の事情聴取はたいした時間もかからずに終わった。警察も事故だろうとあたりをつけていたみたいだ。

 ただ濱西から脅迫されたことは黙っていた。単に濱西から、自分を雇ってほしいと言われたこと、できる限りのことはすると言ってうっかり松葉杖をもったまま右手を差し出してしまったと説明した。よけいな疑いをかけられたくなかったし。

 警察は信用してくれたようだ。

 その後、客間で休んでいた俺のところに重村警部補と捏上探偵、それに若い刑事が一人やってきた。

「お休みのところ、すみません。ちょっとこれを見ていただきたいのですが……」

 警部補はそう言って小さく折りたたまれた濃紺のナイロン製の布を見せてきた。

「なんですか、これ?」

 俺が尋ねると警部補は若い刑事に向かって広げるよう命令した。刑事がその布を広げると見覚えのある浅いポケットが二つだけの薄手のジャンパーがあらわれた。

「やはり見覚えがありますか」

 顔に出てしまったのなら仕方がない。正直に答えた。

「僕のジャンパーです」

 なぜこれがここに?

「捏上くんから、あなたがご自分のジャンパーをどこかに無くしてしまわれたと聞いたものですから確認をさせていただきました」

「どこに……あったんですか?」

 内心を気取られないように注意しながら尋ねた。

「……キッチンに置いてあった濱西さんのものと思われるバッグパックの中です」

 警部補の回答は意外だった。

「どうして、そんなところに?」

「心当たりはありませんか?」

「まったく……僕は今日キッチンに行ったのは事情聴取だか実況なんとかが中断されて捏上さんと一緒にお茶を飲みに行ったときだけです。その時にはジャンパーはどこに置いたか忘れてました」

 俺は捏上に視線を送るが彼は興味なさそうな顔をしていた。

「ちょっとここを見てください」

 警部補はそう言ってジャンパーの右腕の袖口を俺に近づけた。そこには、なにか染みのようなものがべっとりとついている。

「血痕です。これはあなたが着ていたときからついていましたか」

「……いいえ」

「そうですか。これから詳しく調べますが、おそらくこれは金満さんの血痕だと思われます」

「え?……ちょっと待ってください。どういうことですか」

「これが金満さんの血だと証明されたら、あなたの金満さん殺害容疑は濃厚になります。あなたはこれを着た状態で金満さんを撲殺し、我々がくる前に濱西さんのバッグパックに入れたのではないかと考えています」

「待ってください」

 これは俺のセリフじゃない。やる気なさげだった捏上が右手を軽くあげて重村警部補の説を遮ったのだ。

「和久利さんのジャンパーに金満さんの血がついていたからと言って和久利さん犯人説にするのは単純すぎませんか」

「どういう意味だ」

 警部補はこの日、何度目かの「どういう意味だ」を口にした。苛立ちは隠せないようだ。

「事実はこのジャンパーを調べればあきらかになると思いますが、おそらくこのジャンパーには他の人の指紋がついていると思いますよ」

「他の人の指紋?……誰のことだ」

「もちろん真犯人のですよ」

 捏上はさも、当たり前じゃないかというような調子で答えた。

「真犯人、って君はわかったのか!……いったい誰だ」

 真相がわかった探偵は警部補の言葉を遮るように両手を壁を作るように差し出した。

「まあまあ、慌てる必要はありません。それよりも、そのジャンパーを鑑識に回さないと阪上さんがうるさいですよ」

 警部補の命令で若い刑事がジャンパーを持っていった。あれは、もう返ってこないのかな。

「さて、事件自体はそんなに複雑じゃありません。どこにでもある衝動的な撲殺事件です」

 あんたらの世界では「どこにでもある」のかもしれないが、俺には初めての出来事だよ。

「金満さんに呼び出されてバカ正直にワイン持参でやってきた和久利さんは撮影の疲れからか客間で休むことになりました」

 バカは余計だが、この際はどうでもいい。

「リビングで一人で飲んでいた金満さんが呼びつけたのか自分の意思で来たのかは、わかりませんが犯人がやってきます」

「だから誰だそいつは」

 苛立つ警部補の質問を無視して探偵は告発を続ける。

「最初は穏やかな雰囲気だったと思います。和久利さんが忘れていったジャンパーをおどけて着る余裕があったのですから。しかし、その後なんらかの言い争いが起きたのでしょう。そっぽを向いた金満さんの側頭部にまだ残っているワインの瓶でぶっ叩きました。

「その時、犯人は直接瓶を持つようなヘマはしなかった。和久利さんのジャンパーの袖口を上げて手元を隠して持ったのです」

「それは、指紋をつけないためか?だが、瓶には拭き取った跡がついていたそうだぞ」

 警部補の反論にも捏上は動じる様子はない。

「指紋のためよりも血で手を汚したくなかったのでしょうね。指紋がついていないのはわかっていたでしょうが、持っていた布かなにか、おそらくあのジャンパーだと思いますが。それで瓶の口のところを拭いた。そうすることで捜査の撹乱を謀ったものと思われます」

 捏上は得意げに客間の中を歩き回りながら自説を展開する。

「我に返った犯人は焦ったでしょう。いつ和久利さんが戻ってくるかもしれない。それでも考えつく限りの工作をします。窓を開けたり和久利さんのジャンパーを持ち出したり」

「どうしてジャンパーを持っていくんだ?そのまま置いていったら彼を犯人に仕立て上げられるだろう」

 捏上は呆れたように説明する。

「そんなの意味ないですよ。ジャンパーには犯人の指紋が付着しているんですから。ジャンパーをできる限りコンパクトに折りたたんで隠すように持っていったと思います。もし途中で和久利さんに会ってもごまかせるように。実際はそんな事態にはならなかったみたいですが」

「……ちょっと待ってくれ。その犯人が……今さら名前を伏せる必要もないと思うが、濱西が窓を開けたと言い切れるのはなぜなんだ?そんな報告はなかったが」

「窓の付近には本当に和久利さんの足跡しかなかったですか?たくさんの足跡の一番上に彼の足跡があったのでは?」

「……うん、たしかに。元々、外部から侵入した形跡を調べていたからな。内部のスリッパの跡などは詳しく追っていないはずだ」

 警部補は自分たちの不備を認めた。

「とにかく急いで帰ろうとした矢先に和久利さんからインターホンで、これから警察を呼ぶからと連絡がありました。これでジャンパーを外に持ち出すことが不可能になってしまいました。彼女の誤算でしたね」

 得意満面の探偵に警部補が

「うん、彼女に犯行が可能だということはわかった。だが、君は和久利さんの時に言ったが彼女にも動機はないだろう。むしろ、金満さんが死んでしまったら仕事が無くなってしまうデメリットが生じるじゃないか」

 冷や水を浴びせる。だが、我らが名探偵は怯む様子もなく、

「衝動的なものだから、そこまで考えていたとは思っていません。和久利さんがあの殺人を犯すには事前にいろいろな工作をしなくてはいけませんから、カッとなってやったというのは無理があります。……まあ、それでも彼女の場合は和久利さんという再就職先を考えていたみたいですが」

「捏上くん、君はいつから彼女が怪しいと思ってたんだ?」

「……いつからというわけでは、ありませんね。和久利さんが真犯人でないのなら、あとは消去法でしょう」

「しかし、君は外部からの他にこの屋敷に誰かいる可能性を示唆したじゃないか」

「それは……金満先生が殺される直前までくつろいでいたから犯人は顔見知りの可能性が高い。そんな人がこそこそ隠れる必然は少ない……っておっしゃってましたよね」

 俺はキッチンで聞いた捏上の推理をもう一度繰り返す。捏上は満足そうにうなずいた。

「彼女の周囲を調べれば動機も見えてくると思いますよ。……年の差があるとはいっても独身の男と女が一緒の空間に長い間いて愛憎であれ、揉め事であれ、無いというほうが少ないでしょうから。……まあ、偏見かもしれませんが」


 捏上の偏見は後日明らかになった。この事件は芸能マスコミがセンセーショナルに取り上げた。特に某週刊誌はどこから手に入れたのか濱西のスマホの中に書かれていた日記の一部を公開した。そこには金満から体の関係を強要されたこととか、事細かに書かれていていた。


 こうして事件は被疑者死亡という形で幕を下ろした。

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