みんなの笑顔の為に
その区画は異世界から召喚されたイノリ達召喚者の居住区画だ。
区画にはレジャー施設などの娯楽に加え、売店などのサービスも揃っており、艦から出なくても生活出来るように設計されている。
その為、アステリアはギア適合者のバックアップ機能以外などを除き、大半の労力をこの居住区画に注いでいた。
テレビやトイレにお風呂、さらには独自のネット回線が全ての個室に引かれ、プライバシーも当然のことながら守られている。
談話室では《魔人》から解放された召喚者や特派のクルー達が楽しげに談笑している姿をよく見かける。
体を思う存分動かす事が出来るレジャー施設は子供から大人まで幅広い層に人気だ。
さらに、天候操作機能が居住区画には備わっており、希望を出せばレジャー区画などの公共の場で、天候を操作する事も可能だ。夏空も紅葉も、雪化粧も桜並木だって何時でも再現できる、高性能な設備だった。
部屋のフィルターを操作する事で普段見る事の出来ない外の風景も見る事が出来る。
まさに至れり尽くせりといった有様になっている。
少しでも快適な生活を――そんなクロムの気心が伺い知れる仕様となっており、最大の特徴は、この区画は他のどの区画よりもマナフィールドを強固にしている事だろう。
イクスギアを身に付けなくても魔力の暴走を押さえる事が出来る。この区画最大の特徴だ。
その居住区画の一室に設けられたイノリの部屋。
そこにはラフな恰好に着替えたイノリが机に向かってペンを走らせていた。
イノリの装いは膝下まである黒いシャツ一枚だけ。その服一枚で体の大部分を覆い隠している。
もちろん、下にはラフなパンツを履いているが、ほとんど下着に近い。
お風呂上がりなのか、ほんのりと赤く染まった湯上がりの白い肌。うなじを見せるように長い髪をアップに纏めたイノリの姿は普段中々お目にかかれる姿ではないだろう。
部屋の中だけで見せる気楽な恰好。
普段の凜々しさもなりを潜め、イノリは熱心に机に向かってペンを走らせる。
机に広げられたノートに書き綴られた内容は、有り体に言ってしまえば自作小説だ。
山積みになって部屋の隅に詰まれたノートは全てイノリがこれまで手掛けてきた作品たち。
恋愛、ファンタジー、短編など幅広く書き連ねたイノリのささやかな趣味だ。
お世辞にも上手とは言えないが、一部の小説はネットの海に放流し、それなりの読者に読んでもらう事が出来た。
今書いている物語ももうじきクライマックスを迎える。
だが、その場面でイノリの手がピタリと止まった。
妄想を邪魔するかのように一人の少年が意識にこびりついて離れない。
執筆の手を止めたイノリはしかめっ面を浮かべながらベッドの枕元に並べたぬいぐるみの一つに手を伸ばす。
イノリの部屋にはファンタジー主体のマンガや小説が本棚に大量に並べられている。
その他にも可愛らしくデザインされたぬいぐるみなどもあり、それらは、外に外出した僅かな時間などに密かに集めたイノリの趣味だ。
イノリはまだ幼い頃、この世界に召喚された。
だからだろう。イノリには元いた世界の記憶があまりないのだ。
家族の顔は覚えている。だが、住んでいた場所や友達の顔はもう思い出す事が出来ない。
異世界での生活よりもこの日本での生活の方が長く、故郷と呼べる程の気持ちが湧かない。
だからこそ、その気持ちを維持する為にも、イノリはこの世界のファンタジーの世界に触れて故郷に思いを馳せるのだ。
そう考えれば、イノリのこれらの趣味も単なるオタク趣味と一括りにする事は難しいかもしれない。
まぁ、小説の内容は趣味丸出し。知り合いに見られるような事があれば赤面は免れない内容だが……
◆
イノリは趣味を邪魔するように思考を遮った一騎を思い浮かべ、複雑な気持ちになる。
二人目のギア適合者として快く迎え入れるべきなのだろう。
だが、素直に喜べない。
一騎は元人間。異世界とはなんの関わりもなかったただの少年だ。
だが、十年前のあの日、イノリ達がこの世界に来たせいで――イノリのせいで、彼は魔力なんていう爆弾を抱えてしまった。
取り返しのつかない過ち。
未だに打ち明けられない真実をその胸の内に抱え、イノリはくの字に膝を抱えた。
「どうしたらいいの……?」
助けを求めるように呟かれた声に、されど答える者は一人もいない。
この罪も、責任からも逃げる事が出来ない。
彼がすぐ側にいる――イノリを守る為に戦うという事実だけで、底なしの沼に放り出されたかのような虚無感に足を掬われてしまう。
解決出来ない問題にイノリは涙すら流してしまう。
だが、問題はそれだけではない。
彼は《魔人》の正体がイノリと同じ異世界から召喚された人たちである事を知ってしまった。
その事が余計にイノリを不安にさせるのだ。
いくらか言葉を交わせば、彼がどういう人間なのか察しはつく。
優しい。とても優しい人間だ。
争いを好まない。戦う事が嫌いな人間。それが一騎という少年なのだろう。
だからこそ、気付かせてはいけない。
一騎が初めて《魔人》と化して暴走した時、一人の《魔人》の命を奪っている事を。
特派もイノリもあの暴走を止める事が出来なかった。
だからこそ、全ての責任を一騎に押しつける気も一騎を叱責する気もなかった。
だが、一騎がその真実を知れば?
誰よりも優しい――人を傷つけてる事に誰よりも傷つく彼が、人を殺した事を知ればどうなってしまうか……想像する事は容易い。
だから、一緒に戦いたくなかった。
戦って欲しくなかった。
我が儘だと知っていても、一騎にはこの世界の幸せを享受して欲しかった。
だからだ。
彼に冷たく当たってしまうのは。
彼に少なくない好意を寄せているからこそ、突き放すような言葉が出てしまう。
(私の気持ちを全部無視して……)
思い通りにならないことに対する苛立ち。
まるで子供だ。
そうとわかっていても自制する事が出来ない自分に嫌気がさす。
どうしようもない堂々巡り。一騎と今後どう接していいかわからない。
不安な感情に押しつぶされそうなったイノリは頬を数回叩く。
(あいつにはもうギアを使わせないようにするしかない。私一人でもちゃんと戦えるってところを見せないと……)
それがイノリの出来る唯一の抵抗だろう。
だからこそ、もう無様は晒せない。
イノリは逸る気持ちを抑え、トレーニング用の服に着替え直す。
この憂鬱とした気分を発散させる為に、もう負けない為にイノリは気持ちを新たに扉を開けるのと同時。
「お、お姉ちゃん?」
今まさに扉を叩こうとしていた幼い少女がイノリのお腹に飛び込んできたのだった。
「え、えっと……どうしたの?」
まだ小学生くらいの少女だ。
だが、イノリは彼女の事を克明に覚えている。
忘れるはずがない。
イノリがギア適合者として初めて戦った《魔人》――それがこの少女だった。
恐らく、この世界に召喚されたのは赤ん坊の頃だろう。
イノリよりも幼い彼女は自分が召喚者である事すら知らない。
それでも、特派の言いつけを守り、この居住区画からは出ない事を約束してくれた。
ギアを持たない
だからこそ、彼女にとってこの艦の――この居住区画が世界の全てなのだ。
《魔人》から解放された他の召喚者達が彼女の面倒を見てくれているが、なぜか一番イノリに懐いている。
この子がイノリの部屋に遊びに来る事も多く、傍目から見れば仲のよい姉妹に見えなくもない。
イノリはその小さな友達の視線に合わせるように膝を折り、年相応の可愛らしい笑顔を浮かべる。
少女は後ろ手に回していた小さな手の平に乗せられた可愛らしい包み紙をイノリに見せてきた。
「お姉ちゃん、これ」
「ん? どうしたの?」
綺麗に包装され、リボンでラッピングされた包み紙を見て、イノリはキョトンと首を傾げる。
少女は上目遣いでイノリを見つめながら――
「これ、お姉ちゃんに」
ズイッとその包みをイノリに手渡してきたのだ。
イノリは慌てて包み紙を返そうとする。
どう見てもこの包み紙はアステリアで手に入る代物じゃなかったから。
「う、受け取れないよ。こんな高価なもの」
どのような物であれ、このアステリアで手に入らない代物は高価だ。
そう易々と受け取れない。
だが、少女は頑なに首を横に振った。
「お姉ちゃんに受け取って欲しいの。ダメ?」
上目遣いでそんな事を言われてしまえば、断る事など出来やしない。
イノリは困ったような表情を浮かべながらも少女からのプレゼントを受け取ると尋ねた。
「けど、どうして私に?」
「かんしゃの気持ち、だよ」
「え……?」
「おばちゃん達から聞いたの。今日は感謝の気持ちを伝える日なんだって」
「そ、そうなの……?」
そんなイベントはなかった筈だ。
今日は一騎の歓迎パーティーだけだった。
この区画にいる人達にも同様の料理を運んだから、もしかしたらそれで勘違いしてしまったのかもしれない。
けれど、今さらそんなイベントはないと告げるのも良心を苦しめる事になりそうだ。
「うん。だから、お姉ちゃんに」
「そ、そっか、ありがとう……」
イノリは苦笑を浮かべながら少女からのプレゼントを受け取った。
イノリにしてみれば、少女に感謝されるような事は何も出来ていない。
そればかりか、この小さな艦に閉じ込め、自由を制限しているのだ。
むしろ、反感を買いそうなもの。
けれど、次の一言に、イノリは思わず涙を堪えてしまうのだった。
「助けてくれて、ありがとう、お姉ちゃん」
「――ッ!?」
イノリは思わず口を押さえる。
そうでもしないと嗚咽が、涙が、溢れてしまいそうだったから。
この子は覚えていないだろう。イノリが《魔人》からこの子を救った事を。
けれど、この子の言葉にイノリの心の不安が洗い流されていく。
恐怖に耐えて戦った事。体中が痛くて投げ出しそうになっても戦い抜いた事は、決して無駄ではなかった。
一人の少女が笑顔を浮かべてくれる。
その姿に――イノリは求めていた答えを見出したような気がしたのだ。
この笑顔を守る為に――この艦に住む人達を笑顔にする為に戦って来た事、戦い抜く事は間違いじゃない。
戦いの終わりは近い。
だからこそ、この笑顔を曇らせない為に――みんなの笑顔を取り戻す為に戦おう。
もう、誰も傷つけさせはしない。《魔人》と戦う恐怖も痛みも――私で最後だ。
イノリは決意を新たに、その子を強く抱きしめて、震える声でそっと囁くのだった。
「私の方こそ、ありがとう……」
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