《魔人》覚醒

 息も絶え絶えに一騎は小さな公園と逃げ込んだ。

 近くにあった遊具に身を潜め、一息つく暇もなく泣き叫ぶ子供を必死にあやす。


「大丈夫だから! お兄ちゃんがついているから!」

「助けてぇ……お母さん……」


 一騎の腕にすっぽりと収まった子供は、一騎の服に涙や鼻水を擦りつけながら、ここにはいない母親に助けを求める。


 一騎が必死に大丈夫だと言っても、子供は聞く耳を持ってくれなかった。


 仕方ない事だと一騎は思う。

 それ程までに先ほどの怪物は一騎達に恐怖を刻みつけたのだ。

 

 一騎は肩を竦めると、ただ無言で子供の頭を撫でた。


 今、一騎がパニックに陥っていないのは、ひとえに目の前に一騎よりもはるかに幼い子供がいるからだ。

 こんな小さな子供の前で泣き叫ぶなんてみっともない真似は出来ない。

 この子に余計な不安を煽ることにもなるし、いざという時の対処が出来ないからだ。


 それに――


 『本州大震災』で、一騎はこれ以上に過酷な状況を経験してきた。

 だからだろうか、あの凄惨さと比べればまだ事態を冷静に分析するだけの余裕は残っていたのだ。


(どう考えても、避難警報はこの為だよな……)


 地震の被害から地域の住民に避難を促す為の警報。

 それが鳴り響いてから、既に三十分は経過しているだろう。


 なのに、一向に震度七を超える大地震は発生していない。

 これを誤報と片づけるわけにはいかなかった。


 なにせ、これまで一度も災害警報は外れたことがないのだ。

 いつも、街の至る所が警報解除後には破壊されている。

 それは建物であったり、電柱であったり、道路であったりと被害は様々なのだが、その被害規模は街全体に及び、その被害を見て、一騎はこれまで地震が発生していたと結論付けてきたのだ。


(けど、もし、全てがあの黒い怪物を隠す為のフェイクなら……?)


 学校の校門で見たあの黒い異形。とてもこの世界の生物とは思えなかった。

 それに、剣のように鋭く尖ったあの手を使えば、建物を両断することも容易いだろう。


 全てはあの黒い異形を隠す為の細工?


 なら――政府はこの存在を知りながら、黙っていたのか?


 それに、あの銀髪の少女は?

 一瞬しか――それも後ろ姿しか見えなかったが、あの甲冑のような姿――どう考えてもあの黒い異形の関係者だろう。


 さらに考えを巡らせようとした矢先――


『グオオオオオオオッ!』


 一騎の思考は遠くから聞こえた獣の咆吼により、中断される。


 そうだ。今はあの黒い異形の正体を考えている場合じゃない。

 とにかくこの子をどこか安全な場所に。


 地震が起こらないとわかれば、無理にシェルターに駆け込む必要はない。

 どこかひと目のない場所――あの異形が気付きにくい場所まで逃げればいいのだ。


(どこだ……? そんな都合のいい場所……)


 学校は無理だ。さっきの女の子が戦っているかもしれない。

 もしかしたら移動しているかもしれないけど、危険を犯してまで戻ることはないだろう。


 なら――寮の自分の部屋はどうだ?

 一騎の部屋は寮の二階に位置する。一階からは中の様子まで見えない。

 戸締まりだってしっかりしている。

 電気も消せば問題ないはずだ。


「ねえ、もう少しだけ頑張れるかな?」


 一騎は抱きかかえた子供に視線を向ける。

 子供は泣き疲れたのか、ふるふると首を横に振るだけ。

 もう一度抱えて走るしかなさそうだ。


(僕も限界なんだけどな……)


 この異常事態の中、一騎は子供の前でみっともない姿だけは見せたくないという矜恃だけで精神力を保っている。

 だが、精神面は補えても、体力ばかりはいかんともしがたい。

 すでに体力は底をつき、腕も足も満足に動かせない。乾いた喉が水分を欲していた。


 この局面を乗り越えたら、絶対に筋トレをしよう。

 そう強く心に誓いながら、一騎は子供を抱きかかえ、最後の気力を振り絞る。


「いくよッ!」


 勢いをつけて身を隠していた遊具から飛び出し、一直線に寮へと向かって駆け出した!


 その直後。


 ズガアアアアアアンッ!


 目の前の地面が爆ぜ、轟音が鳴り響く。

 土煙から現れたそれを見た瞬間、一騎は言葉を失った。


 一騎が飛び出すタイミングに示し合わせたかのように、先ほどの黒い異形が空から落ちてきたからだ。



 ◆



「嘘……だろ……?」


 一騎は言葉を詰まらせながら囁いた。

 先ほど校門前に現れた黒い異形。

 銀髪の少女と戦っているはずのそれが目の前に現れたのだ。


 絶望しかない。

 走り出した足は止まり、一騎は黒い異形の前で立ち尽くした。


 目の前が真っ白になる。

 こんなのどうしろと……?


 一騎は呆けた思考で、一歩後退る。


『グルオオオオオオッ!』


 黒い異形が吠えた。

 先ほどまでと異なる鋭利な爪が生えた腕を振るい、一騎を突き飛ばす。

 

「ぐああああッ!!」


 ザシュッ――と右腕が爪に引き裂かれ、血しぶきが舞った。

 右腕が浅く裂かれ、傷口から血がとめどなく溢れ出す。

 子供を腕の中に抱きかかえ、子供への直撃だけは避けていたが、それでも小さな子供には衝撃が大きかったらしく、子供は気を失っていた。


 一騎は痛みで痺れる体を引きずり、なんとか黒い異形から距離を離す。

 わかってる。こんなの時間稼ぎにもならない。


 刻一刻と迫る死に、早鐘のように心臓が脈打つ。

 全身から汗がドッと噴き出し、身体が震え上がった。


(死ぬのか? 僕は……?)


 こんなところで?


 何も出来ず、何も成さないまま?


 十年前、大震災で生き抜いたのには意味が無かったのか?

 この黒い異形に出会い、殺されるためだけの運命だったのか……?



 一騎はその運命を否定するッ!



「ふざけるな……ッ!!」


 一騎は荒ぶる感情をそのまま吐露した。


 こんな場所で死んでたまるか!

 

(僕は……死にたくない! こんな場所で……)


 まだ何も出来ていない。

 恋だって、夢だって、何一つ叶えていないのだ。

 

 もう結奈の笑顔を見れないのは嫌だ。

 結奈と冗談を言えなくなるのが嫌だ。


 また結奈に会いたい。

 


 だから――死ねない。

 なにより――


(何を犠牲にしてもいい。僕の日常を守る力を――理不尽をぶち壊す力を――)


 十年前、『死ぬな! 生きろッ!!』と一騎に叫んだ少女の声が、脳裏に一瞬過ぎった――銀色の髪の少女が一騎に生きる力を与えてくれる。


 そうだ。


 忘れていた。とても大切なことを――


(僕は……は……知っているじゃないか)


 この怪物を倒せる力の存在を。

 ただ、その存在を十年間忘れていただけだ。

 ずっと燻ってきた体の奥底に眠る力の本流。

 一騎はその力が黒い異形と同じ根源であることを本能的に理解していた。


(守る為の――ぶっ壊す為の力は、ある……俺は、コイツを……)



 破壊する――


 その瞬間。一騎の思考は黒一色に染まった――


『オオオオオオオッ!!』


 一騎の口から咆吼が響き渡る。

 周囲を震撼させるほどの巨大な咆吼に黒い異形は対抗するかのように応酬した。


『グルオオオオオッ!!』


 二つの咆吼が共鳴し、地面が陥没。公園にあった遊具などは無残に吹き飛んだ。

 二人の異形が対峙する。


 黒い異形は鋭利な爪をカチカチと鳴らし、裂けた口元が怒りに歪む。


 そして――

 異形の姿へと身を堕とした一騎は――

 白髪の髪に、深紅の瞳。そして狼のような獣の耳や尻尾を生やし、自らの武器ともいえる爪や牙を覗かせ、剣呑な眼差しで黒い異形を睨みつけていたのだった――

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