世界が変わった日

 一ノ瀬一騎はその時の光景を未だ色あせる事なく覚えている。

 瓦礫となった団地。泣き叫ぶ人たち。

 火災は多発し、逃げ遅れた人達はその地獄の業火に身を焦がす。


 空は曇天や夜の闇さえ超える黒。炎の煙に遮られた空に日の光なんてどこにもなかった。

 ライフラインは完全に死滅し、町からも光が消えた。



 町が――国が死んだ。



 大勢の人が死に、また大怪我を負った、今から十年前の大災害――『本州大震災』


 それは、本州全域にわたって発生した震度七をも超える大震災だった。

 たった一夜にして日本政府は瓦解し、人々は住む場所を失った。

 一騎もその一人だった。


 だが、彼がこの十年、片時も忘れることなく覚えているのは、何も地震で苦しむ人達だけじゃない。


 一騎を助けようとする見知らぬ誰かの声。


 一騎はその事を今でも覚えている。一言一句違える事なく。


『大丈夫、絶対に助けるッ! だから生きようとする意思を捨てないでくれッ!』


 飾り気もひねりもない言葉。だが、その人の心からの言葉であることは疑いようがなかった。

 その声は女性の声だった。

 とても澄んだ綺麗な声音。思わず聞き惚れそうになったほどだ。


 だが、今でも少し不思議に思う。


 一騎は、あの大災害で奇跡的に無傷だった筈だ。


 なのに、何故、あの声の主はそこまで必死になって一騎に声をかけ続けたのだろう……


 そして、なぜ――


 声も言葉も思い出せるのに、彼女の顔だけはまったく思い出せないのだろう――




 ◆




 それは、ある日の放課後ことだ。

 旧校舎の階段を上る一組の男女の姿があった。

 二人とも、両手で抱えるほどの大きな段ボールを抱え、少年は額に汗をビッシリと浮かべ、少女の方は涼しげな表情を浮かべていた。


「ほら、一騎もう少しだから、頑張って!」


 少女が振り返り、少年――一騎を鼓舞する。

 一騎は半眼で呻きながら、必死な形相を浮かべ、一歩、一歩とふらつきながら階段を上る。

 あまりに鈍重な歩みにたまらず少女――友瀬ともせ結奈ゆうなは大きなため息を吐く。


「あぁ~本ッ当にだらしない」


 一騎も結奈も抱えた段ボールは同じ物だ。中身は明日の全校朝礼で学生に配る学生会からのプリント。

 そのプリントの山を二人は学生会室まで運んでいる最中だった。

 だが、たった一枚の紙切れでも全校生徒分となれば、その量も嵩張る。


 互いに山分けして抱えても、その重量は一騎の両足に重くのしかかり、三階の学生会室に戻る僅かな間に、体力の全てを奪い去っていたのだ。


 これでは何時までたっても仕事が終わらない。結奈が呆れるのも無理は無かった。


「う、うるさい……」


 息も絶え絶えに一騎は反論する。

 だが、言葉にも態度にも余裕はなく、限界は近かった。


「だから、持ってあげるって言ったのに。下らない意地張っちゃって」

「お、女の子に……全部、押しつけるなんて……僕のプライドが……」


 プルプルと震える両腕に力を込め、一騎はまた一歩階段を上る。

 結奈は一騎の奮闘ぶりをどこか優しげな視線で眺め、そっと荷物を抱え直す。




 結奈の段ボールに入ったプリントの量の方が一騎よりも多い事を、一騎は最後まで知る事はなかった。



 ◆



「はぁ~やっと終わったぁ……」

「思ったよりも時間がかかったわね……」



 既に日も落ち、辺りはすっかり暗くなっていた。

 三月の終わりはまだまだ肌寒く、一騎は制服のポケットに手を突っ込み、寒さに耐え忍ぶ。

 結奈も薄手のカーディガンを羽織り、キッチリと防寒している。二人が出たタイミングで完全下校を告げるチャイムが鳴った。



 一騎と結奈は学生会のメンバーだ。

 一騎は副会長。そして、結奈は書記。

 他にもメンバーは居るのだが、全員先に下校していた。


 というのも――


「そもそも一騎がひ弱じゃなかったらこんなに時間はかからなかったんだけどね」


 皮肉めいた笑みを浮かべ、結奈が一騎の脇を小突く。

 一騎は「うぐッ」と顔を強ばらせ、たじろいだ。

 取り繕ったようにコホンと咳払い。


「し、仕方ないだろ。会長は家の都合で帰らなくちゃいけなかったんだ。副会長の僕が代わりにやるしかないだろ?」

「それとひ弱は関係ないでしょ。大体、旧校舎から本校舎まで段ボール一つ運ぶのに時間かかりすぎ。私が往復した方が速かったわよ」

「それは……」


 そうかもしれない。

 一騎は思わずそう思ってしまった。

 結奈は勉強は苦手だが、運動神経は抜群。学生会と掛け持ちで、陸上部にも所属し、何度か大会にも出た事がある。

 学生会の皆で応援に行った事があるが、メダルを受賞する結奈の姿は純粋に格好良かった。



 対する一騎は勉強は平凡、運動神経はまるでない。体育の成績だって壊滅的だ。

 サッカーや野球の授業では最後まで必ず残り、クラスどうしで押し付け合いが始まるほどの運動神経の無さ。

 リレーではいつも最下位。シャトルランでは誰よりも速く脱落する。体力測定なんて無くなってしまえ――と心から願わずにはいられない。


 今日だって、こんなに時間がかかったのは一騎が荷物運びを申し出たからだ。

 一騎に付き添った結奈はとんだ災難だっただろう。


 だが、結奈は嫌な顔一つ浮かべず、むしろ嬉しそうな表情を浮かべ、最後まで一騎に付き合ってくれたのだ。


「……どうする? どこかでご飯でも食べていく?」


 ささやかなお礼として、一騎は結奈をご飯に誘う。

 この辺りはファミリーレストランも充実しており、帰りに寄る学生も多い。

 結奈は嬉しそうな表情を浮かべるが、それも一瞬。すぐにバツが悪そうな表情を浮かべた。


「ゴメン、今日はお父さん達がいるんだった」

「おばさん達帰って来てたんだ」

「うん。そうなの。ここの所出張続きだったんだけどね……」

「政治家も大変だね」

「ただ判子を押せばいいだけよ。簡単な仕事だわ」


 結奈は頬を膨らませ、拗ねた様子で言い捨てた。

 結奈の親は両人とも政治家だ。

 だが、この国の政治はここ十年、まともに機能していない。


 十年前の大災害――『本州大震災』で日本政府は崩壊。当時の日本政府の重鎮のほとんどが瓦礫の中に埋もれ、人口の約四割を失った日本は他国に救援を求めるしかなかった。


 瓦解した国に他国の介入を許せばどうなるか――この十年の政策がまさにそれを象徴していた。

 

 かつてあった権利も主張も奪われ、残ったのは日本人というレッテルだけ。政治も掌握され、他国の言いなり。

 日本は傀儡国家として、他国にその身を売り渡したのだ。


 日本という国は消滅した。だが、他国の支援もあり、復興は思いの外、速く進んだ。

 僅か一年という驚異的な速度で復興を果たし、震災前とはある一点を除き、ほとんど変わらない生活を日本人は取り戻したのだ。


「じゃあ、また明日」と互いに別れの挨拶を済ませ、一騎は馴れた通学路を歩く。


 そして――


 一騎が寮の前に到着する頃――その異変は起こった。



 ウウウウウウウウウ……――


 聞き慣れたサイレンの音が街中に電波する。


 それは、これから起こる非日常の狼煙ともいえる警報だった――

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