第9話

 この日の少女はいつもと様子が違っていた。どこか落ち着きがなく、顔が真っ青だ。体調でも悪いのだろうかと少年は心配に思う。少年は先日、少女を転ばせてしまったことを詫び、一輪の野花を持って公園にやってきたが、少女は色とりどりの花束を抱えてやってきた。少年が手に花を持っていることを気付くと、少女は「かわいらしいね」と微笑む。少年は恥ずかしくて立派な花束を持つ少女に花を渡せないでいる。

「きみの花の方がきれいだ」と、少年が言うと少女は苦虫を噛み潰したような顔をした。

「まあ、そうね。花はきれいよ」

 少女は続けて捨てたくてたまらないけどと小さく呟いた。少女は先ほどまで許嫁のところへ挨拶に行っていた。挨拶とは名ばかりで、許嫁が少女を一方的に弄び、乱暴に愛した。少女の不幸な結婚は父の業績が悪化したためだった。父親に売られたのだ。

 少女は少年と一緒にベンチに座ると、おなかを撫でた。そして、この話は聞いたらすぐに忘れてほしいと前置きをしてから思い切ったように語り始めた。

「私、恋仲の男性がいるの。前回の滞在地で出会った方で、郵便配達員をしているわ。それでね、わ、私、アランの子どもを妊娠しているの。計算すれば許嫁と出会う前に妊娠しているのは明らかよ。まだ誰にも、アランにさえ言っていない。」

 少女の声が震えている。

「私だって父の力になりたいと思っているわ。だから、さっきまであんな酷い仕打ちに耐えて……。これまでだって耐えてきた。でも、もうこれ以上は耐えられない。私、アランと一緒になりたい。でも、逃げ出せない。私もアランもお金を持っていない。今日だって嘘をついてホテルから出てきて……、私のすべては父のためにあるのよ。私の人生なのに私の人生じゃないの。どうしたらいいと思う。あなたならどうする?私、幸せになりたいだけなのに!」

 少年は、ああと声を漏らすだけで何も話せなかった。何度も暴力や理不尽に襲われてきた少年だったが、少女がこれまで受けてきた屈辱は少年にはまるで想像もできなかった。泣いて震える体を抱きしめることさえできない。自らの無力さに惨めになる。カラスの鳴き声と少女のすすり泣く声が嫌に耳に残り、少年は頭が痛くなる。

「ああ、こんなに人前で泣いてしまって、ごめんなさいね。私ね、それでも……この、この硝子の飾りが私を幸せにしてくれるって、ずっと信じている。だって、あのお婆さんの瞳が嘘ついているようには見えなかったもの。きっと、最後は幸せになれるわ」

 少女のその言葉は痛々しく苦しかった。少女の執念にも似た硝子への祈りを目の当たりにして、少年はリュックの中の革袋を渡してしまおうと思った。少女が幸せになるのなら、これまでの自分の人生を明け渡してたってよかった。ただただ少女の笑う顔が見たかった。少年はリュックを胸に抱き、中から革袋を取り出そうとする。が、どうしてもそれができなかった。何か、少年以外の力によって押さえつけられているようだった。体がどうしても硝子を手放すことを許さなかった。少女が顔を手で覆い、大粒の涙を隠す。隣で悲しむ人がいるのに何もできない。少年まで涙が出そうだ。少年にはこういうとき、どうしたらいいのか知らなかった。少年が悲しいときやつらいときにそばにいた人はいなかった。母親がいた頃はまだ、悲しみに出会わなかったから。

 少女は泣き止んだ後、ずっと黙っていた。虚空を見続けていた。葉が落ちて少年の肩に乗った。そして少女の膝にも落ちてきた。2人は何も言わない。触れることのない手が寒さで凍える。少年の気付かぬ間に手から野花が落ちた。時間が流れる。少女の帰る時間になると、また会う約束をして別れを告げた。少女は魂が抜けたような顔をして、花束を忘れて帰ってしまった。少年が仕方なく、その花を家に持って帰った。嫌になるほど綺麗な花束だった。

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