第5話
少年は公園に立ち寄り、陽当たりのよいベンチに座る。ここ最近の寒さに体が慣れず、指先が震えてしまう。最後にお湯を浴びたのはいつだっただろうか。かつては暖炉で凍えた手足を温めて柔らかい毛布に包まって眠っていた。母親は硝子の物語以外にも、様々なことを聞かせてくれた。父との甘いロマンス。我が一族の繁栄。祖父が若かった頃、戦場で残した数々の伝説について。少年は時折、こうして失った平穏の日々を思い出す。だが、すぐさま想起をやめる。過去は現在の少年の体を温めることはない。腹を満たすこともない。すべて意味の無いことである。少年の頭からいくつかの過去はこうして消え去ってしまった。
少年は昨晩出会った少女のことを思う。豊かで長く緩やかにウェーブがかった髪の毛がまず少年の頭の中に呼び起される。幼い娘のような柔らかな表情に似合わない少し低い声。気にせず夜に踊る自由奔放な腕、足。その先の履かれた靴、とその飾り。少年は硝子のあの靴飾りをどうしても手に入れたかった。あの瞬間、なぜ僕は靴を奪って逃走できなかったのか。少年は一人、思い悩む。少女の微笑が脳裏に浮かぶ。せめて、もう一度出会えたら。
「あら、昨晩の」少年が指を組んで俯いていると、頭上から聞き覚えのある女性の声が聞こえてきた。顔をあげると、たった今思い浮かべていた少女の顔が目の前に現れた。少女は昨晩と異なり、質素な服装をしている。髪の毛は緩くひとつに結わい、生成りのブラウスにブラウンのスカートをはいている。少年は少女の顔を確認するや否や、少女の靴を見た。今日は動きやすそうなブーツを履いていた。少年は少し落胆したが、ふと舞い降りた好機を逃すまいと、昨晩と打って変わって少女に積極的に話しかけた。
「やあ!き、きみは、レストランで出会ったね。えっと、寒いね。ごはんは食べた?調子はどう?」
少女は少年があまりに不自然に話すので、噴き出してしまう。
「うふ。私、エリス。あなたのお名前は?」
「名前は……忘れた」
「名前ないの?珍しいのね。まあいいわ。私、ちょっと急ぎなの。週末改めてここでお会いしません?」
少年は少女の瞳を見つめて、何度も首を縦に振る。
「それでは週末にね。お元気で」少女は小さく会釈をすると、スカートの裾を持ち上げて小走りで去った。「さようなら」と少年は口にしたが、そのときにはもう少女の姿は見えなくなっていた。少年は自分の手を左胸に持っていき、普段よりも強く鼓動する心臓を不思議に思う。
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