第3話

 少年は足を止めて息を整える。全身がズキズキとする。頭上の星空に気付くと糸が切れたように体が緩み、その場で座り込んだ。目の前はレストランだった。レストランに行く者も去る者も、みんな等しく豪華な洋服で着飾っている。妙齢の女性は流行りの羽根付きの大きな帽子を被っているが、少年には鳥の巣を頭に乗せているようにしか見えなかった。

 レストランから出てきた男女がお互いの体をしつこく撫でながら話を始めた。少年は陰に隠れる。

「ねえ、さっきの燕尾服がぱつぱつの醜い男、見ました?ベルトがおなかに食い込んでソーセージみたいだったわ!」

「ああ、あれは昨晩やってきた屑だね。田舎者を恐喝して安く仕入れた物品を、都市に運んできては言葉巧みに民衆を騙して高額で売りつける最低な男だと噂だよ」

 男は女の尻を撫で回し、女は下品な声で喜ぶ。

「なあに?有名人なの?」

「まあね。あの男に恨みを持ってる奴は大勢いるよ。しかし、あいつの隣にいた娘はえらい可愛かったなあ」

「やだ!若い子がそんなに好きなら私、帰りますわ」

 平謝りする男の腕に女は絡まって頬を紅潮させる。2人は酔っ払いの乱れた足取りで夜の街に消えた。少年はぼんやりと星空を見て、2人がこれから何をするのか想像する。

 レストランからまた人が出てきた。今度はドレスを着た女が2人。1人は少年と同じくらいの年齢の少女。波打った黒い髪をピンクのリボンで留めている。レースをたっぷりと使ったドレスだが、洗練されて無駄がない。もう1人は少女の付添人であった。焦げ茶色の地味なドレスを着ている。少女が何かを話すと、付添人は渋い顔をして首を横に振る。しかし、少女は構わずレストランの前を自由に走り、踊りだした。ドレスをふわりと揺らして、星空を仰ぎ、ワルツのリズムで器用に踊る。少女の鼻歌がかすかに聞こえてきて、少年はくすぐったい気持ちになる。かつて母親が聞かせてくれた曲だった。一瞬、雲から顔を出した月の明かりで何かが反射して少女の足がきらりと光った。よく見ると少女の靴には少年が集めている硝子の破片が飾られていた。硝子の下にはリボンが結ばれて、まるで宝石箱に入った宝石のように硝子は眠っていた。少年はまさかと思い、目を見張るが間違いなかった。もう一方の靴もとても似たような橙色の石が置かれているが、そちらは硝子ではない。左足にだけ硝子がはめられている。疲労困憊で意識が朦朧としていた少年であったが、硝子の存在を確認するや否や、どのように少女からその靴を奪うか考える。今は力が出ないが、明日、人気が少ない場所で、彼女を襲えば一瞬で手に入る。少年は脳内で少女を押し倒し、靴を奪い去る情景を描いた。何度も想像し出来ると確信したとき、少女が声を出した。

「あっ」何かが地面に落ちた音がした。

「靴が脱げちゃったわ!どこかしら。暗くて何も見えない」

 少女は付添人の袖を引っ張る。

「もう戻らないとお父様が心配なさるわよ!全くいつまで子どものつもりなのかしら」

 付添人は片足立ちの少女を置いてレストランの中へ戻っていった。

 少女はその場で寄る辺なく、靴が落ちたであろう場所を目を細めて見るが、暗闇に紛れて何も見えないようだった。このチャンスを逃してはならない。少年の体は本能的に動いた。動物のように地面を這い、音を立てずに近づいた。少年が靴を手にしようとした瞬間、再び雲が月の上から消えた。辺りはやや明るくなり、硝子がきらりと輝く。少年と少女は目が合った。少年は蛇に睨まれた蛙のように硬直する。少女は少年のぼろぼろの姿を見て驚いたが、すぐに笑顔を作って言った。

「取ってくださるの?ありがとう」

 少女はお辞儀をする代わりに、靴を履いてない左足をぶらぶら振った。

 少年の全身の緊張は解けない。鳥肌が立ち、すくんで返事も出来ない。そのまま靴を盗むこともできたはずが、できなかった。ただ、怯えた表情で少女を凝視している。

「あなたはこの辺りに住んでいるの?」少女が少年に声をかける。

 少年は首を横に振った。

「そう、私もここの人間じゃないの。今日は家族で食事よ」

 少女は両腕を使ってバランスを取り、片足で器用に立っている。左足を宙でふらふらさせたり、円を描いたりして遊んでいる。少女はぴょんぴょんと跳ねて少年の方へ近づいた。一歩、一歩と少女が近づいてくるたびに、少年は心臓が高鳴った。そして少年の前に落ちている少女の靴を拾った。少年の目の前で靴を履き、軽くステップを踏んだ。

「私、しばらくはここに滞在するから、もしよろしければまたお会いしましょうね」

 と、少女は少年に言っていたずらに微笑んで小走りでレストランへ戻っていった。少年は目をぱちくりさせている。硝子の破片は去ってしまった。


 その後、少年は酒を楽しむ人間たちの声から遠ざかるように街を当てもなく歩いた。真っ暗闇の中、人のいない2階建ての廃屋を見つけた。近隣や家の窓の様子を見て浮浪者や動物が住んでいないと判断すると、少年はそこに泊まることに決めた。ガタつく玄関の扉を恐々と開ける。目の前にある崩れ落ちそうな階段を慎重に上り、先客がいないか確かめてから突き当りの部屋に静かに入る。狭い部屋だ。真ん中に小さなベッドが置いてある。窓が大きいがひび割れて隙間からひゅーひゅーと風が入る。長さが窓に合っていないカーテンは埃を被り、先が千切れている。本棚に数冊、本が置かれてあったが、少年は文字が読めないためそれが何の本なのかは分からなかった。よく見ると壁には額縁がかかっていた。男の肖像画のようだが、真ん中に鋭利な物に突き刺さした痕が残っており無様に破壊されていた。ベッドにひかれたマットはかび臭く、尿の匂いも漂う。しかし、外で寝るよりもずっとましである。少年は疲れ切っていた。リュックを抱きかかえてすぐに眠りに落ちた。

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