告白ですか?

 九月下旬の日曜日。時刻はまだ午前六時にもなっていない。

 そんな早朝、康貴はエルを伴って隣町である東郷町のとある野池にやってきていた。

 バイパス瀬戸大府線清水ケ根にほど近い、小さな野池である。

 その池の東側奥、排水溝近くのコンクリート製の足場近くにて、合計三本の投げ竿が竿受けに立てかけられていた。

 その投げ竿の近くのコンクリート製の足場へと降りる階段に、康貴とエルは隣り合って腰を下ろし、静かに竿に視線を向けていた。

 やがて、じゃらん、と竿に取り付けられていた鈴が激しく鳴る。

 同時に竿の一本の穂先がぐいんと池に向かって引き込まれるようにしなり、康貴は慌てて竿に駆け寄って、しっかりと両手で保持して竿を振り上げて合わせを行う。

 がつん、と重たい手応えが竿を通して康貴の手にかかる。

 じじじじじっと異音を発しながら、スピニングリールのドラグが鳴って糸を吐き出していく。

 康貴は竿を一度大きくあおると、ラインを巻き取りながら竿をゆっくりと振り下ろす。

 そうやってラインをリールに巻き取っていくが、同時にどんどんとラインが強引に吐き出される。

 そんなやり取りを十数回ほど繰り返すと、徐々に魚の抵抗が弱くなってきた。

「エル! 網を用意して!」

「はいっ!!」

 背後でじっと康貴の様子を眺めていたエルが、彼の指示に従って予め説明されていた通りに網を手にして彼の横に並んだ。

 康貴の操る竿の先から伸びたラインは、かなり岸に近付いている。

 やがてエルが見つめる先、濁りの強い水面を大きな魚の尻尾が叩いた。

 周囲に水飛沫が飛び散り、再度魚が暴れ出す。

 それでも既に体力のあらかたを消耗しているため、最初のような抵抗はもうない。

 康貴は巧みに竿を操って、魚の抵抗を封じ込めていく。

 そして遂に魚の全容が見て取れた。

 真っ黒でまるまると太った巨大な鯉だ。全長は確実に70センチを超えている。

「わっ、大っきいですっ!!」

 思わず興奮した声を上げるエル。

「よし、引き寄せるから掬い上げてくれ。頭から網に入れるようにするんだ。尻尾から入れようとすると逃げられるぞ」

「は、はいっ!!」

 エルは両手で網を持ち、言われたように鯉の頭から包み込むように網を操作した。

「お、重い……っ!!」

 予想以上の重量に、エルが小さく悲鳴を上げる。

 竿を地面に寝かせた康貴が、エルに代わって網を受け取り、魚を水から掬い上げた。

「おっし…………っ!!」

 網ごと魚を地面に下ろし、小さくガッツポーズを取る康貴。

 エルも鯉の巨体に目を白黒とさせている。

 鯉の口から吸い込み仕掛けを取り外した康貴は、スマートフォンで記念の写真を数枚取るとそのまま網を持ち上げて魚を池に帰してやる。

「え? 折角釣り上げたのに逃がしちゃうんですか? 食べないんですか?」

「釣り人の中には釣った魚は絶対に食べるって人もいるだろうけど、僕は食べるために釣っているわけじゃないからね。それに、この池の水はあまり綺麗じゃないし、鯉は食べる前に泥を吐かせなきゃならないし、いろいろと面倒だから」

「食べるためじゃなかったら……どうして釣りなんてするんですか?」

 不思議そうな顔をするエル。こちらの世界の人間だって、キャッチ&リリースが理解できない者がいるぐらいだ。基本的に獲った動物や魚は食料、という考え方のエルたちにしてみれば、折角釣り上げた魚をリリースするのは理解の範疇外だろう。

「魚とのやりとりを楽しんでいるんだよ」

「はぁ……」

 やはり、エルにはよく理解できないようだ。



 昨今は研究が進んだことで、鯉は在来種ではなく外来種だと判明したらしい。

 日本にも在来種の鯉は存在するが、極めて限定的な地域にのみ生息しているため、康貴たちが暮らす日進市には、その在来種の鯉は生息していないだろう。

 外来種を再び放つことに対し、最近ではあれこれとうるさく言われることもあるが、この小さな野池では鯉釣りを楽しみたいがために、近所の有志たちが鯉の稚魚を放流していたりもする。

 この場で鯉を釣ることを怒られたりはしないだろうが、やはり持ち帰ったり、勝手に殺したりするのは、放流している有志の人たちとっては歓迎せざることに違いない。

 そのため、康貴は釣り上げた鯉は即座に池へと戻すのだ。

 その後、康貴は練り餌の団子を吸い込み仕掛けにセットし、再び仕掛けを池へと放り込む。

 どぼん、という音と共に練り餌の団子が沈み、着底したところで糸フケを取り、竿の穂先に鈴をセットした。

 これで後は待つだけ。

 ルアー釣りのように魚のいるポイントを探して常に移動して釣るやり方ではなく、魚が食うのを待つしかない吸い込み釣りは、忍耐との勝負でもある。

 腰を下ろし、風景を楽しみながらゆったりと待つ康貴。

 その横では、彼と同じようにエルも腰を下ろし、寄り添うようにして同じ時間を楽しんでいた。

 そんなエルを横目で見ながら、康貴は先日隆に言われた「エルのことをどう思っているか」という問いについてぼんやりと考えていた。

 もしも誰かにいつから彼女のことを好きになったのかと聞かれたら、今の康貴ならばきっとこう答えるだろう。

 初めからだ、と。

 初めて彼女を見た時から、既に彼はエルに惹かれ始めていたのだから。

 突然、自宅のリビングに現れた彼女。その美貌に一目で心を奪われた。

 そして彼女と交流を深めていく度に、どんどんと彼女の存在は康貴の中で大きくなっていった。

 一緒に暮らす中で見せる、彼女のちょっとした仕草が。

 こちらの世界のことを知り、その度に驚くその表情が。

 自分が作った料理を、本当に美味しそうに食べてくれる様子が。

 時に悲しさや寂しさを覚えながらも、それでも懸命に前を向くその強さが。

 そして何より、屈託のない明るい笑顔が。

 徐々に徐々に、そして確実に彼女は彼の心を染め上げていった。

 そして彼は自覚する。

 自分がエルにすっかりと心を奪われてしまったことに。

 だけど。

 だけど、康貴は自分の想いを彼女に告げられないでいた。いや、告げられないと思っていた。

(エルの足枷になるわけにはいかない)

 その思いが、彼の彼女に対する愛情を妨げる大きな壁となっていた。



 その後に更に一匹の鯉を釣り上げて、午前八時を過ぎたところで本日の釣行は納竿とした。

「じゃあ、帰って朝食にしようか」

「はい。実は私、お腹が減ってもう限界でした」

 この野池まで康貴の家から自転車で二十分ほどということもあり、朝食は家に帰ってから改めて食べる予定だったのだ。

 竿や仕掛けを片付けた二人は、池の端にある駐輪場へと向かう。

「そういや、新しい自転車の調子はどうだ?」

「はい! とっても良好ですっ!!」

 先日、念願だった自分の自転車を購入したエルは、最近ではどこに行くのにも自転車を活用していた。家の近所のコンビニに買い物に行くのにも、わざわざ自転車を引っ張り出すほどに。

 駐輪場に置いておいたまだ真新しい自分の自転車の施錠を外し、エルは嬉しそうにようやく手に入れた愛車を眺める。

「やっぱり、自分の自転車があるといろいろと楽しいですね」

「ああ。これで行動範囲も広がったしな」

「はい!」

 康貴は自分の自転車に釣り道具を積み込むと、自宅へ向かって走り出した。

 その背後から、にこにこ顔のエルも続く。

 肩越しにそんなエルの様子を窺いながら、康貴は朝食は何にしようかと思いを巡らせた。



 帰宅した康貴たちは、朝食を済ませてからはゆっくりと日曜の午前中を過ごした。

 思い思いに好きなこと──本を読んだりちょっとした片づけをしたり、二人一緒に平日に撮り溜めておいたテレビ番組を見たりもした。

 そうしている内に昼時となり、康貴とエルは肩を並べてキッチンに立つ。

 息の合ったコンビネーションで昼食を作り、できあがった食事を二人一緒に仲良く食べた。

 そして午後もそれぞれゆったりと過ごしていると、不意に康貴のスマートフォンが着信を告げる。

「誰だろ……え? 沢村?」

 ディスプレイに表示された予想外の名前に、康貴が驚いて声を上げた。

 それでもいつまでも驚いたままではいられない。康貴はスマートフォンを操作し、通話状態にしてから耳に当てた。

『突然電話して済まんな、赤塚。今、時間は大丈夫か?』

「ああ。昼飯も終わったし、丁度のんびりしていたところだから」

『そうか。では、単刀直入に言おう。赤塚に話がある。それも極めて真面目な話だ。少し、出てきてもらえるか?』

 スマートフォンから聞こえる愛の声は、極めて真剣なものだった。

 最近はやたらと自分に「結婚してくれ」と少々たちの悪い冗談ばかり言う彼女だが、今の愛の様子は言葉通り真面目なもののようだ。

「分かった。どこへ行けばいい?」

『そうだな……では──────』

 落ち合う場所を決めると、すぐに愛からの電話は切れた。

「……メグミさん……からですか?」

「ああ。何か話があるそうだ。だから、ちょっと出てくる」

「はい、分かりました……道中気をつけてくださいね」

 エルの言葉に手を上げて応えた康貴は、外出の準備をするために自室へと向かう。

 リビングを出る彼の背中を、エルは不安そうな光を浮かべた瞳で見送った。



 そろそろ空が朱色に染まり始めた頃。

 あおいの家に、突然愛が尋ねて来た。

 愛があおいの家に突然来ることは、別段珍しくはない。

 近くまで来たからとか暇だったからという理由で、ふらりとやって来ることは今までにも何度もあった。

 だが、今日だけはいつもとは少し様子が違う。

 口数も少なくあおいの部屋に入ってきた愛。そんな愛に首を傾げつつも、あおいは床の上に直接座り込んだ愛に飲み物を差し出した。

「……どうしたの? 何か元気ないんじゃない?」

「………………………………今日、赤塚に本気の告白をした」

「………………え?」

 あまりにも予想外な愛のその一言。あおいは愛が何を言ったのか、理解するまで一呼吸以上の時間を要した。

 思わずぽかんとした表情を晒すあおいを見て、愛は力なく笑う。

「……結果は……玉砕だ。見事にフラられたよ…………ま、最初からこうなることはある程度覚悟はしていたが……それでも、自分で思っていた以上にショックが大きくてな……。ふふふ、案外、私にも乙女なところがあったんだなぁ……」

 あおいにはいい迷惑だろうが、少し泣き言を聞いてもらいに来た、と愛は続けた。

 それだけ言うと、愛は黙り込んで俯く。

 彼女の前に置かれた冷えた紅茶の入ったコップの傍に、コップの結露とは違う雫が一つ二つと落下する。

 あおいは何も言うことができず、ただただじっと愛のことを見ていた。

 あのいつもマイペースな愛が、ここまで落ち込むほど康貴のことを想っていたとは。

 数日前に彼女の本心を聞いていたが、ここまで愛が真剣だったとは正直あおいは思っていなかった。

 愛はどれぐらいそうしていただろうか。部屋の外がすっかり暗くなった頃、ようやく愛は顔を上げた。

「いつまでも沈んでいるのは私らしくないな。正面からぶつかって玉砕したんだ。もうこれですっぱりと赤塚のことは諦める!」

 元気よくそう口にした愛だが、それでもどこか影が残っているのは仕方のないことだろう。

 そんな愛に、あおいは呆れたような、それでいて感心したような表情を向けた。

「……強いわね、愛は。たったこれだけの時間で立ち直っちゃうなんて」

「まあ、気持ちの切り替えは早い方だからな……なあ、あおい」

「なに?」

 愛はあおいではなく、窓の外に広がる日進の町を眺めながら告げた。

「もしも……もしも、おまえもあいつに告白するつもりなら……相当気合いを入れないと、私と同じように玉砕するだけだぞ」

「え……?」

 どきり、と。愛の言葉があおいの胸を貫いた。

「実は今日、私があいつに告白した場所は私の家……私の部屋だったんだ。丁度母親が休日出勤だったんで、親のいない間にあいつを呼び込んで……」

「ちょ、ちょっと愛っ!? あなたまさか、変な告白の仕方をしたんじゃないでしょうねっ!?」

「変かどうかは私では判断のしようがないが、ともかくあいつを私の部屋に引っ張り込み、そこで下着姿になってあいつに告白したんだが……それでもあいつは首を縦には振ってくれなかったんだ」

「何やっているのよ、あんたはっ!?」

 先程までの愛のしおらしい様子はどこへやら。あおいは激しい頭痛に襲われた。

「だって、自分が相当形勢不利なのは自覚していたからな。ここは一発、インパクトのある告白をしようと……」

「インパクトがあるにも程があるでしょっ!? いきなり下着姿で告白なんてされたら、大抵の男は逆に引くに決まっているでしょうがっ!!」

「いやー、どうせならそのまま押し倒されて既成事実を作れば勝利は間違いないって思ったんだよ。そんなわけだから、もしもおまえが告白するつもりなら、いっそ全裸であいつに抱きついて……」

「そんな痴女みたいな真似ができるかあああああああああああっ!!」

 告白するだけでも恥ずかしくて死にそうなのに、その上全裸で抱きつくなど。そんな真似はあおいには到底できそうもない。

「だが、それだけのことをしても……赤塚の奴を振り向かせることができるかどうか分からんぞ? おまえだって、赤塚が誰に想いを寄せているかぐらい気づいているんだろ? 実際、私はあいつに『他に好きな人がいるから』と言われてフラられたんだからな」

「そ……それは……」

 あおいの脳裏に、今では親友と呼んでも差し支えない、異世界からきたエルフの少女の姿が思い浮かんだ。








~~作者より~~

 作中に登場した野池に鯉の稚魚を放流していたのは、生前の自分の父親と、同僚だったの釣り仲間の人たちです(笑)。

 有志でお金を出し合って、200匹ほどの稚魚を放流したらしいです。

 当時は自分もその人たちと一緒に、毎週その池で鯉釣りをしていました。


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