閑話 理想の家庭ですよ
「やあ、未来の旦那様。今日の放課後に暇はあるか? もし暇ならば、一緒に婚約指輪を買いに行かないか? 何、心配するな。指輪の代金は立て替えておくから」
「いい加減、おかしな誤解を招く発言は止めてくれないかな、沢村」
「はっはっはっ。沢村とは他人行儀だな。私のことは遠慮なく
「絶対にやめてくれ……」
康貴たちの教室の中。
最初の頃こそ、愛の突然の「結婚宣言」で教室中が沸き立ったものだが、最近ではすっかりいつもの光景と化しており、今では誰も突っ込みさえ入れない。
そんないつものやり取りを交わした愛は、康貴に追い払われるように自分の席へと戻ってきた。
「ねえ、愛。その悪ふざけ、いつまで続けるつもり?」
愛とは席が近いあおいが、若干うんざりした表情で愛に問い質す。
その質問にきょとんとした表情を浮かべる愛。
「おいおい、悪ふざけとは人聞きが悪い。私は満更でもないんだがな」
「え? そ、それじゃあ、本気で康貴のこと……」
愛は自分の席に腰を下ろすと、くるりとその体をあおいの方へと向けた。
「あいつは……赤塚はくそ真面目なのが取り柄の面白味の少ない奴だ。確かに付き合うとすればあまり楽しくはないかもしれない。だけど、結婚相手として見るならばあいつは中々の高物件だと思うぞ」
にたり、と。
不敵な笑みを顔面に刻みつつ、愛は語る。
「あいつを一言で言い表すならば、『可もなく不可もなく』ってところだ。見た目も十人並みだし、背も決して高くはない。運動能力も学力も中の上。まさに『可もなく不可もなく』だ。だが──」
愛は一度だけ目を閉じると、再びその目を開いてどこか遠くを見るような表情を浮かべる。
「──『可もなく不可もなく』を長所とするか短所とするかは人それぞれだ。ちなみに私は前者だな。なあ、あおい。あおいには私の家庭の事情を話してあったよな?」
愛のこの言葉に、あおいは戸惑いながらもこくんと頷いた。
愛の家は母子家庭だ。彼女の父親は、彼女が中学に入学した頃に突然いなくなってしまった。
ある日ふらりと家を出たまま帰って来なくなり、今でも行方は分かっていない。
元々父親はまともに働くこともなく、母親が稼いだ給料を酒や煙草やギャンブルに注ぎ込む穀潰しで、機嫌が悪くなると平気で母親や愛に暴力を振るうような最低の人間だった。
正直、父親がいなくなったと聞いた時、愛は寂しさや悲しさを感じるよりも、安堵感に包まれたほどである。
その後は母親と二人、裕福ではないがそれなりに幸せに今日までやってきたのだ。
「……そんな家庭に育った私にとって、『普通の家庭』こそが理想の家庭なんだ。そしてあいつとなら……赤塚とならば、その『普通の家庭』を築いていけるんじゃないかって思う」
康貴はその真面目な性格上、将来も酒にも煙草にもギャンブルにも溺れることはないだろう。もちろん少しぐらいは嗜むかもしれないが、それでも家庭を壊してまでのめり込むようなことはないはずだ。
彼女がエルをあれ程までに
「真面目なあいつのことだから、将来はニートなどには決してならずに、公務員などのお堅い職業に就きそうだしな。しかもご両親は教師と医師だと聞いた。まさに私が理想とする『普通の家庭』にぴったりの相手だと思わないか? それに何より、エルさんという可愛い義妹がついてくるし」
「…………本気……なの?」
どこか焦りを帯びた表情を浮かべるあおい。
愛は言葉遣いこそ多少乱暴だが、これで家庭的な女の子なのだ。
母子家庭に育った彼女は、康貴ほどではないにしろ家事はこなすし、見た目も平均よりは上に位置する。
複雑な幼少期を過ごしたせいか、他人の心の機微にも聡くて気配りもできる。
康貴に想いを寄せるあおいにとっては、十分に手強いライバルになりえる存在なのだ。
そんな複雑な胸中のあおいに、愛はどこか悪戯っ子のような笑みを浮かべながら告げた。
「言っただろう? 私は満更でもない、と。本当に赤塚と結婚しても構わないと思っているんだ」
「と、言うわけで、だ」
「何が『と、言うわけ』よ?」
学校からの帰り道。
愛と一緒に学校から出たあおいは、突然横を歩く愛からかけられた言葉に困惑した。
「赤塚の理想の女性像ってどんな感じなんだ? つき合いの長いあおいなら、少しは知っているだろう?」
「いくらつき合いが長くても、そういう話はあまりしたことがないから分からないわよ」
以前にあおいが隆から聞いたその手の情報は、康貴はスレンダーなタイプより凹凸がはっきりとしたタイプが好み、ということぐらいだ。
いくら幼馴染みとはいえ、それ以外で康貴の女性の好みなどあおいも知りはしない。
「ふむ。確かに女性のあおいに自分の理想の女性像を語って聞かせるようなことはないか。ならば、萩野にでも聞けば少しは分かるかな?」
「そうねぇ。隆なら康貴とそういう会話もする機会はあると思うけど……」
男同士ならば、そんな会話をすることもあるだろう。ってか、実際にそういう会話をしているらしいし。
「明日にでも隆に聞いてみる?」
「うん、そうしよう」
できれば自分だって、もう少し康貴の好みのタイプを知りたいところではあるのだ。
これで隆からもう少し情報が手に入れば。
そんなことを考えたり考えなかったりしつつ、あおいと愛は明日隆に康貴の好みのタイプについて聞いてみることにした。
そしてその翌日。
「はあ? 康貴の好きな女性のタイプ?」
「そうだ。知っていたら是非教えて欲しい」
昼休みにあおいと愛に校舎の片隅に呼び出された隆は、二人からそんなことを尋ねられて戸惑った。
「そりゃまあ、俺や康貴だって雑誌のグラビアアイドルなんかを見てあれこれ盛り上がったり、時にはエロ全開なトークをしたりすることだってあるけどよ」
「男同士ならば、そんなものだろうな。私としてもその辺りは理解できるつもりだから、何か知っていたら教えて欲しい」
思いのほか真剣な表情の愛と、僅かに頬を染めてそっぽを向きつつ、それでも聞き耳だけはしっかりと立てているあおい。
そんな二人を訝しげに見ていた隆だったが、にやりと意味有りげに笑うと二人に向かってこう切り出した。
「それで? 二人は情報提供料として俺に何を提示してくれるんだ?」
「そうだな……では、隠し撮りしたあおいの体育の時間の着替えシーンの写真……でどうだ?」
愛はポケットからスマートフォンを取り出し、意味深にそれをふらふらと振って見せる。
「よし、乗ったっ!!」
「乗るな、この馬鹿っ!!」
あおいはがつんと隆の脛を蹴り上げた。
突然脛を襲った激痛に、思わず隆が飛び上がる。
「ちょっと愛っ!? いつの間にそんな写真を撮ったのっ!?」
怒りも露に詰め寄るあおい。だが、愛はそんなあおいを軽く受け流す。
「安心しろ、ただの冗談だ。そんな写真は撮ったことはない」
「本当でしょうねっ!?」
何なら確かめるか、と愛がスマートフォンの画像フォルダを提示し、あおいがそれを覗き込む。
二人がそんなやり取りを交わしている間、隆は脛の痛みに踞ってちょっぴり涙を浮かべていた。
「そうだなぁ。具体的な例をあげるなら……」
何とか復活した隆は、壁に持たれながら腕を組んで考える。
そうしながら、ちらりと愛の様子を盗み見る。
愛は極めて真面目な表情だ。例の「結婚宣言」はただの冗談だと隆も思っていたのだが、もしかすると案外本気なのかもしれない。
「以前にちらっとあいつから聞いたんだが、将来結婚するならやはり家庭的な女性がいいと言っていたな。少なくとも、自分と同じぐらいの料理の腕がある女性がいいそうだ」
「え……? や、康貴と同じレベル……?」
途端、あおいの顔色が悪くなる。
彼女は熟知しているのだ。康貴の作る料理がどれほど高レベルなのかを。
そんなあおいに対して、康貴の手料理を食べたことのない愛はにやりと自信のある笑みを浮かべた。
「料理、か。うむ、料理ならば私も多少は自信があるな」
「……愛は康貴の料理を食べたことがないからそんなこと言えるのよ……」
がっくりと肩を落とすあおいの様子から、愛は康貴の料理の腕を大体だが推測する。
「そ、そんなに赤塚の作る料理は美味いのか……?」
「まあ……俺やあおいは昔からあいつにご馳走して貰う機会が多いからよく知っているが……少なくとも一般の高校生男子のレベルは超越しているな」
「男子じゃなくたって、女子だってあのレベルはそうはいないわよ……」
「小学校や中学校のキャンプや林間学校の時、あいつと同じ班で良かったとつくづく思ったもんなぁ」
あおいや隆は知っている。
ああ見えて以外と食べるものに拘りのあるエルが、何も言わずに康貴の作る料理は食べるのだ。
もしかすると、彼女が元の世界にあまり帰りたがらないのは、康貴の料理が原因かもしれないと考えてしまうほどに。
「そ、それほどまでなのか……ならば、ここは偵察も兼ねて一度赤塚にご馳走してもらうか……だが、問題はどう切り出せばいいか、だな……」
さすがに「料理の腕のレベルを知りたいから食べさせてくれ」とは言い辛い。
「その辺は、次に何か機会があった時には、おまえにも声をかけるように留意しとくよ」
「すまんな、萩野。恩にきる」
愛は素直に隆に頭を下げた。
「しかし、意外だな。沢村がそこまで本気で康貴とのことを考えていたとは……」
「正直言うと、最初は確かに勢いだけだったが……よくよく考えてみれば、赤塚という人間は私の理想に近かったんだ。だからかな? 改めて意識し始めたら、自分でも意外なほどあいつのことがよく思えるようになってしまってな」
少し恥じらいを見せながら、愛は自分の胸中を隆とあおいに告げた。
そして隆とあおいは、康貴という人間の魅力に気づいた愛に感心した。ぱっと見ではありふれた普通の人間でしかない康貴が、人間的な魅力という観点からすれば実に優れた人物だということは、他ならぬ二人が一番よく知っている。
だから二人はこれまでずっと康貴に秘かに想いを寄せたり、親友であり続けたりしてきたのだから。
とはいえ、隆はあおいと愛、そしてエルという身近な女性たちの想いを、一身で受ける康貴に少しばかり嫉妬を感じていなくもない。
彼もまた正常な男子高校生なのだ。そういう感情を抱えてしまうのも無理はないだろう。
「そうなると、最大の障害はやっぱり……」
「ああ。エルさんだろうな」
「なんだ。エルちゃんの気持ちに気づいていたのか?」
「まあな。あれだけ常に赤塚の傍にいて、いつも幸せそうな笑顔を向けているんだ。気づかないほうがおかしいだろう?」
気づけばいつも康貴の傍らで、幸せそうに微笑んでいるエル。それが意識しての行動かどうかは分からないが、見る者が見ればエルの心中は容易に想像がつく。
「確かに分は悪い……というかかなり悪いが、それでも戦わずして負けを認めるのは主義じゃないのでな。たとえ相手がエルさんだろうと、真っ正面から全力でぶつかるのみだ。それで負けたというのなら、赤塚とは縁がなかったとすっぱり諦めるさ」
「いや、何と言うか……おまえって実に男前な奴だなぁ。もしもおまえが男で俺が女だったら、絶対におまえに惚れていたね」
「一応、ありがとうと言ってこう」
心底感心した風で呟く隆と、それに鷹揚に頷く愛。
そして。
そしてあおいは、親友とも言える愛の気持ちを改めて知らされて、何とも複雑な表情を浮かべてじっと彼女の横顔を見つめていた。
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