自分の気持ちですか?
エルがおたふく風に罹患して五日目。
ようやく熱も微熱程度まで下がり、顔の腫れも殆ど引いた。
いつものように体温計で熱を計った香里は、そこに表示された「37.3」という数字を見て大きく頷く。
「もう大丈夫そうね。熱もここまで下がったし、顔の腫れもなくなったし」
ベッドで上半身だけを起した状態で香里の話を聞いていたエルは、香里の言葉を理解すると共にその顔を輝かせた。
「……ようやくヤスタカさんに会えます……」
掛け布団を口元まで引き揚げ、蕩けるような何とも幸せそうな笑みを浮かべて、エルは小さく呟いた。
「あら、そんなに康貴に会えるのが嬉しいの?」
「そりゃあ、そうですよ。だって五日も顔を会わせていないんですよ? 私がこっちの世界に来て、この家で暮らすようになって……今日までこんなに康貴さんと会えなかったのははじ……め……て……で…………………………」
段々とエルの声が小さくなっていく。
この時になって、ようやくエルは自分が何を言っているのか気がついた。熱が残っているせいで、頭がぼんやりしていたのかもしれない。
そのため、胸の内に秘めていた想いを知らず知らず吐き出していたのだ。
エルの顔が、ぼしゅっという音が出そうな勢いで真っ赤に染まる。
確かに熱のせいで彼女の顔色は若干赤かったが、今のエルの顔が赤いのは明らかに熱のせいではない。
真っ赤な顔色のまま、おそるおそる香里の方へと視線を動かせば。
こっちの世界の母親は、まるで悪戯が成功した子供のような顔で、じーっとエルを見つめていた。
「あ、あうぅぅぅぅぅ……」
ぼすっとエルは掛け布団を頭まで被り、闇の中へと逃げ込んだ。
一方の香里はというと、何とも可愛い反応を示す
その笑い声が聞こえているのかいないのか。しばらく布団に潜っていたエルだったが、暑さに耐えきれずにおずおずと布団から顔を出す。
「うふふふ。あなたみたいな娘に想われるなんて、うちの息子は幸せ者ね?」
「ぴあああああああっ!!」
再び布団の中へと逃げ込むエル。暗闇の中で真っ赤になって踞りながら、エルは自分の想いを改めて思い知っていた。
自分は彼……康貴に惹かれている。それはもう動かし難い事実だ。
最初は確かに恩義だった。
突然こちらの世界に飛ばされた自分を、何の見返りもなく拾ってくれた彼。
いつも笑いながら、親切にこちらの世界の言葉や常識を教えてくれた彼。
こちらの世界に慣れない自分を、ずっと支え続けてくれた彼。
だけど、恩義だった思いはすぐに別の想いへと昇華された。
笑っている彼の顔。ちょっと困ったような彼の顔。真剣な彼の顔。
彼の様々な表情を見ていると、自分の胸の奥がほんのりと温かくなることに気づいたのはいつだっただろうか。
彼女が生まれてから150年以上が経っている。当然その150年の間に、異性に惹かれた経験がないわけではない。
だけど、彼ほどにエルの胸の内を温かくしてくれる異性はいなかった。
そう思い至った時、彼女は自分の彼に対する想いに気づいたのだ。
──私は彼に……ヤスタカさんに異性としての好意を持っている。
と。
「あ、あの……お義母さん……」
「なぁに?」
再び布団から顔を出したエルの頭を、香里は愛しそうにゆっくりと撫ぜた。
「こ、このことは……ヤスタカさんには……」
「ええ、言わないわよ」
エルは義母の言葉を聞き、ほぅと安堵の息を零した。
確かにエルの心は康貴に大きく傾いている。だが、そのことを彼に告げるつもりはエルにはなかった。
自分は異邦人であり、人間とは別の生物なのだ。そんな自分に、彼の気持ちが向くとは到底思えない。
実際に、エルがいた世界では異種族間の恋愛は異端視されていた。
時に異種族相手にも性的な欲望をぶつけることはあるが、それらの場合は大抵が一方的な暴力によるものか、娼婦と客というあくまでも商売上の関係だけだった。
だからエルは、人間である康貴がエルフである自分に恋愛感情を抱くとは、全く思っていなかったのである。
エルは自分の想いを、ずっと胸に秘めたままでいるつもりでいた。
家族として。義妹として。彼と一緒にいられればそれでいい。そう考えていたのだ。
この時は、まだ。
「まあ、あいつもあなたに関しては満更じゃないみたいだから、あなたの方から告白でもすれば、きっと上手くいくと思うわ」
「……………………………………え?」
「もちろん、あいつの気持ちをはっきりと聞いたわけじゃないけど、こう見えても母親だからね。我が子が何を考えているかぐらい分かるつもりよ」
「い、いえ、そうじゃなくて……こちらの世界では、異種族間での恋愛は異端じゃないんですか?」
「だって、こちらの世界には人間しかいないのよ? 異種族間も異端もあるわけがないじゃない?」
「そ、そうでした……じゃ、じゃあ……ほ、本当に……や、ヤスタカさんは……」
エルの顔の色が再び赤く染まる。
康貴にとって、自分が恋愛対象となり得ると分かって。エルフという物珍しい異種族ではなく、一人の女性として見られているかもしれないと分かって。エルの胸の中は、込み上げてくる嬉しさと幸福感で次第に満たされていく。
「さっきも言ったけど、これはあくまでも私の推測であって、康貴の気持ちをはっきりと確かめたわけじゃないから……って、聞こえていないわね、これは……」
香里はエルの目の前で軽く手を振ってみるが、何の反応も示さない。
それでいて、彼女が浮かべている表情はとても幸せそうなもので。今、エルの脳内でどんな妄想劇場が公演されているか、香里には何となく分かるような気がした。
これもまた、我が子が何を考えているのか分かるという、母親としての直感なのかもしれない。
その日の夕方。母親からようやく面会の許可が貰えた康貴は、学校から帰るなり鞄を抱えたままエルの部屋を訪れた。
エルの部屋の前で息を整え、軽く扉をノックする。
すぐに中から久しぶりに聞く彼女の声がして、康貴はゆっくりと扉を開いた。
部屋の中、ベッドの上に彼女はいた。
いつもの寝間着を着て、上半身を起して何かを読んでいたらしい。
そのエルが、康貴の顔を見て笑顔を浮かべる。その額にはまだ冷却シートが貼られているものの、頬の辺りにはもう腫れらしいものは見当たらない。康貴がよく知っているいつものエルだ。
「ひ、久しぶりだな、エル。も、もう体調はいいのか?」
「は、はい……ひ、久しぶりですね、ヤスタカさん……」
康貴は部屋の中にあった椅子──かつて姉が使っていたもの──をベッドの脇に移動させると、そこに腰を下ろしながら、ぎこちなくもエルと数日振りに言葉を交わす。
康貴はわざとらしく視線をエルから逸らしながら。エルはおどおどと自分の手元を見つめつつ、時々ちらちらと上目遣いで康貴を見ながら。
それでも、偶然二人の視線が絡み合う時もある。
そんな時は二人同時に慌てて視線を逸らし、また同じことを何度か繰り返す。
完全にパニックに陥り、何を言ったらいいのか分からなくなった康貴は、救いを求めるように周囲を見舞わした。
と、彼の視界にある物が飛び込んでくる。
それは先程までエルが読んでいた書物──漫画だった。
「あれ? その漫画……」
「はい、以前にタカシさんにお借りしたものです。寝てばかりで暇だったから、もう一度読み返していました」
漫画ぐらい、康貴だって持っている。
だが、彼が所持している漫画の殆どはスポーツ物であり、スポーツのルールがまるで分からないエルが読んでもおもしろくないらしい。
以前にその話を聞いた隆が、「これならエルちゃんでも楽しめるんじゃないか?」と置いていったのが、エルが今読んでいるものだった。
当然、隆お薦めの漫画はファンタジー物。本物のファンタジー世界の住人にファンタジー物の漫画を読ませるのはどうなんだ? と思いもしたが、当のエルはというと結構気に入ったようだ。
何でも、自分のいた世界と似通ったところもあれば全然違うところもあって、そこが逆におもしろいとのこと。
また、こちらの漫画の作画技術にも、エルは大いに驚いていたが。
「あ、そうだ。隆と言えばさ……」
隆の名前が出たことで、康貴は学校での隆やあおいたちとのやり取りを思い出した。
「あいつら……隆やあおいだけじゃなく沢村と安田と沢田も、エルがおたふく風邪に罹ったと言ったら大騒ぎでさ」
「えーっ!? 皆さんに私のこと、言っちゃったんですかぁっ!?」
恥ずかしいなぁ、と小さく呟きながら、エルはちょっとだけ非難を込めた視線を康貴に向ける。
「ご、ごめん。最初は隆とあおいだけに話すつもりだったんだけど、あいつらに話している内に沢村たちが乱入してきて。見舞いに来るって言い出したんだけど、熱が下がるまでは駄目だって言っておいた。だからエルの熱が下がったと知ったら、こぞって押しかけてくるだろうけど……いいか?」
「はい。私も皆さんに心配かけたことを一言謝りたいですから」
「じゃあ、そう伝えておくよ。でも、まだ無理はするなよ?」
康貴はぽんぽんとエルの頭を軽く叩く。
何気ない親愛を示すだけのその行為。だが、彼に対する想いをはっきりと自覚したエルは、たったそれだけのことでも心拍数が跳ね上がった。
どっどっどっどっどっ、という速いテンポの心臓の鼓動と同時に、そこから送り出された血液が全身を勢いよく巡り、エルの肌を紅色に染めていく。
「あれ? 顔の色がさっきより赤くないか? もしかして、また熱が上がったんじゃ……?」
康貴は熱を確かめようとエルの額に手を伸ばす。だが、エルは自分に伸ばされてくる康貴の手を見て、更に顔を赤くして彼の手を押し止めた。
「ぴあっ!! だ、大丈夫ですからっ!! 少し休めば元に戻りますっ!! ぴ、ぴーちょくんっ!!」
エルの呼びかけに応え、枕元のペットボトルから
「ほ、ほら、おでこの『れいきゃくしーと』っていうのと一緒にぴーちょくんにも冷やして貰えば、熱なんてすぐに下がっちゃいますからっ!!」
「そ、そうか? じゃあ、僕はそろそろ。いつまでもここにいて、エルに無理させるわけにはいかないからね」
そう言い置き、康貴は立ち上がって部屋から出ようとする。
自分の方へと向けたその背中に、エルは思わず寂しげな声を小さく漏らす。
それに気づかなかった康貴は、部屋の出入り口のところで振り返り、最後に「お大事に」と言い残して部屋を後にした。
ばたん、と扉の閉まる音が響き、エルはちょっとだけ寂しそうな表情を浮かべる。だが、すぐにその顔には嬉しそうな笑みが浮かび、掛け布団を口元まで引き上げるとくすくすと楽しそうに笑った。
「今日は久しぶりにヤスタカさんとお話しできたなぁ」
彼の姿を見て。彼の声を聞いて。そして何より彼の存在をすぐ傍で感じて。
熱があった数日間は、熱のために頭がぼうっとしていたり、体が辛かったりとそれどころではなかったが、ある程度症状が治まってくると無性に康貴の顔が見たくなったのだ。
ほんの数日会わなかっただけだが、エルはもう随分長い間会っていないような気さえしていた。
その康貴に今日は会うことができた。エルはそれが嬉しくてたまらない。
「もう少し……明日か明後日になれば、私の体調も元通り。そうしたら、またヤスタカさんと……」
エルの体調が回復すれば、祐二と香里は赴任先へと戻り、これまで通りに二人での生活がまた始まる。
祐二と香里のいる生活も確かに賑やかで楽しいが、康貴と二人でのんびりと暮らしてきた今までの生活の方が、やはりエルの記憶に強く焼き付いている。
「…………や、ヤスタカさんと……ふ、二人きり……」
ぼふっと再びエルの顔が赤く染まる。
これまでだって、ずっと二人で暮らしてきたのに。彼のことを改めて意識し、同時に彼もまた自分に好意を寄せてくれているかもしれないと知った今。
これからの暮らしが、今までとはまるで違うものに思えてきて、エルは熱を持った自分の頬を両手でしっかりと押さえた。
そんな彼女の頭の上では、水の精霊が文字通り彼女の頭を冷やすために、ぽよんぽよんと何度も弾んでいたのだが、ついに彼女がそれに気づくことはないのだった。
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