流行性耳下腺炎ですか?
「お、おたふく風邪?」
エルが発熱した翌日。
エルを診察した母親の香里に、康貴は思わず素っ頓狂な声で聞き返した。
「そう。正式名称は『
流行性耳下腺炎──おたふく風邪とは、ムンプスウイルスの感染によって発生するウイルス性の病気である。
「おたふく風邪は飛沫感染、または接触感染により感染するわ。何かエルが感染しそうな心当たりはある?」
「そう言われても……夏休みの後半はみんなであちこちに出かけたから……その時のどこかで感染したんじゃないか?」
「出かけた先におたふく風邪が治ったばかりの子供や、潜伏期間中の患者、もしくは抗体があって発症しなくてもウイルスのキャリアーなどがいたとしたら……何らかの拍子で感染した可能性はあるわね。おたふく風邪の潜伏期間は二週間ぐらいだから……時期的にも合致するし」
「でも、おたふく風邪って子供が罹る病気だろ? どうしてエルが……」
おたふく風邪は2歳から12歳の子供への感染が一般的ではあるが、他の年齢でも感染することもある。それよりも上の年齢の人間が感染した場合には、睾丸、卵巣、中枢神経系、膵臓、前立腺、胸等、他の器官も関わることがあり、場合によっては治った後に生殖機能に後遺症が残ることさえありうるのだ。
「一般的には一度おたふく風邪に罹ってしまえば、ムンプスウイルスに対する抗体ができて二度と罹らないと言われているけど……エルがこれまでにおたふく風邪に罹ったことがあるとは思えないでしょ?」
「あ、そうか……エルは異世界から来たから……異世界にはその何とかウイルスは存在しないんだ」
「そういうこと。さっき体温を計ったら熱が39度近かったけど、あと三、四日は高熱が続くと思うわ。発熱期間は三日から五日ぐらいだから」
「そ、そうか……」
母親からエルの容態を聞いた康貴は、彼女が心配になって様子を見に行こうと立ち上がる。
「どこへ行くつもり?」
「え? そりゃあ、エルの様子を見に部屋へ……」
「駄目よ。今、あの
「ど、どうしてだよ?」
今も高熱に苦しんでいるだろうエル。その彼女に医学に関して素人でしかない康貴が、してあげられることは何もないだろう。
それでも、ただ傍で一言声をかけるだけでもいい。そう思っていたところに部屋への入室を禁止されては、康貴でなくとも納得しかねるだろう。
だが、香里はそんな康貴に呆れたような溜め息を吐いて見せた。
「あなただって、おたふく風邪の代表的な症状を知っているでしょ?」
「代表的な症状って……両方のほっぺたが腫れるんだよな?」
「正確にはほっぺたじゃなくて耳下腺が腫脹して顔が膨れた様になるんだけど……考えてもみなさい。エルは女の子なのよ? 女の子の顔がみっともなく腫れているところを、誰かに見られたらどう感じると思うの?」
「あ……」
「確かに、エルはもう私たちの家族よ。でもいくら家族だからって、相手が年頃の女の子だってことを忘れては駄目よ?」
150歳オーバーの相手を年頃と呼んでいいものかどうか迷うところだが、実際の年齢はともかく精神的な年齢は康貴たちと大差ないようなので、エルを年頃と呼んでも問題はないだろうと香里は内心で判断する。
「だから、康貴があの娘の部屋に入るのは、あの娘の顔の腫れが引いてからにしなさい。いいわね?」
「わ、分かったよ。それで、どれぐらいで腫れは引くんだ?」
「そうね……確か、二日目ぐらいが最も酷くて、それからは徐々に収まっていく筈だから……それ以降ね」
「そうすると大体三日から四日ってところか……なあ、お袋。おたふく風邪の特効薬とかないのか?」
「それがね、流行性耳下腺炎の特異的治療法は存在しないの。腫脹箇所を冷やしたり暖めたりすると症状が軽減される場合もあるけど……これだっていう治療方法はないのよ」
暖かい塩水のうがい薬、柔らかい食物、および特別な流動食は兆候を軽減するかもしれないが、特に効果的な治療方法というものはおたふく風邪には存在しない。
「気をつけないといけないのは、発熱で脱水症状を起すかもしれないから水分の摂取だけは忘れないことね。あ、でも、口当りがいいからと言って、酸味の強いフルーツジュースは飲み込む時に耳下腺の痛みを感じさせる場合があるから飲ませない方がいいわ」
香里の言葉を、康貴は神妙な顔で聞いている。
今まさにエルが高熱で苦しんでいるのだ。少しでもエルのためにできることを、彼なりに必死に考えているのだろう。
「でも……僕が部屋に入れないのなら、エルの看病はどうするんだ?」
「もちろん、私が看病するわよ」
「え? だ、だって親父の仕事は……」
康貴は、リビングのソファで新聞を読んでいる父親の祐二へと視線を向ける。
「俺のことなら心配するな。ここから職場までは確かにかなり遠いが、一週間ぐらいならどうとでもなる。ってか、親なら子供のためにそれぐらいのことは苦労でも何でもないぞ?」
決して康貴の方へと振り返ることもなく。祐二は新聞に顔を向けたまま、右手の親指を突き出して見せた。
「さて、と。エルのことは私に任せて、あなたはそろそろ学校へ行く支度をしなさい」
「あ、ああ。分かった。エルのこと、頼んだよ」
母親がにっこりと頷いたのを確認し、康貴は登校の支度をするために自室へと向かった。
康貴と祐二が学校と仕事に出かけた後、香里は改めてエルの部屋へと向かった。
部屋の中、ベッドの上では高熱のために赤い顔で、頬が腫れ上がったエルが寝ている。
だが寝ているといっても呼吸は速く、眠りは浅そうだ。
現に香里が部屋に入ったことに気づいて、エルは閉じていた目をうっすらと開いた。
「……お義母さん……?」
「ええ、私よ。無理しなくていいから寝てなさい」
香里は耳式の体温計で、現在のエルの体温を確かめる。
「……やっぱり、まだ熱が高いわね……」
体温計のデジタル表示は「38.8」。いくら異世界から来たエルフとはいえ、39度近い体温は高熱に違いない。
体温ですっかり乾いてしまった額の冷却シートを、香里は取り替えようと額から剥がす。
だが新しい冷却シートを取り出すより早く、枕元のサイドテーブルの上に置かれていたペットボトルから何かが飛び出し、ぽよんとエルの額の上に乗った。
「へえ。これが康貴の言っていた水の精霊ね。なるほど、生きた氷嚢ってわけか」
おそらくはエルが命じたのではなく、
ふと視線を動かせば、エルの腫れた耳下腺の辺りに小さな人影が見えた。その人影は心配そうにエルの腫れた箇所を小さな手で触れていたが、香里と目が合うと驚いてすぐに消えてしまった。こちらはおそらく、幻の精霊とやらだろう。
「精霊たちもエルのことが心配なのね」
「ぴーちょくん……ツィールくん……心配させてごめんね……?」
「ほら、今のあなたはそんなことを気にしなくてもいいから。早く良くなることだけを考えなさい」
「……はい……あ、あの……」
苦しげに浅い呼吸を何度も繰り返しつつ、エルはうっすらと開けた目を香里へと向ける。
「や、ヤスタカさんは……」
「康貴なら学校へ行ったわ。あなたの病気が治るまで、あいつはこの部屋には入らせないから安心しなさい」
エルは香里の言葉を聞き、安心したように目を閉じた。
「……良かったぁ……今の私の顔、凄く酷いですから……ヤスタカさんにだけは見られたくないです……」
どうやら彼女としても、やはり今の自分の姿を康貴には見られたくなかったようだ。
(しかし、『ヤスタカさんにだけ』は、ね。こんな可愛い娘に想いを寄せられているらしいとは、我が息子もなかなかやるじゃない)
おそらくは、熱のためにエル自身もよく分からずに口にしているのだろう。でも、それだけに彼女の偽らざる本心であるとも言える。
もしかすると、将来この新しく義理の娘となった少女の立場は、息子の嫁というものに変わるかもしれない。
だが、たとえ「義理の娘」が「息子の嫁」になったとしても、今と立場はそれほど変わるものではない。それに下手に見ず知らずの男の元に嫁がせるよりは、「息子の嫁」として新たに迎え入れた方が香里としてもやはり嬉しい。
それぐらい、香里は──そして祐二も──エルのことは自分の娘であると思っている。
(康貴の方も満更じゃなさそうだし、これは将来が楽しみね)
とはいえ、心配な点ももちろんある。
仮に二人が将来的に結ばれるとしても、果たして結婚生活は上手くいくのだろうか。
生活様式や文化どころか生まれ育った世界さえ違う二人である。彼らが将来的に上手くやっていけるという保証はなく、今は良くてもこれから先に見つかる問題も多いだろう。
例えば、人間とエルフの間に子供はできるのか。ファンタジー小説などではハーフエルフなる混血が存在することもあるが、康貴とエルの場合にもそれが当てはまるのかは全く分からない。
それに寿命の問題だってある。エルたちの平均寿命が500年から600年とか言っていたが、康貴が天寿を全うした後、果たしてエルはどうするのか。数百年にも及ぶ長い時間、彼女は一人きりでどう生きていくのか。
そもそも、エルは元の世界に帰るつもりがあるのだろうか。
(まあ、今はそんなことを考えても仕方ないわね。まだまだ先のことだし、そもそも康貴とエルが決めることだし……私個人としては二人に上手くいってもらいたいけど……)
いつの間にか再び眠りに落ちていたエルに慈愛に満ちた微笑みを向けると、香里は静かにエルの部屋を後にした。
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