体調不良ですか?
残りの夏休みはあっと言う間に終わり、カレンダーも九月になって季節も徐々に夏から秋へと変化を見せていく。
康貴たちの学校も新学期が始まり、毎朝登校する彼をエルが見送るという光景が見られるようになった。
康貴を学校へと送り出し、洗濯も掃除も済ませたエルは、赤塚家の自室でベッドに寝転んで一人ぼんやりと天井を見上げていた。
暦の上では既に秋とはいうものの、まだまだ残暑は厳しい。今日もまだ午前中だというのに、少し動いただけで汗が吹き出してくる。
それでも居候のつもりでいる彼女は、扇風機だけを回して残暑を耐える。
そのため、今の彼女はかなり薄着だった。家にはエルしかいないので、彼女も気を緩めているのだろう。
薄いブルーのタンクトップに、ボトムはショートパンツという肌も露な出で立ち。
しかも家の中で誰の目もないということもあり、ブラまでしていない始末だ。
もしも康貴が今のエルの姿を見れば、あまりにも無警戒な格好に眉を顰めるに違いない。
いや、もしかすると鼻の下を伸ばすかも知れないが。
そんな格好のまま自宅に一人でいるエルは、楽しかった夏休みのことを思い出していた。
盆踊りの後も、康貴やあおい、そして隆たちとあちこちへ遊びに行った。
以前に言っていた、愛知県のお隣である三重県は長島市にある、巨大なウォーターパークにも行ったし、電車に乗って海にも行った。もっとも、海はお盆過ぎということもあって、海の中には入らなかったが。
康貴たちいわく、お盆を過ぎると海にはクラゲという危険な生き物が増えるのだそうだ。
海には入らなかったものの、初めて目にする海は凄かった。どこまでも広い海と、少し癖のある潮の匂い、そして打ち寄せる波の音は、今でもはっきりと脳裏に甦らせることができる。
知多半島の先端の町、南知多にあるビーチランドというレジャー施設で様々な海の生き物を見たり、イルカのショーを見たりと楽しい一日を過ごしたのだ。
時には愛や安田、沢田といった面々も加わってでかけることもあり、本当に楽しい思い出ばかりの夏だった。
でも学校が始まって昼間に康貴がいなくなると、楽しかった夏休みの反動もあってか一人でいるのがかなり寂しい。
電話で康貴の声を聞こうと、自分のスマートフォンに思わず指先を伸ばすエル。
それでも、学校にいる間は──正確には授業中は──電話には出られないという康貴の言葉を思い出し、エルは伸ばした指を力なく引っ込める。
「ヤスタカさん……早く帰ってこないかなぁ……」
誰に聞かせるでもなく呟いた声が、天井に吸収されていく。
今の彼女の心境を現しているかのように、長く突き出た耳もちょっとへんにょり気味だ。
「こうしていても、ヤスタカさんが早く帰ってくるわけじゃなし……」
エルはベッドの上で上半身を起すと、ベッド下の床に置いてあったペットボトルを手に取り、その蓋を開ける。
「少し魔法の練習でもしよう。ぴーちょくん、ツィールくん、付き合ってね」
彼女の呼びかけに応え、ペットボトルの中から水の精霊が、右手に嵌めた指輪から幻の精霊が姿を見せる。
契約を交わした二体の精霊を従えて、エルは彼らとの交信にゆっくりと集中していく。
精霊との交信こそ精霊使いにとって一番重要なことであり、基本的な訓練なのである。
夕方になり、ようやく康貴が学校から帰って来た。
「ただいまー」
「お帰りなさいっ!!」
ぱたぱたという軽い足音と共に、家の奥からエルが姿を見せる。
「うわぁ、凄い汗ですねぇ」
「そりゃあ、この気温の中を歩いてくれば、ね」
康貴の顔に浮いている汗を見て、エルが驚きの声を上げた。
夕方になってもまだまだ蒸し暑く、そんな中を歩いて帰ってくるのだから汗をかくのは当然である。
「シャワーでも浴びてきたらどうですか? その間に冷たいお茶でも用意しておきますよ?」
「じゃあ、お願いしようかな」
「はい、了解です」
にっこりと微笑むエル。
まるでどこかの新婚家庭のようなやり取りだが、当の二人はそのことにまるで気づいていない。
一度自室へと戻り、着替えを持って風呂場へと行く康貴。その間にエルは冷蔵庫からお茶の入ったペットボトルを取り出し、その中身を二つのグラスへと注ぐ。
そうして準備している内に、シャワーを浴び終えた康貴がリビングに姿を見せる。
Tシャツと短パンで首にバスタオルをかけた康貴は、冷房の効いたリビングに入ってふぅと溜め息を零した。
康貴が帰ってくるであろう時間を見越して、予めエルが冷房を入れておいてくれたのだ。
「こうして汗を流してから冷房の効いた部屋に入ると、電化製品のありがたみを実感するなぁ」
「本当に、デンカセイヒンはどれも便利ですよねぇ」
リビングの食事用のテーブルで向かい合うように座り、互いにお茶で喉を潤す康貴とエル。
その時、康貴は目の前のエルにふと違和感を覚えた。
何だろうと思い、改めてエルを見てみる康貴。
取り立てて変化は見られない。淡く輝く金髪も、サファイアのような双眸も、長く突き出した特徴的な耳も、いつも通りの彼女だ。
では、先程感じた違和感は何だろう? と思わず首を傾げた時。康貴はその正体に気づくことができた。
「あれ? 少し顔が赤くないか?」
「そうですか?」
康貴に言われて、エルは手で自分の顔をぺたぺたと触る。
いつもは処女雪のようなエルの肌が、今日は若干赤みを帯びているような気がする。それが康貴の感じた違和感の正体だった。
「体調が悪いとか、そういうことはない?」
「いえ、大丈夫です」
「一人でいる時も無理をせずに冷房を入れろよ? 暑い時は部屋の中でも熱中症になるからな」
「午後からはさすがに冷房を入れていますから、本当に大丈夫ですよ」
頑なに大丈夫を繰り返すエル。康貴は訝しそうな表情を浮かべると、テーブルの上に身を乗り出してエルのおでこに触れてみる。
「…………少し熱いな」
「だ、だから大丈夫ですってっ!! こ、これはそ、その、ほら、あれですよ! 午前中に魔法の練習をしていたので、その時の熱が篭もって……」
あれこれと言い訳をするエルを無視して、康貴はリビングの片隅に置いてある救急箱から電子体温計を取り出した。
「な、なんですか……それ……?」
見慣れない器具を取り出した康貴を、エルが怯えたような表情で見つめる。
「少し黙っていろって。ほら、横向いて」
「え? え?」
ちょっと強引に康貴に横を向かされたエル。今の彼女の顔色は明らかに赤い。
だが、その理由が体調不良によるものなのか、それとも誰かに至近距離から顔を触られたからかまでは不明だが。
康貴は混乱するエルを余所に、そっと彼女の長い耳に触れると耳の穴に耳式の体温計の感熱部分を差し込んだ。
「ぴ、ぴゃあああっ!!」
耳の中に侵入する異物感に、エルが思わず小さく悲鳴を上げる。
すぐに体温計はぴっという計測終了の音を奏で、康貴はそこに表示された数字を見て眉を顰めた。
「三七・四度か……微熱といえば微熱だけど……」
そういえば、と康貴はふと思い至る。
三七度が体温の一つの区切りなのは周知の事実だが、それはあくまでもこちらの人間の話。
異世界の、しかもエルフという異種族の発熱の区切りは、果たしてこちらの人間と同じなのだろうか。
「なあ、エル。エルたちの世界では、体温がどれぐらいになったら熱があると判断するんだ?」
「え? それは体などに触れて、熱いと思った時……ですけど……」
「…………そうか。具体的な体温なんて計らないのか……というより、計る器具がないんだな」
考えてみれば、エルたちの世界に体温計があるとは思えない。
医学や薬学だってこちらの世界よりは遅れているだろうし、病気や怪我の一般的な治療も民間療法かその延長といったところなのだろう。
「とりあえず、後で専門家に電話してみるか」
彼の言う専門家とは、もちろん母親である香里のことである。
彼女は父親の転勤が決まるまでは、近くの総合病院に務めていた内科医なのだ。ここは素人の康貴があれこれ考えるより、専門家である母親に頼った方が正解だろう。
「じゃあ、エルはこれでも貼って部屋で横になっていろ。食事は何か消化にいいものを作ってやるから」
康貴は救急箱から解熱用の冷却シートを取り出し、エルの前髪をそっと掻き上げると額にぴたりとシートを貼り付ける。
「ひゃん! つ、冷たいです……」
「冷たいから効果があるんだよ」
物珍しそうに額に貼られた冷却シートを何度も触りながら、エルは康貴に付き添われて自分の部屋へと向かうのだった。
『そう、少し熱があるのね』
電話の向こうで母親の声がする。
康貴はエルを自室のベッドに寝かしつけると、早速母親へと電話をかけた。そして、エルが熱を出しているようだと告げ、どうしたらいいのかを尋ねる。
「市販の解熱剤とかを飲ませた方がいいのか?」
『いいえ、市販の薬は絶対に飲ませたら駄目よ』
「どうしてだ?」
人間ではないエルにこちらの世界の薬を与えた場合、どのような副作用が現れるか分からない、というのが、香里が康貴に告げた理由だった。
『もちろん、絶対に副作用が出るわけじゃないわ。それでも副作用の危険がある限り、エルには絶対にこちらの薬を飲ませたら駄目よ』
確かに母親の言う通りだと康貴も思う。
何度も臨床試験を繰り返し、安全基準を満たしてようやく発売される市販薬だが、それは全てあくまでもこちらの世界の人間に対してである。異世界から来たエルフに、どのような影響が出るかなど考えられているわけがない。
『極端な話をすれば、内臓の機能が私たちとは違ったり、私たちにはない内臓器官があったりしても不思議じゃないわ。康貴も知っている通り私たち人間は猿から進化した生物だけど、エルの世界の人間が同じように猿から進化したとは限らない。そもそも、エルフって種族は人間ではないわけだし』
ファンタジー世界のことだから、人間は神様が作りましたなんてことが信じられている可能性が高い。それどころか、本当に神々が存在して人間を創造したとて不思議ではないのだ。
こちらの世界だって、進化論が確立したのはそれほど昔ではないのだ。かのチャールズ・ダーウィンが『種の起源』を出版したのは1859年。精々160年程前でしかないのだから。
「じゃあ、どうするんだ?」
『すぐにそっちに戻るわ。実際に診察してみないと、エルがどんな病気かは分からないもの。病気の種類によっては、入院だって考えないと』
「にゅ、入院っ!? それはいろいろと拙いだろっ!?」
『仕方ないでしょ? エルのことがばれるかもしれないけど、病気を放っておいたら取り返しのつかないことになるかもしれないのよ?』
病院に入院していろいろと検査をすれば、エルが人間ではないことはすぐに露見するに違いない。かといって、このままエルを放っておくわけにもいかない。最悪の場合は命に関わるかもしれないのだ。
エルのことがばれたとしても、彼女が命を落とすよりは絶対ましだ。それだけは間違いない。
康貴が内心で覚悟を決めていると、電話越しでも分かる母親の温かい声が響く。
『安心しなさい。こう見えても同業者には顔が利くから。口の固い個人病院を経営している医者だって知っているわ。いざとなったら、その辺りに頼み込むわよ。そもそも、重い病気って決まったわけでもないのよ?』
母親の言葉に、ほっと安堵する康貴。
考えてみれば、単なる夏風邪という可能性が一番高いのだ。熱だってそれほど高くはないし、このまま一晩寝ればその熱も下がるかもしれない。
命に関わる重篤な病気の可能性は決してゼロではないが、そんな可能性は極めて低いだろう。
『じゃあ、祐二にも話をして、すぐに帰るわ』
「分かった。でも、慌てすぎて交通事故とか起すなよ?」
その後、帰ってきた両親と共にエルの看病に当たった康貴。
だが結局、その日の夜にはエルの熱が下がることはなかった。
それどころか、彼女の体温は逆にどんどん上昇し、ついには38度を超えるに至ったのである。
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