お盆ですか?

 八月も中旬となり、夏休みも残り少し。

 今、赤塚家では毎年この時期の恒例ともいえるものが開催されていた。

 すなわち、隆とあおいによる康貴が仕上げた宿題の争奪戦である。

「ちょっと、隆! それはこれからあたしが写すの!」

「いいじゃねえか。俺が写している間に、あおいはそっちの奴を片付けろよ」

「へへーんだ。こっちはあたしが独力で片付けてあるもんね。だからそっちを寄越しなさい!」

 あおいは隆から強引に康貴のノートを奪うと、早速そこに書き込まれていた内容を写し始める。

「ふぅ。今日も朝から暑いわねー」

 あおいはノートを書き写す手を少しばかり休め、庭に面したガラス窓から陽光溢れる庭を見つめる。

 今の時刻は午前十一時前だが、外の気温は既に30度を超えているだろう。その熱波はエアコンを稼働中のリビングの中にも、ひしひしと容赦なく伝わってくる。

「全く、本当にここ数年の暑さは異常だよな。もっとも、こうして余所様の家の冷房の効いたリビングに、午前中からお邪魔させてもらっている俺たちが言う台詞じゃないけどな」

「うっ……た、確かにそうだけど……暑いものは仕方ないでしょっ!?」

「うむうむ。確かにあおいの言いたいことも理解できる。そこで提案なんだが」

「……何よ?」

「脱げ」

「はぁっ!?」

「いやいや、誤解しないでくれたまえよ、あおいクン? 俺は何も全裸になれと言っているんじゃない。別に下着姿でいいんだ。下着姿なら、この前のプールの時の水着とそれほど大差はないだろ? 脱げばあおいも少しは涼しくなるし、それに何より────」

 隆は右手の人差し指をぴんと突き立て、至極真面目な顔であおいに告げる。

「────おまえの下着姿を見たら、絶対に康貴だって喜ぶに違いない。あいつだって男だからな」

 康貴が喜ぶと言われて、あおいの心が少しだけ傾いた。本当に少しだけ。

「俺たちはこれまで毎年のように、康貴に長期休暇の宿題を写させてもらっているよな? だから、ここは一つこれまでのお礼の意味も含めて、どばーんと下着姿を披露しちゃどうだ? おまえは涼しくなるし、康貴は喜ぶ。これぞまさに一石二鳥!」

「ふぅん……それで、あたしは康貴にお礼の意味も含めて下着姿を見せるとして……同じようにお世話になっている隆も、康貴に下着姿を見せるの? 隆の下着姿を見ても、康貴はぜっっっっっったいに喜ばないと思うわ」

「もちろんだ。俺の下着姿を見て喜ぶような奴だったら、俺は直ちに康貴と絶交する」

「じゃあ、何するのよ?」

 あおいがじっとりとした目で隆を見る。

 そんな視線にもめげず、隆はここで不敵な笑みを浮かべた。

「こうして……おまえに下着姿になるように交渉していることこそが、あいつに対する俺の感謝の気持ちさ!」

 隆は、あおいに向かって右手の親指をおっ立てて見せた。

 対して、あおいは右手で両眼を覆うと、そのまま疲れたようにリビングの天井を仰ぐ。

「……もう止めましょ。こんな非現実的なことを言い合っていても、余計に暑くなるだけだわ」

「……そだな」

 これまでのやり取りは、二人とも互いに冗談であると承知した上でのことである。

 写すだけとはいえ、やはり宿題をするのは何かとかったるい。落ち込み気味なモチベーションを、他愛のない冗談で少しでも上向きにしようとしていたのだ。

 これもまた、彼らの例年行事の一つであった。



 今までキッチンでお茶を淹れていたエルが、にこやかな笑顔と共に二人の前によく冷えたお茶を置く。

「お二人とも楽しそうですねー」

「あら、ありがと、エル」

「あぁ! 今、俺には君が天使に見えるよ、エルちゃん!」

 あおいはにこやかに礼を言い、隆はぱんぱんと柏手を打ってエルを拝む。

 本来なら天使とか言いながら柏手を打つなんて宗派が違うだろ、という突っ込みを入れるべきところだが、生憎とエルはそこまでこちらの宗教について詳しくはない。

「そう言えば、康貴は何しているの?」

「ヤスタカさんですか? ヤスタカさんなら、自分の部屋で『ぱそこん』とかを使って、何やらかちゃかちゃやっているみたいですよ?」

「康貴がパソコンで? ふぅん、珍しいな……」

 康貴はどちらかと言えばアウトドア派である。彼の一番の趣味は釣り──ルアー釣りも餌釣りもどちらも行う──であり、部屋に篭もってパソコンを弄るというのは康貴にしてみれば珍しいことだ。

「ここ最近、よく夜遅くまで何かやっているみたいです」

「そうなんだ……エルは康貴が何をしているのか知っている?」

「いえ、さすがにそこまでは……」

 エルも一緒に暮らしているとはいえ、そう頻繁に康貴の部屋に足を踏み入れることはない。

 彼女が康貴の部屋に入る時といえば、彼が学校やアルバイトに行っている間に彼の部屋を掃除するためぐらいであり、当然その時にはパソコンの電源は落とされているので、彼がパソコンで何をしているのかは分からない。

 もっとも、仮にパソコンの電源が入れっぱなしであったとしても、エルでは殆ど理解できないだろう。

 その後も隆とあおいが宿題と奮闘していると、二階の自室から降りてきた康貴がリビングに現れた。

「お、がんばっているな」

「おう……と言っても、おまえがやった奴を写しているだけだがな」

「本当。いつも康貴には感謝しているわ」

 二人は書き写しているノートから顔を上げて、それぞれ康貴に感謝の言葉を述べる。

「そろそろ昼時だし、何か作ろうか? 何がいい?」

「そうだな。こう暑いと素麺あたりがいいな」

「素麺か。確かにいいかも。あおいもそれでいいか?」

「ええ。作ってもらう以上、文句なんて言えるわけないでしょ?」

 二人の了解を取り付けた康貴は、愛用のエプロンを装着しながらキッチンへと入る。

「エル、ちょっと手伝ってくれ」

「はーい」

 康貴の要請に応えたエルもまた、彼女専用のエプロンを身に着け、キッチンに入ると康貴と肩を並べて作業を開始する。

「あれ? エルちゃんってこっちの料理、できるようになったのか?」

「いえ、まだまだ簡単なものしかできません」

「エルは元々料理ができるみたいだから、こっちの料理のコツさえ掴めばすぐに僕より上手くなるんじゃないか?」

「いや、それは……ヤスタカさんより上手にはできないと思いますけど……」

 はにかんだ笑みを浮かべながら、それでも手際よく康貴のサポートをしていくエル。

 そんな康貴とエルを、リビングからあおいが複雑そうな顔でじーっと眺めていた。

「…………あたしも料理、がんばってみようかしら……」

 あおいのその呟きは、近くにいた隆の耳にはしっかりと届いていた。



「素麺のつゆまで手作りしちゃうところが、康貴のなにげに凄いところよねー……」

 康貴とエルの合作である素麺を啜りながら、あおいが呆れたように零した。

「手作りって言ったって、以前に大量に作って残しておいただけだぞ? やっぱり、夏場は素麺を食べることが多いから」

「それでも、普通の高校生男子は素麺の汁を手作りしちゃわないって。ねえ、隆? あなた、素麺の汁、作れる?」

「いんや。素麺の汁どころか、まともな料理は殆ど無理だな」

「ほら、みなさい。これが普通の高校生男子よ。まあ、康貴の場合は小父さんと小母さんが共稼ぎだったから、昔から家事に携わってきたって理由があるけど……」

「加えて、姉さんが家事はからっきしだったからね」

 肩を竦めた康貴を見て、隆とあおいが笑い声を上げる。

 康貴の姉は、今では結婚してしっかりと主婦をしているが、結婚前までは家事は全くできなかたのだ。

 その姉が突然結婚すると言い出し、母である香里と康貴が短期間の集中講義で姉に家事を叩き込んだのである。

 どちらかと言うと気の強い康貴の姉が、最後は半べそかきながら家事に取り組んでいたことから、どれだけ二人の指導が厳しかったのか理解できるというものだ。

「それより……」

 康貴が自分の横へと視線を向ければ、あおいと隆も同じようにそちらへと目を向ける。

 そこには、至福の表情を浮かべながら素麺を啜るエルフの娘さんが一人。

「幸せそうね、エル……」

「ああ……」

「こんな幸せそうなエルちゃんを見ていると、何かこっちまで癒されるよな……」

「ホントね……」

 ほんわかとした雰囲気で、三人はエルを見守る。

「あ、あれ……? 皆さん、どうしたんですか?」

 じーっと自分を見つめる康貴たちに気づいて、エルがこくんと首を傾げた。



 結局、あおいと隆は夕方まで、赤塚家で宿題と格闘することになった。

 午後五時を過ぎたところでようやく宿題も粗方片付き、あおいと隆は凝り固まった体を伸ばした。

「あれ……? そう言えば今日って……」

 リビングのテーブルの上に広げたノートや参考書を片付けながら、たまたま視界に入ったカレンダーを見てあおいはとあることを思い出した。

「今日って、確か町内の盆踊りがなかったっけ?」

「ああ、そういや今日だった。回覧板で見たきりすっかり忘れていたよ」

「じゃあ、折角だからみんなで行ってみるか? エルちゃんにもいい経験になると思うぜ」

「あ! じゃあ、あたし浴衣着る! お婆ちゃんにお願いすれば、浴衣の着付けやってくれるし。ついでだから、エルも浴衣着てみる?」

「えっと……ボンオドリとかユカタとかって……何ですか?」

 当然ながら盆踊りも浴衣もしらないエルは、よく分からないという表情を浮かべている。

「まあ、盆踊りも浴衣もあれこれと由来はあるだろうけど、一言で言えばこの国の夏の風物詩ってやつだな」

「フウブツシ……?」

 またもや聞き慣れない言葉の登場に、エルは首を傾げるばかり。

「口で言うより実際に見た方が早いよ。浴衣なら姉さんのものが残っていたはずだし、何年か前のものだけど、何とかサイズもエルに合うと思う」

「じゃあ、決まりね!」

 あおいが判断を下したことで、盆踊りへ行くことが正式に決まった。

 隆の言葉通り、エルに日本の夏の風物詩を体験させるのにいい機会だ、と康貴も思う。



 一旦それぞれ自宅に帰り、今度はあおいの家に集合する。あおいとエルの浴衣の着付けをあおいの祖母にお願いするので、あおいの家に集まるのは自然な流れというものだろう。

 康貴も今はエルの部屋になっている姉の部屋で浴衣を探し出し、帯や下駄といった小物も合わせ持って徒歩であおいの家を目指す。

 その途中、康貴の知る限りの盆踊りに関する知識を、ゆっくりと歩きながらエルに教えていく。

「え、え、ええええええっ!? 亡くなった先祖の霊を慰めるためのものって……つまりは鎮魂の儀式ってことですかっ!? そそそそそ、それとも、ぼ、ご先祖様の霊魂とかを呼び出したりするんですかっ!?」

 康貴の話を聞き、見る見るエルの顔色が悪くなる。

 いわゆるアンデッド──幽霊などの類が駄目な彼女のことである。先祖の霊を慰めるためのものと聞いて、何か変な勘違いをしたのだろう。

「別に先祖の霊を慰めるって言ったって、霊そのものを呼び出したりはしないから大丈夫。盆踊り──日本のお盆は降霊術の儀式じゃないから」

 確かに日本のお盆は先祖の霊が帰ってくるという意味のものだが、実際に霊を呼び出したり降ろしたり、怪しげな儀式を行ったりはしない。

「ほ、本当ですかっ!? オバケとか出てきませんかっ!?」

「出ない、出ない。安心していいよ」

 浴衣や下駄の入った紙袋をぶら下げながら。

 そんな他愛もない話をしながら、暗くなり始めた日進の町の中を、康貴とエルは駅前にあるあおいの家を目指して歩いて行った。


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