魔物ですか?
八月半ばのとある日曜日の早朝。
エルはキッチンで、にこやかな表情を浮かべながら朝食の用意をしていた。
「お味噌汁~お味噌汁~」
エルがかき混ぜている鍋の中からは、味噌汁のいい匂いが漂っている。
赤塚家の味噌汁は、名古屋圏の例に漏れずに赤だしである。赤だし独特の濃厚な香りが、リビングとキッチンをゆったりと包み込んでいく。
今、キッチンにいるのはエル一人。どうやら康貴はまだ寝ているようだ。
日曜日の午前九時少し前といった時刻である。休日ということもあり、まだまだ寝ている人間の方が多いであろう時間帯。彼が特別に朝に弱いというわけではない。
それでも、そろそろ起きてくるだろう康貴を思うと、エルの顔は自然に綻ぶ。
あの「G」ショック事件から数日。翌日や翌々日などはちょっと康貴とぎくしゃくしてしまったが、時間の経過と共に自然に振る舞えるようになった。
「ヤスタカさんはネギとお豆腐とアブラゲの具が好き~。私も同じ具が好き~」
刻んだ具を手際よく鍋に入れながら、どこか調子はずれなエルの歌は続く。その歌に合わせるように、彼女の長い耳がぴこぴこと揺れていた。
そうやってエルが味噌汁の様子を見ていると、傍らの炊飯器が炊き上がり終了のメロディを奏でた。
「上手に炊けました~」
どこかで聞いたことのあるフレーズを口ずさみながら、エルが炊飯器の蓋を開けた途端にもわんと立ち上る湯気。その向こうに存在するぴかぴかと輝く炊き上がったご飯を見て、エルの笑みが一層深くなる。
「炊きたてのご飯~ほかほかで美味しい~」
しゃもじで炊飯器の中の炊き上がったご飯を攪拌する。そうした後は再び蓋を閉めて、保温になっていることを確認。
「こうしておくと、いつまでもあったかいんですよねー。このスイハンキっていうカデンセイヒンも本当に便利です」
一通り朝食の準備を整え終わったエル。こちらの調理方法などにも随分と慣れてきた彼女は、こうして一人で食事の準備ができるようになっていた。
とはいえ、まだまだできるのは比較的単純な料理のみ。様々な美味しい料理を作り出す康貴と比べたら、その足元にも及ばないだろうとエルは思っている。
「ヤスタカさん、まだ起きてきませんねぇ。いつもならそろそろ起きてくる頃なのに。もしかして、夕べは夜更かしさんだったのかな?」
ちらりと天井に視線を向けつつ、エルはぽすんとリビングのソファに腰を下ろす。
そしてテーブルの上にあったリモコンで、テレビの電源を入れる。
本当に何気なく電源を入れたテレビ。その画面の中に映し出されたものを見て、エルは驚愕に目を見開くのだった。
夏場ということもあり、薄いタオルケットだけで眠っている康貴。
夕べは少し遅くまで自室でパソコンを弄っていた──最近、思いついたことがあってとある作業をしている──こともあり、彼はまだ微睡みの中にいた。
だが、気持ちのいい微睡みは、部屋の外から聞こえてきたどたどたという騒々しい足音に中断を余儀なくされる。
「な……なんだ……?」
まだ半分眠っているまま、康貴はむっくりと上半身だけをベッドの上で起こす。
寝汗で若干の湿り気を帯びているTシャツを脱ごうとした時、突然自室の扉を開けてエルが駆け込んで来た。
「や、ヤスタカさんっ!! た、大変ですっ!!」
驚愕を顔に貼り付けたエルは、康貴がTシャツを脱ぎかけているのも構わずに、その手を引っ張って部屋の外へと連れ出そうとする。
「ど、どうしたんだよ、エル? こんな朝っぱらからそんなに慌てて……?」
「急いでリビングに来てくださいっ!!」
エルに手を引かれるままに廊下へと出た康貴。その後もエルは、康貴の手を引っ張ったまま階下へと向かう。先程彼女自身が言ったように、リビングへと向かうのだろう。
エルの表情は真剣そのものだ。どうやら康貴に何らかの悪戯をしかけるとか、そういった類のものではないらしい。
となると、何か事件でも起きて、それに知り合いの誰かが巻き込まれたのだろうか。
康貴の脳裏に、両親や親しい友人たちの顔が浮かんでは消えていく。
「だから、どうしたんだよ、エル? 何か事件でもあったのか?」
「……いたんですよっ!!」
「いた? いたって何が? も、もしかしてまた『G』が出たのか……っ!?」
数日前の「G」ショック事件を思い出し、康貴の顔が若干赤くなる。なんせあの時のエルの半裸姿はしっかりと彼の脳裏に焼き付いており、今でもはっきりと思い出せちゃうのだ。
「ち、違いますっ!! あの黒いムシじゃありませんっ!!」
エルもあの時の失態を思い出したのか、その頬を赤く染める。
「じゃあ、何がいたって言うんだ?」
「魔物ですっ!!」
「ま……まもの……?」
「そうですっ!! 魔物ですっ!! こちらの世界に魔物が出たようで、それをテレビが映しているんですよっ!!」
「…………あー…………」
康貴はテレビの画面を見て、力の抜けたような声を発した。
そんな康貴に対して、エルは興奮冷め遣らぬといった風である。
「見てくださいっ!! これって間違いなく魔物ですよねっ!? 私、こんな魔物初めて見ましたっ!! ヤスタカさんはこちらの世界には魔物なんていないって言っていましたけど、やっぱりこちらにもいるんですよっ!! でもこの魔物、なんかおもしろい姿ですねぇ。私が知っている魔物と言えば、どれも恐ろしげな姿をしていましたけど……」
エルはまじまじと、画面の中でどこかの都市を破壊している魔物を見入る。
怖いというよりはどこかユーモラスな姿の魔物を中心に、その配下と思われる同じ姿をしたたくさんの魔物が、街を破壊し、逃げ惑う人々を襲っている。
「この魔物……放っておいても大丈夫なんですか? どんどん街を壊したり、人を襲ったりしていますよ? でも、こちらの世界には騎士や冒険者はいないんですよね……あ、そうか! こちらには、ケイサツカンっていう治安を維持する役職の人がいるんでしたっけ。なら、ケイサツカンの人たちが、この魔物を退治するんでしょうか?」
「いや……警察はこいつらには歯が立たないよ、うん……」
力なく呟く康貴に、エルは不思議そうな顔を向ける。
最初、康貴はエルの魔物が出たという言葉を聞いて、彼女のように異世界から魔物が紛れ込んできたのかと思ったのだ。
エルや最近彼女が契約した幻の精霊などの実例がある以上、魔物が何らかの理由でこちらの世界に転移してくるという可能性は決してゼロではない。
こちらにやって来てしまった魔物を、テレビが緊急速報か何かで報道しているとばかり思っていた康貴。
だが、エルに連れられるままにリビングに飛び込み、電源の入っていたテレビを見た途端、そうじゃなかったと一瞬で分かって、がっくりとその体から力が抜けた。
「え? ケイサツカンじゃ駄目なんですか……? そ、それじゃあ、どうしたら……?」
エルはおろおろとしながら、康貴の顔と画面を何度も見比べる。
「大丈夫。心配しなくても、あいつらと戦える戦力ならちゃんと存在するから……ほら、丁度登場したぞ」
「え? あ、あれ? あれって普通の人たちですよね……?」
画面の中に登場したのは、年若い五、六人の男女の姿があった。
彼らは街や人々を襲っている魔物の群れの中に、恐れを見せることなく勇敢に挑んでいく。
やがてある程度戦った所で、彼らは横一列に並ぶと揃って同じ行動を取り始めた。
画面の中のそんな光景を、エルはぽかんとした表情でじーっと見つめている。
その画面の中では、リズミカルな音楽と共に色とりどりの光が炸裂し、魔物と戦っていた男女の体を包み込んでいく。
やがて光が爆ぜると、そこには色とりどりで奇妙な衣装に身を包んだ者たちが現れた。
彼らはそれぞれポーズを決めながら、己の名前を名乗り、最後に全員揃って彼らのチーム名を高々と告げたのだ。
それからは、先程以上の激しい戦闘が繰り広げられた。
迸る火花。翻る刃。轟く銃声。飛び交う派手な光。
そして一段と派手な光と音と共に、繰り出された攻撃が魔物を打ち倒す。
「えっと……彼らは一体何者なんですか……見たところ、魔法みたいなものも使っていましたし、あんな強力そうな魔物をあっさりと倒しちゃうし……冒険者……じゃないですよね……?」
テレビの中で繰り広げられた光景が、全く理解できないエル。
そんなエルに、康貴はテレビの中で魔物と戦いを繰り広げた者たちのことを説明してやる。
「そうだな……あいつらのことを一言で言い表すなら……『正義の味方』って奴だな」
「はい? セイギノミカタ……ですか……?」
そう。
今、康貴たちが見ていたのは日曜朝のお約束、もう何年も放送され続けている「ヒーロー・タイム」の番組だったのだ。
「え? あ、あれがお芝居……?」
共に朝食を食べながら、エルは先程テレビで見たものが芝居であったと知って目をぱちくりとさせた。
「ああ。あれは全部特撮とかCGとかを使った、作り物のお芝居だよ。そういえば、僕はテレビってバラエティとかクイズ番組とか、報道番組ばっかりでドラマとかはほとんど見ないからなぁ。エルもテレビのドラマを見たことがないのか」
エルがテレビを見る時は、大抵康貴と仲良く一緒にソファに腰を下ろして見ている。
エル自身にこちらのテレビ番組に関する知識がなかったので、康貴が見ているものや、彼に勧められたものだけを見ていたのだ。
また、彼と隣り合って一緒にテレビを見るという行動自体が、エルに安らぎを与えていたのも事実で。
何気なくテレビをつけるという行動も、実は今日が初めてだった。それだけ、エルがこちらの世界に慣れてきたからの行動だろう。
だから、エルがこれまでテレビのドラマなどは見る機会はなかったである。
「あれがお芝居……凄いですね、こちらの世界のお芝居は……あんなに派手に炎や光が吹き出したりしていましたが、魔法も使わずにどうやってあれを……?」
エルの世界にも、芝居という娯楽は存在した。
とはいえ、それらは旅芸人などが町や村を廻りながら講演するもので、当然ながら舞台は移動可能なテントであり、舞台装置もどうしても簡易的なものになる。
演出にしても、魔法使いを雇って光や幻などの魔法で舞台演出できるのはよほど大きな劇団だけであり、小さな劇団では松明の灯りだけが照明というのも珍しくはないのだ。
そのため、こちらの世界のテレビ製作では、既に一般的ともいえる合成などの技術を知らないエルは、さきほどのヒーロー番組のような派手な演出は信じられない光景なのだろう。
「じゃあ、先程の魔物は……」
「あれは着ぐるみ……大きなぬいぐるみの中に人が入って動かしているんだ。つまり、本物の魔物じゃないんだよ」
「はえー……やっぱり、こっちの世界はいろいろと凄いですねー」
感心するエルの横で、康貴がテレビのリモコンを操作してチャンネルを変更する。日曜朝のヒーロー・タイムが終わったので、他の番組に変えようとしたのだ。
と、エルが再び驚いた声を上げた。
「あ、あ、あれ……え、絵が動いていますよっ!? あ、あれもこちらの世界のお芝居なんですかっ!?」
エルの視線の先──チャンネルを切り替えた先では、丁度次の放送時間枠のアニメを放映していたのだ。
「まあ……アニメにも脚本や台本があるし、声優さんも役者の一種だから、芝居と言えば芝居と言えなくもないかなぁ……?」
絵が動くというまるで「魔法」のような光景を目にしたエルは、目を輝かせてアニメ番組に見入り、康貴はそんなエルに苦笑を浮かべながら、エルが作ってくれた味噌汁をずずずっと吸い上げた。
「ちょっと味噌の味が薄いな……七十点」
康貴の料理に対するちょっと辛口の採点も耳に入っていないようで、結局エルはその後もアニメ番組を見続けたのである。
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