イニシャルはGですか?
午後四時を少し過ぎて。
濡れた髪も乾ききらぬまま、康貴たちはプール横でテントを張って営業している出店で買った軽食を、テント横に設置してあるベンチに腰を下ろして食べていた。
「ふわぁ、これ、美味しいですねぇ」
エルが出店で売られていた焼きそばを一口食べ、幸せそうな顔をする。
「そうなのよねぇ。こういう所で食べる焼きそばって、どういうわけかいつも以上に美味しく感じるのよねぇ」
エルと同じようにパックに入った焼きそばを食べながら、あおいが同意を示す。
「そりゃあ、一時から三時間近く泳いでいたから腹も減るってもんだ。腹が減れば、何を食べても美味く感じるさ」
「空腹は最高のスパイス……って奴か?」
隆と康貴は揃ってフランクフルトを齧っている。
彼らの傍らには各々好きな飲み物が。もちろん、例の競泳のペナルティで隆が奢ったものだ。
そうしていると、突然エルが抱えていた焼きそばのパックを脇に置き、ペットボトルのお茶を慌てて喉に流し込む。
びっくりする康貴たちの前で、エルはお茶を半分ほど一気に飲み干すとようやくふぅと一息吐いた。
「どうしたんだ、突然……?」
「そ、それが……」
涙を浮かべたエルが箸で摘み上げたのは、焼きそばのパックの脇に添えられていた赤い物体。
「綺麗な赤色で美味しそうだったので、纏めて食べたんですけど……そしたら突然、鼻につーんと来て……」
「そりゃあ、紅生姜だもの。纏めて一気に食べたらそうなるわよ」
「べ、ベニショウガ……?」
目に涙を溜めながらも、エルは摘み上げた紅生姜を凝視する。
「ああ、家じゃ紅生姜は使わないからな。エルが知らなくても無理はないなぁ」
そう言う康貴を余所に、エルはじーっと摘み上げた紅生姜を見つめていたが、その内にそっとそれをパックの片隅に戻した。
「うぅ~……私、このベニショウガってのは苦手みたいです……」
形の良い眉をきゅっと寄せながら、エルがぽつりと呟いた。
夕方になったとはいえ、まだまだ気温は高い。
そんな気温の中を自転車で走れば、直前までプールで冷やされた体もあっという間に汗を吹き出す。
バイパス瀬戸大府線を岩崎方面から日進駅方面へと走ると、浅間北の交差点から折戸寺脇の交差点まで長大な登り坂が待っている。
いくら年齢的に最も体力のある康貴たちも、この坂を自転車で登りきりのはきつい。それに加えて、今日は数時間も水の中で遊び続け、体力を著しく消耗しているのだ。
康貴たちは無理をせず、自転車を押しながらのんびりと歩いて坂を登ることにした。
なお、今回のプールに合わせて、エルは念願であった自分用の自転車を購入していた。
「……暑い……早く家に帰って、シャワー浴びたい……それか、どこかで冷たいものが食べたい……」
「さっき、ぷーるの横で冷たいお茶を飲んだところですよ? でも、本当に暑いですねぇ……」
あおいが力なく呟き、エルがそれに応じる。
並んで歩く二人を後ろから見ながら、康貴は嬉しげに微笑んだ。
エルとあおいが、まるで長年の親友のように仲がいいことが嬉しいのだ。
こちらの世界に突然現れたエル。そのエルと最初に対面したのは康貴だが、同性ではあおいが一番に出会ったことになる。
やはり、同性同士だと気楽に付き合えることも多いのだろう。エルにとってあおいの存在は、こちらの世界で生活する上での支えの一つに違いない。
エルと出会ったあの日、一番にあおいに相談して本当に良かった、と康貴はつくづくそう思う。
「康貴ー、隆ー、どこかで休憩していかないー?」
「もう今日は止めた方がいいと思うぞ、あおい。それから、俺と康貴以外の男にそんな聞き方するなよ! 変な誤解をされるからな!」
隆に言われて自分の発言がどのような誤解を招くかを悟り、あおいの顔が見る間に真っ赤に染まる。
「ば、馬鹿っ!! そんな意味で言ったんじゃないってばっ!!」
「僕たちは分かっているけど、僕たち以外だとどう取るかは分からないから気をつけた方がいいって、隆はそう言いたいんだよ」
「そうそう。それから、男が運転する車の助手席に乗っている時に、『眠い』って言うのも誘い文句だと思われるからな?」
「男の人の車の助手席に乗る機会なんて、お父さんの運転する車ぐらいだから大丈夫よっ!!」
「それもそうだな」
ひょいっと肩を竦める隆。それを見て康貴が笑い、堪えきらなくなったという感じで隆も笑い出した。
そして、そんな二人を見ていたあおいも笑い出し、三人は足を止めて屈託のない笑い声を上げる。
ただ一人、エルだけがきょとんとした顔で笑う三人を見つめていたけど。
「あ、あのー、三人ともどうしたんですか? それにさっきのアオイさんの言葉、どこかに誤解されるようなところがありました?」
こくん、と不思議そうに首を傾げているエル。「ご休憩」という言葉に隠語のような別の意味があることは、現代の日本人でなければ分からないことなので仕方がないだろう。
「ただいまー」
玄関の鍵を開けて、一歩家の中に入る。
エルは誰もいない家の中に向かって、返事が帰ってくるはずもない帰宅の挨拶をしていた。
だから康貴は、エルの背後からその挨拶に応じてやる。
「お帰り、エル。僕もただいま、だ」
「はい。お帰りなさい、ヤスタカさん」
二人は照れたように笑い合うと、家に上がってリビングを目指す。
今、二人の手には途中のスーパーで買い込んだ今晩の夕食用の食材がある。まずはこれを片付けねば、ゆっくりと腰を落ち着けることもできない。
買ってきた食材を簡単に整理し、すぐには使わない物は冷蔵庫に収納する。
その後、一休みしてから康貴は夕食の準備に取りかかり始めた。
「何かお手伝いすることはありますか?」
「じゃあ、材料を切るのを頼む」
「分かりました」
微笑みながら返事をしたエルは、自分用のエプロンを装着して康貴と並んで包丁を握る。
元々、彼女は料理ができる方なのだ。ただ、こちらの世界の調理器具や調味料などに不慣れなだけで、それさえ慣れてしまえば特に問題はない。
最近ではこうして、康貴と一緒に料理をするぐらいにはこちらの料理にも慣れてきているし、時には一人で料理をすることさえある。
それに何より、エルは康貴とこうして肩を並べて同じ作業をすることが楽しくて仕方がないのだ。
今も鼻歌混じりに楽しそうに包丁を操っているエル。そんな彼女の隣で作業する康貴は、微笑ましそうに横目でエルを見つめていた。
夕食を食べ終えた後は、康貴、エルの順番で入浴する。
今はエルが風呂に入っており、康貴はリビングでTシャツと短パンという夏の寝間着スタイルで、冷たいお茶を飲みながらテレビを見ていた。
しばらくそうしていると、とたたたたっという軽い足音が近づいて来る。どうやら、風呂から出たエルが小走りでこちらに向かっているらしい。
そして、がちゃりと開かれるリビングの扉。
そこから入ってきたのは、ちょっと興奮した様子のエルだった。風呂上がりのエルも、淡い緑の半袖と七分丈の生地の薄い夏用の寝間着姿だ。
「ヤスタカさん! お風呂場に見たこともないムシがいました! なんか平ぺったくって黒くてツヤツヤして長いヒゲのやつです! これって何て名前のムシですか?」
「げっ!!」
嬉しそうにエルが差し出したものを見て、康貴は目を見開いて絶句する。
なぜならエルの白くて細い指に摘まれているのは、俳句の夏の季語のもなっている「台所の黒い悪魔」またの名を「イニシャルG」だったからだ。
康貴の家はお世辞にも新しいとは言えない古い家なので、「イニシャルG」がいても不思議ではない。だが、どうやらエルは今日まで「G」と遭遇していなかったらしい。
「は、早くそれを捨てろっ!!」
慌てるエルに「G」を手放すように指示する康貴。そんな彼の様子から、エルは自分が持っている虫が普通の虫ではないことを悟る。
「え? え? ま、まさかこのムシ……ど、毒虫ですかっ!?」
康貴の尋常では様子から、この黒い虫が毒を持っていると勘違いしたエル。摘んでいた「G」を、彼女は熱いものに触れたかのように慌てて離してその手を引っ込めた。
だが。
慌てて手放した「G」は、緩やかな弧を描いてエル自身の方へと空中を移動する。
そして。
夏用のエルの寝間着は、ちょっとゆったりとしており襟元に結構な隙間があった。
つまり。
空中に放り投げられた「G」は、丁度良い隠れ場所とばかりにすっぽりとエルの服と肌の隙間へと潜り込んでしまったのだ。
途端、顔を青ざめさせるエル。毒を持っていると誤解した虫が、服の中に潜り込んだのだ。彼女としてはじっとしていられるわけがない。
ひっ、とエルの唇から小さな悲鳴が零れ出る。
だが、そこはエルも冒険者。突然のことに最初こそ驚いたものの、すぐに冷静になると行動へと移る。
エルはその場で素早く寝間着の上を脱ぐと、それを手に持ってばたばた振った。そして、うまいことリビングの床に落ちた「G」を、手近にあった雑誌でぱんっと叩き潰す。
「ふぅ。何とか毒虫は退治しましたよ、ヤスタカさん。もう大丈夫です」
一仕事やり遂げた清々しい顔で、エルは康貴へと振り返った。
だが、彼女のその顔は、すぐに不審そうなものへと変化する。
康貴へと振り返ったエルは、なぜか彼が真っ赤な顔で自分の顔を凝視していることに気づいたのだ。
いや。違う。
彼が見ているのは自分の顔ではない。康貴が凝視しているのは、自分の顔よりもやや少し下で──。
そう思ったエルは、慌てて自分の胸元を確認する。もしかすると、毒虫の毒針がどこかに刺さっているのかも知れない。
そして、彼女はそこに見る。小振りながらも形の良い二つの膨らみと、その頂にちょこんと乗っかっている二つのピンク色の小さな果実を。
寝間着を脱げば、その中身が露わになるのは当然なわけで。
康貴が見ていたのが、毒虫の毒針などではなく、露わになった自分の胸だと悟ったエルの顔が、一瞬で康貴に負けず劣らず真っ赤になった。
「ぴゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっっ!!」
今の自分の格好をようやく自覚したエルは、思わず悲鳴を上げてばたばたとリビングを飛び出して行った。すっかり見えてしまっていたその双丘を、しっかりと両腕で隠しながら。
まるでどこか他人事のように、飛び出していくエルを呆然と眺めていた康貴。
彼はふと我に返ると、エルが雑誌で潰した「G」の残骸の後始末に取りかかる。
ティッシュを何枚も箱から抜き取り、重ね合わせたそれで潰された残骸を黙々と取り除く。
残骸を片付けながら、彼は心の片隅でほんの少しだけこの「G」に感謝を捧げた。
この世に生まれてから16年。彼が「G」に嫌悪以外の感情を抱いたのは、この時が初めてだった。
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