驚くことはまだあるですか?

 ハンドルに付いているブレーキレバーを握ると、自転車はゆっくりと減速していく。

「本当にこの自転車という乗り物はおもしろいですね。漕げば漕ぐほど速く走るし、止まる時はぶれーきって奴を握るだけ。馬に乗るよりもずっと簡単です」

 でも、登り坂はちょっと疲れるけど。と付け加えながら、エルはがしゃんと自転車のスタンドを立てて自転車を停めた。

 康貴に教わった通りに自転車に施錠すると、彼女は変装用の黒縁眼鏡を外しながら手の甲で額の汗を拭う。

「ふぅ、暑い。こちらの世界は暑くて湿気が多いですね」

 エルのいた世界……というか、エルが暮らしていた国には四季がなかった。あるのは繰り返し訪れる水の節と火の節、つまりは雨期と乾季である。

 雨期は少し肌寒くて乾季はからっと暑い。この二つが繰り返されるのが、エルが暮らしていた地域の気候だ。一年を通して温暖な地方で、日本よりは過ごし易いと言えるかもしれない。

 康貴に聞いたところによると、この国は四季によって気温や風景が様々に変わるという。

 春は桜が咲いてピンクに溢れ、夏は空や海が蒼く輝き、秋は野山が赤や黄色に染まり、冬は白と灰色に覆われる。

 この内、エルが体験したのは春と夏。どちらもエルの世界にはない、色鮮やかな風景を見せてくれた。もっとも、桜の花は直接見ることはできなかったので、写真や映像で見ただけだ。

「でも、この暑さはちょっと勘弁です。砂漠地帯……とまでは言いませんが、それに匹敵しますよ、これ」

 ここ数年の夏は特に暑いらしいが、それでも康貴に言わせれば彼の家の周りはまだ涼しい方らしい。

 彼の家の周りには田圃が多いため、一面のアスファルトに覆われた都会に比べると吹き抜ける風が涼しいのだそうだ。

 特に、以前に遊びにも行ったことのある名古屋の街など、ヒートアイランド現象も加わって日中に出歩くのは自殺行為にも等しいとか。

 しかも、その名古屋よりももっと暑い地域があるというのだから驚きである。

 連日のようにテレビの報道番組で、どこそこの土地の気温が40度を超えたとか超えないというニュースはエルも見聞きしている。

 40度と言う気温が具体的にどれぐらい暑いのかはエルには想像できないが、テレビ画面の中の風景は確かにエルのいる日進市よりも遥かに暑そうだった。

 玄関のドアを開けると、途端に食欲を誘ういい匂いがエルの鼻を刺激する。

「ただいまです、ヤスタカさん」

「おかえりー」

 スニーカーを脱ぎながら家の中に声をかけると、奥から康貴が返事した。

 普段はどちらかと言えば、エルが家にいて康貴が帰ってくるのを待っていることが多い。

 康貴は学校やバイトなどで家を出る機会が多いのだから当然なことではあるのだが、いつもとは逆のやり取りがエルには何となく新鮮だった。

 玄関を上がり、廊下を通り抜ける。

 こちらの世界に来て数ヶ月。すっかり馴染んだこの家は、エルにとっても既に「我が家」となっていた。

 リビングへと続くドアを開けた途端、中から冷えた空気が流れ出す。

 この部屋の中を涼しくしてくれるエアコンというものは、エルがこちらの世界で最も驚いたものの一つかもしれない。

 どんなに暑い日でも、スイッチ一つで快適な生活空間を作り出すことができる、まさに魔法の道具マジックアイテムだ。

 エルのような精霊使いの中で、氷の精霊と契約を結んだ者ならば似たようなことができそうなものだが、実はこれは不可能であった。

 そもそも氷の精霊は、エルが住んでいた国よりももっと寒い地方──そこは一年中の殆どが雪と氷に閉ざされる地方──に行かなければ見かけることはできない。その氷の精霊を暑い場所で使役すれば、あっと言う間にその力を衰えさせて消滅してしまうだろう。

 そのためエルの世界では、暑い時期に涼を得る方法といえば団扇で仰ぐか川や池などで泳ぐぐらいしかない。

 それなのにこのエアコンを使えば、閉めきった部屋の中はとても涼しくて快適なのだ。

 「閉めきった部屋の中は暑い」というエルの常識を覆すエアコンは、彼女にとっては正真正銘「魔法の道具」であった。

「もうすぐ暗くなるとはいえ、外は暑かっただろ?」

 康貴は、エルのためによく冷えたお茶を淹れてやる。とはいえ、冷蔵庫で冷やしておいたペットボトルのお茶を、氷の入ったグラスに注ぐだけだが。

 エルは笑顔でそれを受け取ると、ソファに腰を落ち着けてゆっくりとお茶の冷たさを味わう。

 氷で冷やされたお茶が、火照ったエルの体の中から熱を奪っていく。

 これもまた、エルには信じられないことだった。

 暑い時期に氷が存在する。そんなことは、エルの感覚からすればあり得ないのだから。

 確かに寒冷地に暮らす人々の中には、氷を氷室などに保管しておいて暑い時期に売るという商売をしている者もいた。

 だが、そんな氷は当然高価であり、一部の裕福な者にしか手に入れることはできない。実際、エルはこちらの世界に来るまで、話には聞いていても本物の氷というものを見たことがなかったのだ。

 そんな氷が自宅の中で簡単に作れるというのだ。エルが驚いたのも当然なことである。

「本当に……こっちの世界は驚くことが一杯です」

「え? 何か言ったか?」

 キッチンで夕飯の最後の仕上げをしている康貴が、エルの呟きに反応して聞き返した。

「何でもないでーす」

 エルは微笑んだまま、両手でお茶の入ったグラスを持つ。

 掌から伝わる気持ちのいい冷たさと、こちらを不思議そうに見ている康貴の顔と。

 彼女が笑った理由は、果たしてどちらであっただろうか。



 夕食を二人で食べ終えて、冷えたスイカなどを食べながら。

 エルは今日、新たに出会った人物について康貴に語って聞かせた。

 康貴やあおいの友人であるさわむらめぐみ。隆の姉のあきらと妹のさくら。康貴もよく知る人物たちである。

「そうか。沢村と桜ちゃんとは友達になれたのか」

「はい。メグミさんもサクラさんもすまーとふぉんの番号とあどれすを教えてくれました。でもアキラさんは……」

 何やらエルにはよく分からないことを言いながら、リビングを飛び出していった晶。そのことを康貴に伝えると、彼もまた困ったような表情を浮かべた。

「うーん……あの人、悪い人じゃないけど結構変わった人だからなぁ。大学へ行きながら何か仕事もしているらしいけど、隆の奴も詳しいことは教えてくれないし」

 スイカにかぶりつきながら、康貴が呟く。

「まあ、その内親しくなれるさ」

「そうですよね!」

 エルも康貴と同じようにスイカを食べる。

 甘くて瑞々しいこの果物もまた、エルを驚かせた存在である。

 まず第一に、見た目のインパクトが凄かった。大きくて固くて緑色で、そこに黒い縞模様が入っているのだ。エルはこれが食べられるなど、俄には信じられなかった。

 更に驚くべきことに、その実を半分に切ってみると中は見事な──エルにはちょっと毒々しく見えたのは内緒──赤色である。

 更に更に驚いたのは、おそるおそる食べてみるとこれがあっさりとした甘さの、とても美味しい果物だったのだ。

 大味な見た目とは真逆の繊細な甘さ。しかも、なぜか塩を振るとその甘さが際立つのだから、不思議としか言いようがない。

 さすがは異世界。自分の常識がことごとく通じない。

 自分が知らない異世界──こちらの世界の数々の「魔法」。そんな「魔法」たちに触れるのが、エルは楽しくて仕方がなかった。

 だが、こちらの世界の「魔法」も決して無制限ではないのだ。

 暑い日でも涼しく過ごせるエアコンも、手軽に作れる氷も、栓を開ければ無限に水が湧き出す水道も。

 これらは全てお金がかかる。それを聞いた時もエルはとても驚いたものだ。

 便利な道具を手に入れるため、高いお金を支払うというのはエルにも理解できる。だが、その後の使用にさらにお金が必要になるなど、エルには考えられないことだったのだから。

 通常よりも高品質な武具などは、当然割高になる。それでも、一度買ってしまえば、それに以後費用を払う必要は──手入れに幾ばくかはかかるが──ない。

 高価で便利な魔法具マジックアイテムだって、一旦手に入れてしまえばそれ以上はお金はかからない。

 だけど、こちらの世界の「魔法の道具」たちは、買った後も使用に際してお金がかかるというのだ。

 康貴たちにしてみれば、使った分だけ水道代や電気代、ガス代を支払うのは当然なことだが、エルには当初それが理解できなかった。

 特に理解できなかったのが水である。康貴たちのいる国は、水が豊富でどこに行っても水にはこと欠かない。そんな水にお金を支払わなければならないというのが、エルには本当に分からないことだった。

 これが砂漠地帯などの水が貴重な土地ならば、エルにだって理解できる。実際にエルも冒険者の仕事で砂漠地帯に行ったことがあり、そこでどんな銘酒よりも真水の方が高い値段を付けられているのを見た時、その土地では水がとても貴重だということを実感したものだ。

 とはいえ、それがこちらの世界の常識である以上、エルもそのことについてどうこう言うつもりはないし、そういうものだと納得もした。

 ただ、一人で家にいる時などには、エルは必要以上に便利な家電製品を使うのを控えようとこっそりと心に決めていたが。

 康貴も彼の両親も、エルのことは既に家族と認めてくれているし、エルも康貴たちを家族だと思えるようになってきた。

 それでも、やはり自分は居候だという気持ちが、エルの心のどこかには存在している。

 そして、居候である以上はそれなりの分別を持たなければ。そう思ってしまうエルだった。

 康貴たちのこの世界もエルが生まれ育った世界も、居候は三杯目はそっと差し出すものなのである。



 その後、康貴とエルは順番に入浴を済ませて。

 エルは自室へと引っ込むと、扇風機のタイマーをセットしてベッドに寝転んだ。

 かつては康貴の姉が使っていたこの部屋にも、エアコンは設置してある。だけど、エルはそれを使う気にはなれなかった。

 エアコンは確かに便利だが、そこから吹き出される風の冷たさはどこか不自然に感じられるのだ。

 日中の最も暑い時期にはそんなことも言ってはいられないが、いくらか気温の下がる夜ならば、ちょっと生暖かいものの扇風機の優しい風の方がエルは好きだった。

 エルは天井を見上げつつ、今日一日のできごとを思い返してみる。

 である香里や康貴と共に、念願であったスマートフォンを手に入れた。

 その後に、あおいや隆といった親しい友人たちの家に赴き、そこで新たな出会いも経験した。

 何かと忙しい一日だったが、それでも充実感のある一日だった。

 そのことに、暗闇の中でそっと笑みを浮かべるエル。

 その時、枕元に置いた携帯が、メールの着信を告げるメロディを奏でた。

「あ、アオイさんからですね……えっと……確か……こうやって……」

 覚束ない手付きで、エルはどうにかメールを開くことに成功する。

〈毎日暑いし、エルの外見的な問題がなくなったし、近々皆でプールにでも行きましょう。折角、この前水着を買ったことだしね〉

 そんな内容の文章を読んで、エルはふと疑問を感じて首を傾げた。

「ぷーる? ぷーるって何でしょうか……?」

 プールというものを知らないエルは、明日の朝にでも康貴に聞いてみようと考えつつ、あおいからのお誘いメールに是と返信するのだった。


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