萩野家にお邪魔ですか?
足に力を入れてペダルを漕ぐ。
そうすると、自分の足で走るよりもずっと速く自転車は走る。
「自転車っておもしろいねー」
康貴から貰った変装用の黒縁眼鏡の奥で、エルの蒼い瞳が楽しそうに輝く。
誰に言うでもなく呟いたエルは、がちゃりとギヤを変えた。
途端にペダルがぐっと重くなるが、それに負けずに更に足に力を入れる。すると、先程よりも自転車の速度がぐんと上がる。
「お? おおー、速い、速い!」
詳しい理屈はエルには分からないが、ギヤを変えると速度が上がることは、以前に康貴から教えてもらっていた。
自転車を漕ぎながら、エルは何度もがちゃがちゃとギヤを変えてみる。その都度、ペダルが重くなったり軽くなったり、速度が落ちたり上がったりと、その変化が彼女は楽しかった。
「これは早く自分の自転車を買わないといけませんね。タカシさんの家に行くついでに、市長さんに次の仕事はいつなのか聞いてみようかな?」
そんな期待を胸にして、あおいの家を出たエルは、次に隆の家である萩野邸を目指していた。
「どうして……どうしておまえは、そんなにも僕の心をざわめかせるんだ、タケシ?」
「た、タカヤス……そ、そんな……俺はそんなつもりは……も、もう、止め……くぅっ!?」
タカヤスのしなやかな指先が、さわさわとタケシの体の敏感な部分を何度も往復する。
その度に、タケシは体の奥から沸き上がる快楽を必死に押し殺し、自分を組み伏せるようにしているタカヤスを見上げた。
「それだよ」
「え?」
「その目だよ。その目が僕を誘い、惑わせているんだ。気づいていないのか?」
「そ、そんな……俺は……」
「そんなつもりはない、って? ふふふ、分かっていないね、タケシ。そんなつもりがないからこそ、おまえは罪深いんだ」
タカヤスの顔が、組み伏せているタケシの顔に徐々に近づく。
そして互いの唇が触れ合う直前、タカヤスのそこから意外な言葉が漏れた。
「僕、知っているんだ。おまえ、アオシのことが好きなんだろ?」
びくり、と一度小さく震えるタケシの体。それはタカヤスの言葉が真実であることを無言で証明していた。
「でも、安心して? すぐにアオシのことなんて僕が忘れさせてあげるから」
そう言いながら、タカヤスの指はタケシの着ているシャツのボタンを順に外していく。
そしてタケシの肌を露出させたタカヤスの指は、徐々に、徐々にタケシの下半身へと移動していった。
「さあ、覚悟はいい?」
「か、覚悟……?」
「そう、覚悟。おまえが僕のものになるという覚悟さ」
にっこりと人を引きつける笑みを浮かべながら、タカヤスはタケシに覆い被さるようにその体を横たえて────
と、そこまでの文章をパソコンに打ち込んだ
「…………ちっとも気分が乗らないわ……駄目ね、こんな駄作……」
そう呟きながら、アキラは打ち込んだ文章をすっぱりとデリート。そして、すっかり冷めてしまったコーヒーを一気に喉の奥に流し込んだ。
彼女は新進気鋭の小説家──ただしBL専門──だ。
高校生の時にデビューしてから早数年、これまでに出した小説──くどいようだがBL専門──は、数多くの
だが、そんな気鋭の小説家にも、筆の乗らない時はあるようだ。
「……はぁ。何か気分転換になるようなことでも起きないかしら。例えば、突然弟が彼氏を私に紹介するとか……」
普段からそんなことをさらっと考えてしまう辺り、彼女自身も相当な腐女子であった。いや、その存在は既に腐女子を超えて、貴腐人の域へと到達しかけている。
そんな時。
「た、大変だよぉ、姉貴っ!!」
突然、妹である
アキラとは少し歳の離れている桜は、現在小学校六年生。小説家であり、大学二年生でもあるアキラとは、八歳離れていることになる。
真っ直ぐな黒髪をいわゆるツーテールにしている桜は、姉であるアキラの目から見ても充分美少女と言っていいだろう。
そういう彼女自身も美人にカテゴライズされる存在だが、普段からお洒落などには全く気を使わないため、周囲からそれほど注目される方ではない。
今も髪はぼさぼさだし、かけている眼鏡も野暮ったい太い黒縁のもの。着ている服だって、いつ買ったのか忘れてしまうほどの、くすんだ青色のだぼっとしたパーカーと色褪せたデニムパンツだ。
反面、妹の桜は小学生と中学生の境目ということもあり、お洒落には興味があるらしい。
今日も桜は家の中だというのに、黒とオフホワイトのドット柄のホルターネックキャミソールと、ペチコート風レースの黒いショートパンツという出で立ちで、彼女を実年齢よりもちょっぴり大人っぽく見せていた。
それに、美形なのはアキラと桜だけではない。父親も母親も、そして高校生である弟も、家族全てが誰もが美形と認めるであろう容貌をしている。
家もかなり裕福だし、家族は全て美形揃い。アキラ自身も社交的で友人は多い──話し好きが高じて口が軽過ぎるのが玉に瑕だが──タイプだ。それでありながら、アキラの感性だけがどうしてこうも明後日な方向に向いてしまったのか。それがアキラを知る友人たちの共通の疑問だった。
そんな美少女な妹が、酷く慌てた様子で自分の部屋に飛び込んで来た。
これがある種の特殊な趣味の持ち主ならば狂気乱舞する場面だろうが、残念ながらアキラに妹に対して特別な感情は持ち合わせていない。
それどころか、もしも桜が弟だったら、もう一人の弟と禁断の兄弟BLを期待できたかもしれないのになー、とまで考えている始末だ。
「どうしたの、桜? もしかして、隆が
妹に対してどうにも失礼なことを考えながらも、それを表面には出さずに桜に慌てている理由を尋ねるアキラ。
対して、妹の返事はと言えば。
「そ、そうなんだよっ!! 兄貴の
「なぁにぃっ!?」
どこぞの芸人のような口調で応えながら、くわっと目を見開き、その目をらんらんと輝かせるアキラ。
彼女は座っていた椅子を蹴倒すように立ち上がると、飛び込んで来た桜以上の慌ただしさで、ばたばたと自分の部屋を飛び出して行った。
アキラが桜を従えて家のリビングに飛び込むと、そこには確かに金髪で蒼い目の小柄な人物がいた。
その人物はアキラの弟である隆と、なぜか珍しく家にいた父親であり、この日進市の市長でもある萩野幸一とも一緒に談笑している。
そんな金髪の人物をまじまじと見つめたアキラは、ぽそっと一言呟いた。
「……なんだ、女の子じゃない」
がっくりと明白に肩を落としたアキラ──本名、
「い、いや、待って! もしかすると、男の
もう一度、晶はリビングにいる金髪の人物を凝視する。
一方、萩野市長やその息子の隆、そして金髪の女性──エルは、突然乱入してきた二人の女性たちに、驚きの目を向けていた。
特にエルは、突然リビングに入って来たかと思うとじっと自分を睨み付ける女性に対し、もしかして自分が何か間違ったことをしてしまったのではないか、とつい怯えてしまう。
「今は来客中です。突然リビングに入って来るなんて、お客さんに対して失礼ですよ?」
リビングに飛び込んで来た娘たちを、萩野市長が静かに窘めた。
晶と桜は父親に謝りつつも、その意識は金髪の客人へと向けられたまま。そのことに気づいた萩野市長が、溜め息と共に娘たちにエルを紹介する。
「こちらの女性は、いろいろと複雑な事情から、最近康貴くんの義妹となったエルさんです」
「初めまして。えっと……タカシさんのお姉さんと妹さんですか? 私、エルルーラ・ザフィーラ・フィラシィルーラ・アカツカと言います。長いので、エルでいいですよ?」
エルは椅子から立ち上がると、晶と桜に向かってぺこりと頭を下げた。
「え? 康貴さんの義妹……?」
「ってことは、やっぱり女の子か……ちぇっ」
隆の幼馴染みである康貴とあおいのことは、当然ながら晶も桜もよく知っている。
だがその康貴に、いつの間にかこんな可愛い義妹ができていたとは。さすがにそこまでは知らない二人だった。
「そっか、康貴さんの義妹だったのか……あ、私、兄貴……じゃない、隆兄さんの妹の桜です。桜って呼んでください」
「はい、サクラさん。これからよろしくお願いしますね」
「こちらこそよろしくね、エルさん。それで……今日エルさんが家に来たのは……やっぱり、エルさんと兄貴が付き合っているから……だったりします?」
桜はわくわくとした表情を浮かべて、エルと兄である隆を何度も見比べる。
だが、兄からの返答は桜が期待しているようなものではなく。
「確かにエルちゃんは親しい友達だけど、残念ながら彼女ってわけじゃないんだ。俺としても、エルちゃんみたいな可愛い娘が彼女だったらすっげえ嬉しいけどな」
「そうですね。エルさんのような方を恋人にするのは、世の男性全ての夢と言っても過言ではないでしょう」
「今日エルちゃんが家に来たのは、彼女が新しくスマホを買ったから、俺や父さんと番号を交換したいからだってさ」
本音半分リップサービス半分な二人の言葉に、エルはたちまち顔を赤くする。
「あ、あの、タカシさんも市長さんも……私のことをそこまで褒めっても何も出ませんよ?」
真っ赤になりながら照れ笑いを浮かべるエルを、隆も萩野市長も「いや、きっと何かファンタジー的なものが出てくるに違いない」とこっそりと思っていた。遂今しがたも、エル本人から耳を誤魔化している新しい魔法の話を聞いたばかりなのだから。
「スマホの番号?」
「ああ。エルちゃんは今までスマホを持っていなかったけど、今日新たに買ったそうなんだ」
「なぁんだ、突然エルさんが兄貴を尋ねて来たものだから、私はてっきりエルさんが兄貴の彼女だとばっかり思っちゃったよ。でも、兄貴は分かるけど、どうしてお父さんとまで番号の交換を?」
「実は、エルさんには市の広報関係の仕事をお手伝いしてもらっていましてね。その関係で、彼女とは連絡を取り合うことが多々あるのです。ああ、そうだ、エルさん。近日中に新しい写真の撮影を行ないますから、またよろしくお願いします」
「はい、分かりました」
「市の広報……? 新しい写真の撮影……?」
父親の言葉に何か引っかかりを覚えた桜は、とある事実に思い至る。
それは最近彼女たちが住む日進市で噂となっている、ホームページ上で公開されているとあるキャラクターについてだった。
「も、もしかして……エルさんってあの噂の『エルフさん』を演じている……?」
「ええ、桜の考えている通りです。ですが、このことは他言無用に願いますよ? エルさんはプロの役者さんではありませんから、下手にこのことが知れ渡ると彼女にいろいろと迷惑がかかるかもしれません」
「あ、そっか。分かったよ、お父さん。私、誰にも言わないから」
桜は小学生とはいえ、これでなかなか義理堅いところがある。他人の迷惑になると事前に釘を刺しておけば、そうそう他言したりはしないだろう。
その後は、桜もスマートフォンを持っていると知ったエルが、彼女とも互いの番号とアドレスを交換したのは言うまでもないことだった。
「マぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁベラスっ!!」
それまで黙って隆たちやエルの会話を聞いていただけだった晶が、突然雄叫びを上げた。
何事かと晶を見るエルたちを余所に、桜はぐっと拳を握り締める。
「来た来た来た来たぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!! 金髪で蒼い目をした美形の義理の妹……じゃなくて義理の弟っ!! これは新しい展開だわっ!! 早速原稿に取りかからなくっちゃっ!!」
何やら創作意欲を刺激されたらしい姉を、隆はじっとりとした目で見つめる。
「おい、姉さん……もしかして、例のアレにエルちゃんまで出すつもりじゃないだろうな?」
隆は知っていた。自分の実姉が、自分とその親友たちをモデルにしたBL小説で絶大な人気を博していることを。
ちなみに、このことは康貴やあおいには言っていない。
自分たちをモデルにしたちょっと歪んだ恋愛小説が、一部の少女たちの間で人気沸騰中であるなどとは、とてもではないが康貴たちには言えない。言えやしない。
「何を言っているのよっ!? こんなおいしいネタを見逃せるはずがないでしょっ!? ふっふっふっ……タケシに想いを寄せる義理の兄であるタカヤスを、義理の弟となった……そうね、名前はエリックにしましょうか。エリックは一目で義理の兄に恋心を抱いて……これよっ!! この展開だわっ!! マぁぁぁぁぁぁぁぁベラスっ!!」
リビングに入って来た時と同様、ばたばたと飛び出していった晶の背中を、エルは呆然としながら、彼女以外の家族たちは深い溜め息と共に見送るのだった。
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