幻ですか?

「ど、どうですか、ヤスタカさん……?」

 不安そうな表情を浮かべて、エルは康貴上目遣いでじっと見る。

 対する康貴はといえば、そんなエルの顔を様々な角度から無言のままじっと観察していた。

「…………うん、いいんじゃないかな? 見たところ違和感はなさそうだ」

「そ、そうですか……良かったぁ……」

 不安から安堵へと。エルの表情がくるりと変わる。

 エルの表情の変化を微笑ましく思いながら、康貴は冷たいお茶の入ったカップに口をつけた。

「これでもう、ニット帽を被らなくても外へ出られるな」

「はいっ!! あの帽子被っていると、本当に暑かったんですよぉ」

 えへへへ、と嬉しそうな笑みを浮かべるエル。

 今、彼女のその特徴的な長くて尖った耳は、人間のそれと同じように丸くなっていた。

 エルの耳の変化。

 それは先日彼女が契約した、幻の精霊レンプラーススであるツィールの力によるものだった。

 幻を司る精霊であるツィールの力を借りて、幻影の魔法でエルの耳を人間のように見せかけていた。要は人間のような耳の幻影を作り出し、それでエル本来の耳を覆い隠しているのだ。

「やろうと思えば全身を幻で覆って、全くの別人になることもできますが、それだと消費する魔力が多くなり過ぎてあっと言う間に私の魔力が尽きちゃいます。でも、耳だけならそれほど魔力も消費しませんから、一回の魔法の行使でそうですねぇ……大体、こちらの世界で言う一時間ぐらいは呪文の効果は続きそうですね」

 これが自分の世界でならば、持続時間はもっと長くなるのだとエルは付け加えた。

「そうか。じゃあ、外へ出る時は時間を気にしないとな」

「はい。外出した時は、早目早目に呪文をかけ直すことにします。これからよろしくね、ツィールくん」

 エルは右手に嵌めた真鍮製らしき指輪に話しかける。

 すると、指輪の上に15センチほどの小さな人影が現れた。人影はエルににっこりと微笑みながら、それでも近くに康貴がいることに気づくと、慌てたようにすっと消えてしまった。

「……ははは。相変わらずだな、ツィールは」

「はい。まだ、こちらの世界の人たちは怖いそうです」

 ツィールがどうやってこちらの世界に来たのか。

 それはツィールにもよく分からないらしい。前の契約者であるランティス・トリビュートの死後、宿った指輪の中で微睡んでいた間のできごとだったらしく、ツィールにも記憶がないとのことだった。

「ランティス・トリビュートの死後、この指輪が誰かの手に渡り、その人共々私のようにこちらの世界に来てしまったのか、それとも指輪だけが何らかの理由でこっちに来たのか……」

「ツィールにも記憶がないんじゃ、僕たちがあれこれ考えても仕方ないさ。要は──」

「そうですね。これから、ツィールくんと仲良くやっていけばいいんですよね」

 エルのその言葉に応えるように、右手の指輪がきらりと光った。



 康貴とエルがリビングでそんな会話をしていると、ガレージに車が入る音がして、少ししてからがちゃりという音と共に誰かが玄関から入ってくる気配がした。

「お、来たみたいだ」

「そうみたいですね」

 リビングに顔を出した人物に向かって、エルが元気に声をかける。

「お帰りなさい、カオリさん」

「ただいまー。二人とも元気だった?」

「ああ、僕たちは変わりないよ、お袋」

 リビングに現れた人物。それは康貴の母親である赤塚かおであった。

 父親であるゆうの赴任先に共に赴いている香里だが、本日はとある理由でこちらに戻って来たのだ。

「わざわざすみません、カオリさん」

「気にしなくてもいいわ。それより、『カオリさん』なんて他人行儀な呼び方じゃなくて、『おさん』って呼んでくれないかしら? 養子とはいえ、エルはもう私たちの娘なんだから」

 香里に真っ正面から娘であると言われたエルは、擽ったそうにはにかんだ。

「お、お……お義母……さん?」

「ええ。これからはそう呼んでね。もちろん、あいつも『おさん』って呼んでやると喜ぶと思うわ」

 エルに向かって嬉しそうにそう言っていた香里が、不意におや、という表情を浮かべた。

「あら? ねえ、エル? その耳は一体どうしたの?」

「あ、これですか? これはですね────」

 人間そっくりの耳になったエルを見つめる香里に、エルはその理由を説明する。

「…………へえ、幻の魔法ねえ。まさか、そんなファンタジーなものをこの目で見られるとは、少し前までは思いもしなかったわ」

「僕も同感だよ」

 エルから詳細を聞いた香里は、ぽかんとした表情を浮かべながら呟き、康貴もそれに同意する。

 そんな康貴に微笑んだ香里は、車のキーを指に引っ掻けてくるくると回すと、息子と娘を本日の目的へと促す。

「じゃあ、早速だけど行きましょうか。二人とももう出かけられるの?」

「ああ、問題ないよ」

「はい、私もばっちりですっ!!」

 康貴はリビングのソファに上に置いておいた愛用のボディバッグを身に着け、エルも最近購入した小さなリュック型のバッグを背負う。

 そして香里の後に続いて、香里の愛車であるブルーのスズキ・ソリオへと乗り込むのだった。



 香里が運転する車で康貴とエルが向かったのは、瀬戸大府線添いのとあるメーカーのスマートのショップだった。

 本日、香里が帰ってきたのも、エルが使用するスマートフォンを新規に契約するためだ。

 表向き未成年ということにしてあるエルは、保護者がいないと新たにスマートフォンの契約ができない。そのため、こうして香里が一時的に帰ってきたのである。

 車で移動すること十分ほど。康貴たちは一件のスマートフォンショップに到着した。

 明るい店内に入ると、エルはそのサファイアのような蒼い瞳をきらきらと輝かせた。

 十分な光度の照明、壁際に綺麗にディスプレイされた最新のスマートフォンの見本やアクセサリー類、まるで美術品のような美しい表紙のパンフレットなど。

 当然、エルが初めて目にするものばかりだ。

「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか?」

 カウンターの奥に座っていた女性店員が、入店してきた康貴たちを見て、輝くような笑顔を向ける。

 どうやら他に客はいないようで、香里とエルはすぐにカウンターの前の席へと案内された。

 今回の主役はあくまでもエルなので、香里とエルが商談をしている間、康貴は新しい携帯の機種を手にしたり、パンフレットに目を通したりしていた。

「そうですか。新規のご契約でございますか」

 嬉しそうな店員の声が、康貴の耳にも届く。

「失礼ですが、こちらのお嬢様は外国の方のようですが、日本語は大丈夫でしょうか?」

 ちょっと心配そうな表情を浮かべる店員。やはりユーザーが外国人となると、重要なお知らせのメールなどをきちんと理解してもらえるかなどの不安があるのだろう。

「ええ。読み書きはまだちょっと覚束ないけど、会話の方は問題ないわ。それに、何かあればあっちにいる息子が対応するだろうしね」

 香里は横目で康貴を見ながら、にこやかに店員に応じていく。

「それでは、どのような機種になさいますか?」

 店員がカウンターの上に、いくつかのデモ機を並べる。

 香里もエルにどれにするのか尋ねるが、どうもあれこれと目移りする──機種の違いがよく分かっていないだけかもしれない──ようで、エルはすんなりと機種を決めることができないようだ。

 その時、彼女の視界の隅に康貴が移り込む。

 何かを思いついたらしいエルは、にっこりと微笑みながら店員に向かってはっきりと告げた。

「できれば、ヤスタカさんと同じのがいいですっ!!」



 スマートフォンショップからの帰り道。

 康貴は車の後部座席で不貞腐れていた。

 そんな彼を、香里はバックミラー越しに見てにやにやとした笑みを浮かべる。

「いつまでそうやってむくれているつもり?」

「べ、別にむくれているわけじゃ……」

 そう。康貴は別にむくれているわけではなかった。

 スマートフォンショップでのエルの発言。それは聞きようによっては「康貴とお揃いがいい」とも取れるもので、それを店員や母親の前で言われたことが、何となく気恥ずかしかったのだ。

 しかも、ショップの女性店員までもが、「ええ、皆まで言わなくても分かっていますよ?」とでも言いたげな含みのある笑みを向けてくるし。

 だけどその反面、どこか嬉しかったのもまた事実で。

 それでもその嬉しさを素直に表に出すわけにもいかず、こうして不貞腐れている素振りをしているだけなのだ。

「うふふふ。若いわねぇ」

 息子の胸中をしっかりと見抜いている母親は、楽しそうに息子の様子を眺めていた。

 そんな康貴の横では、エルが買ったばかりのスマートフォンの入った紙袋を、実に嬉しそうに眺めている。

「帰ったら、エルにスマホの使い方を教えてあげないさいよ?」

「分かっているって」

 康貴とて、自分のスマートフォンの機能を全て使いこなせているわけではない。今日日のスマートフォンは多機能過ぎて、その全てを使いこなせている者はほとんどいないだろう。

 だが、エルには康貴が日常的に使っている部分だけで充分だろう。もしも彼女がそれ以上を求めるようになれば、その時は二人一緒に勉強していけばいい。

 自分と同じ機種──色違いではあるが──のスマートフォンを取り出して嬉しそうにしているエルを、康貴は横目で見ながらそんなことを考えていた。



 家に帰ると、香里はすぐに父親の赴任先へと戻って行った。

 家事全般が全く駄目な祐二である。今から帰らなければ、夕食の準備が間に合わないのだそうだ。

 口ではぶつぶつと文句を言いつつも、どこか楽しそうな香里。そんな母親を見て康貴は、相変わらず仲がいいなぁと胸中だけで呟いた。

 母親が帰り、いつものように二人だけになった赤塚家のリビング。

 そのリビングで、エルはにこにこと笑いながら康貴の手元に集中していた。

「ここを押していると電源が入り、もう一度押せば電源がオフになる。分かったか?」

「はい、ヤスタカさん。大丈夫ですっ!!」

 基本的な操作方法を説明する康貴の話を聞きながら、康貴が操作するスマートフォンと自分の手元のスマートフォンを何度も見比べつつ、エルはふんふんと何度も頷いた。

「────とまあ、基本的な操作はこんなところかな? じゃあ実践として、試しに僕のスマホに電話してみてくれ」

「はい、分かりましたっ!!」

 エルは自分のスマートフォンを指先で操作しつつ、先程聞いた説明を思い出しながら、登録した電話帳から康貴の名前を呼び出す。

 ちなみに、まだまだ漢字が苦手なエルの電話帳は、全て平仮名で登録してあった。

 耳に当てたスマートフォンに、エルはじっと集中する。

 やがて呼び出し音がなり始めると、僅かなタイムラグの後に康貴のスマートフォンが軽やかな音楽を奏で始めた。

 康貴は笑顔で通話をオンにすると、目の前にいる相手に電話越しに話しかける。

「よし。無事に電話できたな」

「はいっ!!」

 嬉しそうに頷くエル。

 その後、ソファに腰を落ち着けた彼女は、興味津々で買ったばかりのスマートフォンをあれこれと弄りだし始めた。

 そんなエルを視界の隅に収めつつ、康貴はお茶でも淹れようとキッチンへと向かう。

 その時。

「ぴあああああああああああああああっ!?」

 突然、エルが素っ頓狂な叫び声を上げた。

「どうした、エルっ!?」

 驚いた康貴が、慌ててエルへと駆け寄る。

 康貴へと振り返ったエルは、なぜか真っ赤な顔でふるふると震えながらスマートフォンの画面を康貴へと向けた。

「あ、あれこれといろいろ弄っていたら……と、突然、裸の女の人が現れて……っ!!」

 康貴が画面を覗き込めば、そこには確かにあられもない姿の綺麗なお姉さんの写真が写っていた。

 どうやら適当に弄っているうちに、アダルトサイトではないもののヌード画像などを集めた掲示板に繋がってしまったらしい。

「どうやったら、適当に弄っていてこんなサイトに繋がるかなっ!?」

「す、すっごく、びっくりしましたぁ……」

「僕だってびっくりだよ」

 がっくりと肩を落とした康貴は、エルにスマートフォンを扱う際の注意点を、更にこと細かに伝えていくのだった。


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