閑話 立ち話ですよ

 名鉄日進駅の駅前で別れを告げた二人が、肩を並べて遠ざかって行く。

 その様子を、あおいは複雑そうな表情を浮かべてじっと眺めていた。

 と、不意に彼女の横に立っていた隆が、決してあおいの方を振り向くことなく口を開いた。

「…………告白するなら今のうちだと思うぜ?」

 はっとした表情を浮かべて、あおいは一瞬だけ隆の顔を見上げた。だが、彼の視線が自分を向いていないことに気づいて、再び遠ざかる少年の背中を眺める。

「…………ほっといてよ……」

 そう呟いたあおいの声は、僅かな震えを含んでいた。



 幼い頃より、あおいがずっと想いを寄せている少年。今まで、その少年に一番近い位置にいる異性は自分だった。

 いや、これからもずっとそうだと思っていた。思い込んでいた。

 今、自分の隣に立っている隆などは、その高い身長と整った容貌で、黙ってさえいれば自然と異性の視線を引き寄せるタイプだが、その少年は決して異性の注意を引くようなタイプではないのだから。

 いつか告白しよう。そう思ったことは何度もある。

 少年から告白してくれるかもしれない。そう夢見たことは何度あっただろう。

 今の「幼馴染み」であり、親しい「友人」というポジションに、自分が甘んじていたという実感はある。

 しかし、あおいにはそのポジションから一歩前に出ることがどうしてもできなかった。

 勇気を振り絞って一歩前に出たとして。その少年に告白したとして。

 だけど、少年が自分の想いに応えてくれなかったら。

 その時は気不味さから、今のポジションさえも失ってしまうかもしれない。

 それがあおいには恐かったのだ。

「本当にいいのか? あおいもあの二人の距離が日に日に縮まっているのは気づいているだろ? このままだと手遅れになっちまうぜ?」

「あ、あの二人の仲がいいのは当然じゃない? だって、近々あの二人は義兄妹きょうだいになるんだし。義兄妹になれば……」

「甘いな」

 自分の考えを否定され、あおいは怒りを秘めた視線を隆へと向けた。

 だが隆は相変わらずあおいの方を見ようともせず、ただ淡々と事実だけを述べる。

「養子縁組って奴は、養子に入る方と迎えた方の合意があれば、いつでも解消できるんだ。たとえあの二人が義兄妹になったとしても、いつでも他人に戻ることができるってわけだ」

 他人になればこの国の戸籍を手に入れたあの少女は、正式に誰かと結婚することも不可能ではない、と隆は続けた。

「そ、そういう隆はどうなのっ!? あののこと……どう思っているわけっ!?」

「俺か? 俺にとって彼女がマーベラスな存在なのは間違いないな。異世界から来た異種族の女の子。そんな存在、ファンタジーマニアの俺にしてみればマーベラスと言うしかないだろ? だけど、俺は彼女には恋愛感情はないよ。もちろん、好きか嫌いかと言われれば好きだし、何か困ったことがあれば力になってやりたい。でも、それはあくまでも友達として、だ」

 隆の言いたいことはあおいにも理解できる。

 あおい自身、彼女のことは既に親友と呼んでもいいとさえ思っているのだ。もしも彼女に困ったことが起これば、その時は力が及ぶ限り彼女の力になってあげたいと思う。

 その気持ちに、偽りはない。



 二人の背中が見えなくなっても、あおいと隆はまだその場に留まっていた。

 二人の視線は決して交わることなく、ただ言葉だけが交わされる。

「あいつは本当に真っ直ぐで真面目な奴だよな。そりゃあもう、馬鹿がつくぐらいに」

 改めて言われなくても、あおいもそんなことは承知している。

「小学生の頃から、俺はあいつが宿題や提出物を忘れたのを殆ど見たことがない。まあ、あいつだって人間だから、時々ポカやらかすことは当然あるけど。あいつは昔から夏休みの宿題なんて、七月の内にほぼ終わらせちまうんだから信じられないよな」

「ええ……あんたもあたしも……よくお世話になったわよね」

 小学生の頃から夏休み最後の週になると、必ず誰かの家に集まって彼が終わらせている宿題を大急ぎで写したものだ。

 そんな懐かしい光景を思い出し、あおいは小さく微笑んだ。

「そんなあいつだから、だろうな。いきなり現れた異世界の女の子なんて、面倒なものに関わって笑っていられるのは。なあ、あおい。もしも……彼女が出現した場所がおまえの家だったとしたら……おまえならどうしていた?」

 あおいは隆の言葉に改めて考えさせられる。

 もしも、彼女が現れた場所が、あの少年の家ではなく自分の家であったら。自分は一体どういう行動を取っただろう。

「…………そうね。あたしの家はあいつの家とは違って両親も祖父母も兄貴もいるから……まずは両親か祖父母に知らせて、その後は両親たちの決定に従うわ」

 所詮は高校生という社会的に不安定な立場しかないあおいには、そうすることしかできない。

 もちろん、彼女のことを悪く扱うような両親たちではない思っているからこそ、という面もある。

「そうだよな。俺だって似たようなものだと思う。ただの高校生でしかない俺たちに、人一人の人生を左右するようなことを背負い込むことなんてできないよな。捨て犬や捨て猫を拾ってくるのとは訳が違うから。でも、あいつは違った」

 ある日突然、自分の家に出現した一人の少女を、いとも容易く背負い込んでしまった。そんなこと、隆やあおいではとてもできないことだ。

「俺の父さんの悪巧みや、あいつの親父さんやお袋さんの尽力もあって彼女の生活の基盤はほぼ整った。でも……もしもそれが上手く行かなかったとしても、あいつは彼女を何とか守ろうとしただろう。それこそ家出でもなんでもして、彼女と一緒に逃げるぐらいはやっていたと思うぜ。ま、その時は俺も付き合っただろうけど」

 わざと最後をおちゃらけて隆が言う。

「馬鹿がつくぐらい真っ直ぐで、馬鹿がつくぐらい真面目で……そして、馬鹿がつくぐらい優しい奴だからな、あいつは」

 そんなことは、今更言われなくてもあおいには分かっている。分かり過ぎている。

 他ならぬ彼女自身が、彼のそんなところに惹かれたのだから。

「あいつのお袋さんが言っていたよな? 現れたのが可愛い女の子だから、あいつもほいほい助けたって。だけど、俺は違うと思う。きっとあいつのことだから、現れたのが男だろうが爺さんだろうが婆さんだろうが、きっと手を差し伸べていたんじゃないか? まあ、あいつだって底抜けの馬鹿じゃないから、ヤバそうな奴だったらさっさと家から追い出すか、それが無理なら警察に通報しただろうけど」

「…………うん。あたしもそう思うわ。だって……あいつはそういう奴だもの」

 世界は赤を通り越して群青になりつつある。その群青も、やがては黒へと変わっていくだろう。

 それでも、隆とあおいは動かなかった。

「……きっと……彼女もそんなあいつだからこそ、あそこまで信頼しているんだと思うんだ」

 隆は今日一日、あの二人の様子を見ていた。

 電車に乗り、大勢の人間で溢れる都市へ行き、たくさんの初めて見るもの、初めて食べるものを前にして、興味津々で目を輝かせていた彼女。

 だが。

「気づいていたか? 彼女、どんな時でも……それこそ、おまえと一緒に水着を選んでいる時以外は、必ずあいつの隣にいたことに」

 そのことには、あおいも気づいていた。

 電車に乗った時や食事の時の席など、彼女は常にあの少年の横に座った。

 百貨店の中や地下街を歩く時も、彼女はあの少年の横で肩を並べていた。

 彼女が何か疑問を感じれば、それを尋ねるのはまずあの少年だったし、エスカレーターのことを罠だと勘違いした時も、最初に引き止めたのもあの少年だった。

 彼女の視界の中には、いつもあの少年がいるに違いない。

「いくら彼女が冒険者だからって、見知らぬ世界……それこそ常識までもがまるで違う世界に来て不安を感じないわけがない。だから無意識の内に、彼女は最も信頼できると思う人間の傍にいるんだろうな」

 突然見知らぬ世界に飛ばされ、初めて出会った人間。しかもその人間は、自分のためにあれこれと骨を折ってくれて、しかも衣食住の世話までしてくれている。

 これだけのことをされては、彼女が彼を信頼するようになったのも自然な成り行きというものだ。実際、あの少年を頼らなければ、彼女はこちらの世界で行き倒れにでもなるしかなかったに違いない。

「だからかもな。彼女が一生懸命にこちらの世界になじもうとしているのは。彼女は少しでもあいつの役に立ちたくて……あいつの足枷にならないように、必死に努力しているのだと俺は思うよ」

 彼女がこちらの世界のあれこれを一生懸命学んでいるのも、熱心に日本語を修得しようとしているのも、全てはそのためだと隆は考えていた。

 もちろん、そうしないとこちらの世界で生きていくのに不便だという事実もある。だがそれ以上に、彼女は彼の横に並び立ち、胸を張って生きていくために努力を惜しまないのだろう。

「今、彼女のあいつに対する思いは、おそらく『恩義』や『感謝』だ。でも、その思いがいつ別の想いに変化したって不思議じゃないぜ? いや、もしかすると、もう変化しつつあるのかもしれない」

 彼女が少年に対するちょっとした仕草に。彼女が少年に向ける表情に。そんな兆候が現れていることはあおいも気づいている。だからこそ、あおいは彼女に対して複雑な思いを抱いているのだ。

「だから、行動に出るなら早い方がいいと思うぜ? 今ならまだ、幼馴染みとして歴史を積み上げてきたおまえの方が有利なんじゃないか? それに……あいつの女性の好みは、どっちかっていえばスレンダータイプよりはメリハリの効いたタイプの方みたいだし」

 隆はわざとにやけた表情を浮かべて、あおいの体の一点を見つめる。

 隆が自分の体のある場所を凝視していることに気づき、あおいは隆から二、三歩離れて両腕で胸を庇うように抱いた。

「ちょ、ちょっとっ!! ど、どこ見ているのよっ!?」

「いやー、それだけの胸部戦闘力があれば、あいつを悩殺するのも簡単なんじゃないかなー、と」

「黙れっ!! この変態っ!!………………で、でも、そ、それって本当なの?」

「ああ。間違いないな」

 あの少年だって年頃の健全な高校生男子である。時には隆も含めた男友達と共に、雑誌のグラビアなどを見て盛り上がることだってある。

 その時の様子からして、彼の好みは大人っぽくてスタイルのいいタイプのようだ。ただし、極端に大き過ぎる胸の持ち主は、逆に敬遠する傾向にあるようだが。

「……ねえ。一つ聞いてもいい?」

 あおいは隆の返事を待つこともなく、その先を続ける。

「もしかして……もしかしてよ? あたしがこれからあいつに対して積極的な行動に出たとして……隆はあたしを応援してくれる?」

 だがその質問に対する返事は、すぐには返って来なかった。

 いつまで経っても返って来ない返事に、あおいが焦れて隆を振り向いた時、ようやく隆は口を開いた。

 ただし、隆の顔は地面に向けられていて、その表情までは窺えなかったが。

「………………悪いが、おまえだけを応援するってわけにはいかない。この件に関して、俺は中立でいるつもりだよ」

「……どうしてよ?」

「おまえの気持ちだけを、一方的にあいつに押しつけたくないからさ。あいつにはあいつの想いがあるからな。それを押し殺してまでおまえと付き合え、とは言えないだろ?」

 隆はあの少年の気持ちが、徐々に異世界からやって来た彼女へと傾いていることに気づいていた。とはいえ、今はまだ彼自身も自分の想いに気づいていないようだが。

 だが、彼がそれを自覚するのは時間の問題だと考えている。

「俺にとって、あいつもおまえもどちらも大切な親友で幼馴染みだ。おまえたちの気持ちが通じ合っているのならともかく、どちらかだけに一方的に肩入れするつもりはないよ」

「そう……なら、どうして今日に限ってあたしを焚き付けるようなことを言うの?」

 相変わらず下を向いた隆の顔は、あおいからは見えない。だが、その肩が僅かに揺れたのは確かに見えた。

「…………それは……俺が卑怯者だからさ……」

「え? 今、何て言ったの?」

 小さな小さな隆の呟きは、車道を走る車の音にかき消され、あおいの耳には届かない。

「何でもない。さて、そろそろ俺も帰るわ。おまえの家はすぐそこだから、送らなくてもいいよな?」

 あおいに背中を向け、右手だけを上げて隆は別れを告げる。

 徐々に小さくなっていく隆の背中を見つめながら、あおいはこれからどうするか真剣に考えてみようと決意する。

「だけど、今はまず家に帰ってお風呂に入ろ。あれこれ考えるのはさっぱりした後でなくちゃね」

 あおいは踵を返し、駅前にある自宅のマンションへと向かう。

 兄の孝則が喫茶店の営業を終えて帰ってくれば、異世界から来た少女のことをあれこれ聞かれるのは間違いない。

 だから、兄が帰って来て煩くなる前に考えが纏まればいいと思いながら、あおいは横断歩道を渡って行った。

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