お出かけですか?
エルと萩野市長との面会からしばらく時間が流れて。
康貴たちが無事に二度目の定期試験を終わらせ、夏休みが目前まで迫ったある日のこと。
「あ、そうだ。今度の週末、買い物がしたいから付き合ってくれない? もちろん、エルも誘って」
いつもの三人で学校からの帰宅途中、突然あおいがそんなことを言い出した。
「買い物って……何を買うつもりなんだ?」
きっと自分と隆に荷物持ちでもさせるつもりだろうな、と康貴は当たりをつけながら問う。
「ほら、もうすぐ夏休みでしょ? だ・か・ら……水着でも新調しようかなって」
あおいは最後にぱちりと片目を閉じてみせる。
「ふーん……で、水着を買うとなると、やっぱりみよし市のあそこか?」
水着を買えそうな場所をいくつか思い出しながら、隆が確認する。近場限定で考えるならば、やはり以前にも行ったみよし市の郊外型大型スーパーが一番品揃えがいいだろう。
少し前に、赤池駅近くにも大型スーパーがオープンしたので、そちらに行くという選択もある。
だが、あおいは別のことを考えていたようだ。
「いいえ。どうせなら、名駅まで足を伸ばさない? エルにこの国の大都市ってやつを見せてあげたいし」
「名駅……名古屋の駅前までか?」
「そ。名駅前のセントラルタワーズの根元の百貨店で水着を買うつもりよ」
「ああ、あそこね。あそこなら確かに品揃えがいいからなぁ」
隆があおいの提案に相槌を打つ。
日本有数の大都市の一つである名古屋の玄関口に、堂々と店を構える有名百貨店と、地方の郊外型のスーパーでは当然品揃えが違う。どちらが豊富かなど語るまでもないだろう。
「うーん……エルの水着を買うのはいいけど、エルが安心して泳げる場所がないぞ?」
一般のプールや海では、どうしたってエルは目立つ。
康貴も最近知ったのだが、エルフという種族は一般的に人間よりも容姿が優れているらしい。
現にエルも超のつく美少女だと康貴も思う。いや、それは康貴だけではなく、百人の人間がいれば間違いなく九十人以上がそう判断するだろう。
そんなエルが水着姿でプールや海にいれば、どうしたって目立つに違いない。
それに加えて彼女の特徴的な耳である。最近では萩野市長がしかけた「エルフさん」のイメージ・キャラクターも順調に注目され始めていると聞いた。そんな中でエルがあの耳を堂々と晒せば、いつも以上に注目を集めるだろう。
「それはそうだけど……でも、買い物を楽しむだけでもいいじゃない? さっきも言ったけど、あの
エルがこちらの世界で知っているのは、康貴の家の近所を始めとしたごく限られた場所だけである。
最近では「エルフさん」のホームページ用の写真撮影で日進市のあちこちに出かけているが、それでも市内だけだ。
彼女の意志に添った形ではないとはいえ、こちらの世界に来たのだからもっと他の町も見せてあげたい。
その思いは康貴もあおいも、そして隆も一緒だった。
「そうだな。泳ぐ場所は後でまた考えるとして、今はエルに他の町や場所を見せてあげようか」
康貴のその言葉に、あおいと隆が笑顔で頷いた。
そして週末。
集合場所はあおいの自宅。彼女の家は日進駅にほど近いマンションなので、康貴たち三人が電車を利用して遊びに行く時は、彼女の家が集合場所となるのが通例だ。
康貴はエルと一緒に、のんびりと歩きながらあおいの家を目指す。
「こノみチ……ヤスタカさンが、あるばいとイくトキのみチですか?」
「うん、そう」
たどたどしいエルの日本語に、康貴は満足そうに微笑みながら頷いた。
今、二人は翻訳のイヤリングをしていない。
エルがこちらの世界に来て二ヶ月弱。最近ではエルもかなり日本語を話せるようになっていた。
もちろん、聞き取りもかなりできるようになっている。読みの方は平仮名と片仮名はともかく、さすがに漢字は小学校一年生レベルが精々だが。
苦手なのは書く方と日本語の音程の使い分け。日本語には同音の言葉で音の上下で全く別のものになるものが多々あるが、その使い分けがまだ難しいようだった。
隆やあおいから聞いた話によると、小説などに登場するエルフという種族は人間よりも筋力で劣る反面知力に優れているそうだ。エルがこの短期間にここまで日本語を修得できたのも、彼女個人の努力と資質もあるだろうが、やはり知力が人間よりも優れているからだと康貴は考えていた。
途中、あちこちに掲げられている看板の文字を読んだり、知らない漢字を教わったりしながら、エルと康貴はあおいの家を目指す。
今日のエルの格好は、黒地に白のロゴの入ったタンクトップと白の七分袖のドルマンカーディガンにダメージデニムのショートパンツ。そして頭にはいつものニット帽。
腰にはソフトケースに入れられたペットボトルがぶら下がっている。この中身は単なる飲料水ではなく、ミネラルウォーターの中に身を隠した
どうやらこの精霊、こちらの世界のミネラルウォーターが気に入ったようで、最近ではいつもその中に浸かっている。
それを聞いた隆などは、「贅沢な精霊だ」と苦笑を浮かべていたが。
康貴の方も黒いTシャツにデニムジーンズと背中にはボディバッグというラフな出で立ちで、隣を歩くエルと意外とマッチしていた。
やがて二人はあおいのマンションに到着する。
駅前のマンションの六階。そこにあおいとその家族の家がある。
そのマンションの一回はテナントになっており、そのテナントの一つが康貴のバイト先である「ある~む」という名前の喫茶店だ。
ちなみに、この喫茶店の経営者はあおいの兄である
祖父の実子であるあおいの父親は性格的に喫茶店のオーナーは向いていないという理由から、名古屋の小さなデザイン会社に勤務している。
康貴は慣れた様子でマンションのエントランスに入り、オートロックの扉の前であおいの部屋のナンバーをプッシュする。
〈はい……あら、康貴くんじゃない〉
「あ、小母さん。ご無沙汰してます」
呼び出しに出たのはあおいの母だ。どうやらモニターに映し出された映像を見て、康貴の姿を確認したらしい。
〈待っていてね、すぐに開けるから〉
ぷっという音と共に通信が途切れ、すぐにオートロックの扉が開く。
オートロックの内側に足を踏み入れ、エレベーターで六階を目指す。
そして六階に到着してからは、共用廊下を通って木村家の部屋の前まで進み、そこでインターフォンを押す。
〈はい、すぐに開け……ちょ、ちょっとっ!!〉
不意にあおいの母の声が乱れ、同時にどどどどどと何かが走る音がインターフォンから聞こえてくる。
そのことに康貴とエルが顔を見合わせて首を傾げていると、がちゃりと勢いよく玄関のドアが押し開けられた。
「うおおおおおおおおおおおっ!! ほ、本物の『エルフさん』が、今ボクの目の前にっ!!」
扉の向こうにいたのは、二十代後半の小太りの男性。その男性ははあはあと荒い鼻息と血走らせた目で、前の前にいたエルを上から下まで舐めるように見つめた。
「て、店長……どうしたんですか?」
そう。この男性こそが康貴のバイト先の店長にして、あおいの兄である孝則だった。
孝則は康貴の声などまるで聞こえていないようで、はあはあと荒い息のまま首にかけていた高級そうなカメラをすちゃっと構える。
「あ、あの……『エルフさん』……しゃ、写真撮ってもいいでプか?」
興奮のあまり言葉遣いがおかしくなっている孝則。そんな孝則を前にして、エルは思わず康貴の背後に避難した。
康貴の背後から顔だけ出し、完全に警戒した様子のエル。
そんなエルの様子にも拘わらず、孝則がカメラのシャッターを切ろうとした時。
背後から勢いのある蹴りが孝則の腰に叩き込まれた。
「何やっているのよ、この馬鹿兄貴はっ!? 見なさいっ!! 完全にエルが怯えているじゃないっ!!」
妹に蹴り飛ばされ、玄関で踞ったままぴくぴくと体を痙攣させる孝則。
「え、えっと……店長……? 大丈夫ですか……?」
「放っておけばいいわっ!! そのうちすぐに復活するでしょっ!? それよりも上がってよ」
最後は康貴とエルににこやかな笑みを見せ、あおいは彼らを家の中に招き入れた。
「いやぁ、さっきは本当にごめんね、康貴くんにエルさん。目の前に本物のエルフが現れてつい、取り乱しちゃったんだ」
妹の言葉通りすぐに起き上がった孝則は、木村家のリビングで改めて康貴とエルに詫びた。
「あたしも謝るわ。つい口が滑って、兄貴にエルのこと話しちゃったのよ。ごめんね」
それは先日のこと。
この町のホームページに「エルフさん」というキャラクターの写真が掲載されているという情報を掴んだ孝則は、早速その写真をパソコンで見て、一目で気に入ってしまった。
もともとエルフマニアであったこともあり、その後はネットの掲示板などで同好の士と共に盛り上がっていたのだが、「エルフさん」の写真に狂喜する兄の背中に妹がぼそっと呟いてしまったのだ。
「本物の方が写真よりも可愛いのに……」
と。
耳聡くそれを聞き取った孝則は、すぐに妹を尋問した。
最初はなんとか誤魔化そうとしたあおいだったが、エルフに関しては決して諦めるということを知らない兄の激しい追及に、とうとう観念したあおいは他言無用を条件にエルのことを説明した。
元より善人である兄のことは信頼していたので、康貴やエルには迷惑をかけないだろうと判断した上で、だ。
ついでに、彼女たちの両親にもエルのことは説明しておいた。
何かあった時に、大人の協力者は一人でも多い方がいいだろう。それに放っておいても、遠からず康貴の両親からエルを養女に迎えた話は出るだろうし。
無論、木村家の両親もエルの秘密は守りつつ、今後は協力することを約束してくれた。
「本当、うちの子供たちがあれこれと迷惑かけてごめんなさいね、エルちゃん」
孝則とあおいの母は、康貴とエルの前にお茶をお気ながらそう詫びた。
「あおいから聞いたわ。いろいろと大変だったでしょう? でも、これからは私たちも協力するから。何かあったら遠慮なく頼ってね? もちろん、康貴くんのところの養女になった以上、ご両親も助けてはくれるでしょうけど、ほら、今は少し遠くにいるから。私たちで良ければ何でも相談してね?」
「はイ。ありがとデす」
拙い日本語でエルがそう言って頭を下げると、あおいの母親はにっこりと笑った。
「まあ、随分と日本語が上手なのね! あおいから聞いたけど、ちょっと前までは全然日本語が喋れなかったんでしょう? 随分と頑張ったのね!」
「はイ。ヤスタカさん、アオイさん、タカシさん、いパい、にほンご、おシえテくれまシた」
「そう」
あおいの母親は、本当に嬉しそうに目を細めた。
そのまま木村家のリビングであれこれと話をしているうちに隆も到着し、メンバーが揃った康貴たちは名古屋へ向かうために木村家を出ようとした。
「ぼ、ボクは? ボクも一緒についていっちゃ駄目かい?」
相変わらずカメラを首からぶら下げた孝則が、にこやかに自分を指差しながらそう申し出る。
「兄貴は喫茶店があるでしょっ!? そもそも、今の時間はモーニングサービス中じゃなかった?」
店長がここにいてもいいのか、という妹の追及に、兄はビシッと右手の親指をおっ立てた。
「そんなもの、本物のエルフに会うために『臨時休業』の張り紙を出しておいたよっ!!」
「今すぐにそんな張り紙はひっぺがして、営業を開始しろっ!! でないと、お爺ちゃんに言いつけるわよっ!!」
妹の一喝に、兄は情けない悲鳴を上げながら家を飛び出した。
このマンションのオーナーであり、喫茶店の前の店長であるあおいの祖父は、引退後はあおいたちと同居している。
そして、大学を卒業してもまともな就職ができなかった孝則を、自分が引退した後の喫茶店の店長に据えたのだ。だが、彼が何か問題を起こせばいつでも孫を馘にして現役復帰するだろう。それぐらい今も元気なご老人なのである。
ちなみに、今は祖母と共に旅行中だったり。
情けなくも玄関から転がり出ていった孝則を、エルを含めた康貴たちは笑い声と共に見送っていた。
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