精霊ですか?
「……………………………………」
「……………………………………」
今、赤塚家のリビングには、なんとも気不味い沈黙がどーんと鎮座ましましていた。
半ばパニックに陥ったエルが、ばたばたと脱衣所を飛び出して行った後。
康貴の顔に貼り付いた「何か」は、脱衣所を飛び出して行ったエルの後を追うように、ぽよんぽよんとボールのように弾みながら浴室を出ていった。
明らかにエルの世界から、彼女と一緒に来たのだろう「何か」。自律的に行動していたところから生物だと思われるが、なんせファンタジーな世界から来たものだ。どんな不条理な存在なのか知れたものではない。
最悪、こちらの生態系に重大な影響を与える恐れだってある。
慌ててその「何か」を追いかけようとした康貴だったが、自分が素っ裸でいることを思い出して、急いで服を着てから浴室を後にする。
だが、康貴が廊下に出た時には、すでにその「何か」の姿は見当たらなかった。
それでも「何か」がエルの後を追って行ったような気がした康貴は、先ずはエルの元へ行ってみることにした。
足音から彼女が二階に行ったことは分かっていた。とすると、エルはおそらく自室にいるだろう。
あんなことの直後に、エルと顔を合わせることに抵抗がないと言えば嘘になるが、それでもあの「何か」を放置しておくわけにはいかない。
それに、エルならあれが何か知っている可能性だってある。
そう考えながら、二階に上がった康貴。その辺にあの「何か」がいるかもしれないと警戒しながら、恐る恐るエルの部屋の前までやって来た。
「…………エル……いるか? 僕だけど……少しいいかな……?」
「や……ヤスタカ……さん……?」
ノックしながら声をかけると、どこかくぐもった声が扉の向こうから聞こえた。
「いろいろと……そ、その、聞きたいことがあるから、話ができないか……な? さ、さっきのことなら気にしなくていいから……」
康貴が「さっきのこと」と口にした時、扉の向こうで何かが動く気配と小さな悲鳴のようなものがした。
どうやら、エルが先程の光景を思い出しているらしい。それが分かった康貴も、どうにも気不味くなってしまう。
「じゃ、じゃあ、リビングで待っているから……落ち着いたら来てくれないか……?」
「ひゃ、ひゃいっ!! す、少ししたら行きますので、ちょ、ちょっとだけ待っていてください……っ!!」
尚も部屋の中で何かが動いている気配を感じつつ、康貴は一旦リビングに戻った。
そこで待つことしばらく。顔を真っ赤にしたエルが、おずおずとリビングに入って来た。
そして、場面は冒頭へと繋がるのである。
正直、エルは自分がどうしてあんな行動を取ってしまったのか不思議だった。
食事用のテーブルの対面に座った康貴とエル。
実際に康貴を前にして、彼の顔を直視できないエルは必死にその原因を考えていた。
エルは冒険者である。これまで、男二人、女二人というメンバーで冒険を繰り返してきた。
男女二ずつという構成だが、別に男女間の恋愛的なものは一切なかったし、肉体的な交渉も何もなかった。もちろん、仲間として友情や連帯感は感じていたし、信頼もしていた。
そんな仲間たちと共に冒険を繰り返していると、時には一緒に野営をしたり、宿の大部屋で全員一緒に寝泊まりしたりすることもある。
そんな時、仲間の裸を見ることは結構あったのだ。
野営や大部屋で泊まる時など、誰もが着替えなどは仲間たちの前で行なう。そもそも野営などの時に、一人離れてこそこそ着替えるなど危険以外の何ものでもない。
当然、エルも仲間の男性たちの前で着替えをすることもあったし、時には皆で一緒に川などで水浴びをすることもあった。
無論、好き好んで自ら肌を晒す気など全くないが、冒険者ならば誰もがそんなもののはずである。
つまり、エルは男性の裸を見慣れているのだ。
それなのに、康貴の裸を見た途端、頭の中が真っ白になった。
どうしていいのか分からず、結果、悲鳴を上げながら逃走してしまった。逃走することしかできなかった。
康貴の顔に貼り付いていたものに心当たりがあり、それが決して危険なものではないということもあっただろう。
もしもあれが危険なものであれば、エルは間違いなく康貴を守るためにその場に留まり、最適な行動を取ったに違いない。
その程度の判断はできる自信がある。
では、なぜ、自分は思わず逃げ出してしまったのだろうか?
エルの思考はこうやって堂々巡りを繰り返していた。
この時、彼女は気がついていなかった。
自分がパニックになった理由が、「男性の裸を見た」からではなく「康貴の裸を見た」からだということに。
彼女がそれに気づくのは、もう少し経ってからのことであった。
どれぐらいそうして互いに黙っていただろうか。
いい加減何か言葉を交わさないと、と考えていた康貴がエルを見た時。
彼女の肩の上で、無色透明な何かがふよふよと蠢いていることにようやく気づいた。どうも無色透明だったため、今まで気づかなかったようだ。
思わずまじまじとエルの肩の上のそれを見つめる。
間違いない。あの時自分の顔に貼り付いた「何か」だ。
よくよく観察すると、大きさは大体握り拳ぐらい。若干潰れた涙滴型をしている。
それはファンタジーに興味のない康貴でも知っている──テレビのCMなどで何度も見かけたことがある──、某有名RPGの序盤の定番粘塊モンスターの色を、青から透明にしたような感じと言えば想像しやすいだろうか。違うとすればこちらの「何か」には、定番モンスターのように目や口などの造形がないところか。
「な、なあ、エル? その肩の奴……一体何なんだ?」
康貴に指差され、「何か」はそれに反応するようにふるふると震えた。
「え? あ、あれ? ぴーちょくん、いつの間に私の肩に?」
「ぴ、ぴーちょ……くん……?」
エルが自分の肩の前に掌を差し出すと、ぴーちょくんと呼ばれた不思議生命体は、ぴょんとその掌の上に飛び乗った。
「はい。この子は私が契約を交わした水の精霊のぴーちょくんです」
「水の……精霊……? い、生き物なのか……?」
「うーん……厳密に言えば、生き物ではありませんね。意志を持った水の塊……と言うのが一番正しい表現でしょうか」
エルの元いた世界では、どこにでも精霊の力が溢れていた。
有名な四大精霊──火・水・地・風の精霊以外にも、樹木の精霊や光や闇の精霊など、あらゆる所にあらゆる精霊の力が及んでいた。
そんな精霊の力を利用したものが、エルたち精霊使いの使う精霊魔法であった。
だが、精霊の力は全てが普遍的に及んでいるのではない。例えば、海の底では水の精霊の力は強くても、火の精霊や風の精霊の力はほとんど及ばない。洞窟の奥では地や闇の精霊の力は強くても、風の精霊の力はほとんど及ばない。砂漠では火と風の精霊の力は強くても、水と地の精霊の力はほとんど及ばない、など。
そのような特定の精霊の力が及ばないか、精霊の力が極めて弱い場所ではその精霊を源とする精霊魔法を使うことができない。
そのため、精霊使いは特定の精霊と契約を交わして、その精霊を連れ歩く。そうすれば、精霊の力の弱い場所でも、契約した精霊に関する精霊魔法が使えるのだ。
エルが契約した精霊は水の精霊だった。もっとも、今のエルの実力では一体の精霊と契約を交わすのが精々なのだが。
これが上級の精霊使いともなれば、五体、六体と契約を交わすことも可能なのだ。
そして、普段は肉体というものを持たない精霊は、精霊使いと契約を交わすと自分の元素を集めて仮初めの肉体を形作る。
今、エルがぴーちょくんと名付けた水の精霊も、水を集めて仮初めの体を作っているらしい。
「こちらの世界は私がいた世界に比べて精霊の力がほとんど働いていませんから、ぴーちょくんはもの凄く弱っていて……それで、水袋の中に綺麗な水と一緒に入れて力を回復させていたんです」
今日の昼間、康貴が学校に行っている間に水袋の水を新しいものと取り替えた後、そのまま洗面台に置き忘れていたらしい。
「そ、それで、その水の精霊……だっけか? 弱っていたそうだけど、もう大丈夫なのか?」
「はいっ!! 大きさは少し小さくなっちゃいましたけど、もう大丈夫みたいです。でも、こちらのスイドウから出る水はとても綺麗なので、もっと早く回復すると思ったのですけど……」
こくん、と首を傾げているエル。
水道から出る水は見た目こそは綺麗だが、あれで消毒用のカルキなどいろいろなものが溶け込んでいる。もちろん、体に害のないような量ではあるが、水の精霊とやらにはその辺が合わなかったのかもしれない。
そんなことを漠然と康貴が考えていると、エルがまたもやファンタジーなことを言い出した。
「これで、こちらの世界でも、水限定ですけど魔法が使えますよっ!!」
「ま、魔法……?」
「はいっ!! なんてったって、私は精霊使い……それも水使いですからねっ!!」
自慢気にそう宣言したエルは、水道からコップの中に水を入れ、テーブルの上に置いた。
「見ていてくださいね。いくよ? ぴーちょくん!」
エルの意志に応え、肩の上の水の精霊がぷるぷると震えた。
ぽこり、とコップの中の水が沸き立つと、水はそのままふわりと宙に浮かぶ。そしてそのまま水中の気泡のようにゆらゆらとゆっくり形を変えながら、エルと康貴の周りをふわふわと旋回する。
一塊だった水が幾つもの水滴に別れ、リビング中を漂う。その光景は、水を操るエルも含めてとても幻想的で。
康貴はそれに思わずぽーっと見蕩れてしまった。
やがて水は再び一つに集まると、ぽちゃんとコップの中へと戻る。
「ふぅ。やっぱり、こっちでは魔法の力が下がっちゃいますね。私の魔力も思った以上に消費しちゃいますし」
それは以前に予想した通りのことだった。こちらの世界には魔法の源となるマナがほとんどない。そのため、水の精霊の力も減衰しており、エルの魔法は総合的に威力が下がっていた。
だが、康貴はエルの言葉をほとんど聞いてはいなかった。
先程見た幻想的な光景。それが彼の脳裏に焼き付いて離れない。
蛍光灯の光を受けてきらきらと輝く無数の水滴。その水滴はそれを操る少女の姿を彩り、彼女をとても眩しく輝かせていて。
康貴は不審に思ったエルに肩を揺さぶれるまで、しばらくそのままぼーっとしていた。
萩野隆が日課のファンタジー系のネット小説を読み耽っていると、不意に部屋の外から妹の声がした。
「おーい、兄貴ー。お父さんが呼んでいるよー? 書斎に来いってさー」
「おーう。すぐ行くー」
時計で時間を確認してみると、時刻は午前0時を過ぎていた。夕食を摂り、風呂に入った後でしばらく中間試験の勉強をして、それにケリをつけたのが10時頃。
その後にいつものようにパソコンをネットに繋いで、大好きなファンタジー小説を読んでいる内に2時間が経過したようだ。
部屋から出ると、自分の部屋に入ろうとしていた妹の姿が見えた。
「おまえもそろそろ寝ろよ?」
「うん。もう寝るよ。おやすみー」
挨拶を交わして部屋へと入っていく妹を見送り、隆は父親の書斎へと向かう。
ここ最近、彼の父親は仕事がとても忙しいようで、通常の勤務時間以外にもあちこちで打ち合わせや会議、相談などを行ない、家に帰ってくるのは連日日付が変わってからばかりだ。
「どうやら、親父も今日は少し早く帰れたようだな」
午前0時過ぎのこの時間に隆を呼ぶということは、0時よりも前には帰宅していたのだろう。
隆と父親──いや、家族全員との仲は良好である。姉や妹との間で些細な喧嘩や言い合いは絶えないものの、隆は家族のことは大事に思っている。
連日忙しそうな父親が少しでも早く帰れたのは、父親の健康を考えれば喜ばしいことだった。
隆の家はかなり大きい。この日進市に昔から続く名家であり、資産家としても有名だ。
長い廊下をしばらく歩き、父親の書斎に到着する。
書斎の重厚なドアを軽くノックすると、すぐに中から父の声がした。
「隆ですか? 入りなさい」
父親の声に応え、隆は書斎のドアを開く。
左右の壁に大きな本棚の置かれた父親の書斎。本棚の中身は実に雑多で、仕事に関する専門書もあれば、なぜか漫画も混じっている。
部屋に入った隆に背中を向ける格好で、父親は書斎に置かれた机の上で、何やらパソコンを弄っているようだ。
「おかえり、父さん。それで何か用か?」
「ああ。以前におまえから頼まれたこのコインのことですが」
父親は肩越しに振り返ると、机の上に置かれていた見覚えのある数枚のコインを指差した。
康貴に──正確には康貴を通したエルに──頼まれて、父親に価値を調べてもらっていた異世界のコインだ。
「お? もしかして、価値が分かったのか?」
隆はエルのために少しでも高額であることを内心で期待した。
「いえ。結果を言えば、価値は分かりませんでした。ですが……このコイン。これは本来、この世界には存在しないもの……そうではありませんか、隆?」
父親が椅子を回転させ、体ごと息子の方を向く。
息子を見据える父親の視線は、家族に向ける暖かなものではなく、仕事相手に向けるような極めて鋭いもの。
日進市の現職市長である萩野幸一は、じっと息子を見つめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます