人間だけですか?
エルがこちらの世界に来てから一週間以上が過ぎた。
その数日で、エルもこちらの世界にかなり慣れてきたようだ、と康貴には思える。
ここ最近、エルが最も力を入れているのはやはり日本語の修得のようで、康貴も暇を見て単語などを教えてやったり、平仮名や片仮名を学習するための幼児向けの学習書を買ってやったりして、彼女の日本語修得に付き合っていた。
エルも写真やイラストを見ながら日本語を覚えるのは楽しいようで、これは何だ、あれは何だとしきりに康貴に質問を繰り返しては、康貴が発音した日本語を何度も真似ていた。
今もエルが、入浴しながら壁に貼った浴室用の平仮名ポスター──幼児向け学習書の付録──を見つつ、「あ」「い」「う」「え」「お」と発音の練習をしているのが聞こえてくる。
また、エルは風呂というものもいたく気に入ったらしく、日本語の練習も兼ねて毎日ゆっくりと風呂を楽しんでいるようだ。
聞こえてくるエルのたどたどしい日本語を微笑ましく思いながら、康貴はリビングで間近に迫った定期テストに向けた勉強をしていた。
やはり学生の本分は勉強である。隆やあおいたちと一緒の学校に通いたいがため、両親に無理を言ってこの町に残った以上、それなりの成績を出さなければ両親に対して申し開きもできない。
元々、康貴の成績は決して悪くはない。隆やあおいに比べるとどうしても下になってしまうが、それでも学年全体からみれば上の下から中の上といったところを常にキープできている。
それに、週末になればまた幼馴染みたちが勉強会と称してやって来る。確かに勉強もするが、きっとそれ以外でも盛り上がるに違いない。
また、最近はエルも夜中に例のフラッシュバックを起こしている様子もなく、よく眠れているようだ。
そんなことを勉強の合間に考えていると、風呂から上がったエルがバスタオルで濡れた髪を拭きつつリビングに入って来た。
「はぁ~いいお湯でした。やっぱりお風呂は気持ちいいです」
湯上がりのせいか、頬を紅潮させたままにこりと微笑むエル。機嫌がいいせいか、彼女の長い耳もぴこぴこと少し揺れている。
そんなエルを見て、康貴の心臓がどきりと一際強く鼓動した。
同じ年代──と思われる──の少女の湯上がり姿が、康貴の心を激しく揺さぶる。
濡れた髪から漂うシャンプーの匂い。
パステルイエローの寝間着越しに浮かぶのは、大きくはないものの柔らかそうな胸の双丘。
首もとや手足の先から覗く、上気してやや赤みを帯びた白い肌。
隆共々よく泊まることのあるあおいの湯上がり姿を、これまで何度も見てきた康貴だったが、エルの湯上がり姿はあおいとはどこか違っていた。
どこがどう、と尋ねられれば彼も返答に困るのだが、エルの場合は確かにあおいとは何かが違うのだ。
そういえば、数日ぐらい前に妙にエルの態度がよそよそしいことがあったな、と康貴は思い出す。
康貴が学校に行っている間に何かあったのか、何かの拍子に目合ったりするとエルは顔を真っ赤にしてあからさまに視線を逸らせたりしたのだ。
もっとも、そんなエルの様子も翌日には元に戻ったので、多分大したことではなかったのだろう、と康貴は思っていた。
「ん? どうかしましたか?」
「い、いや、何でもないよ、う、うん」
思わずエルに見蕩れていた康貴は、それを正直に言うわけにもいかずに必死にごまかした。
「そうですか? 何か顔が赤いようですが……あ! そうだ、ヤスタカさん! これ見てください!」
嬉しそうに言いながらエルが康貴に見せたのは、彼女が入浴中に日本語の勉強に使っている平仮名の浴室ポスターだった。
「もうこっちの言葉……ニホンゴの文字の読みはばっちりですっ!!」
えっへん、とばかりにエルが胸を張る。
そしてポスターに書かれている平仮名を一つずつ指差しながら、「あ」「い」「う」「え」「お」と五十音を順番に読み上げていく。
「おお、凄いじゃないか。一週間足らずで平仮名の読みをマスターしたのか。で? 書く方は?」
書く方と聞かれた途端、それまで誇らしげだったエルの表情が途端にしょんぼりしたものに変わる。
「え、えっと……か、書く方はまだちょっと苦手で……」
えへへとエルは照れ笑いを浮かべた。
そんなエルに苦笑を浮かべつつ、康貴は次のステップへと進めることにする。
「平仮名を読めるようになったなら、次は片仮名を覚えようか」
康貴はエルから平仮名の書かれたポスターを受け取ると、それをひっくり返してエルに手渡した。
浴室ポスターの裏には片仮名の五十音表も書かれてあり、それを見たエルが目をぱちくりとしている。
「あ、あの……これは何ですか? 確かに裏に表とよく似た文字が書かれているなーとは思っていたんですが……」
「だから、こっちは片仮名。表に書いてあったのは平仮名。どっちも日本語の文字だよ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ!! どうして一つの言語に二種類も文字があるんですかっ!?」
エルがこれまで学んだ言語は、一言語に一種類の文字しかなかった。
地球上に存在する言語も、その多くは一言語につき一種類の文字であり、複数の文字を用いる言語は意外と少ない。
「日本語は目的に合わせて文字を使い分けるんだ。平仮名と片仮名以外にも、漢字っていう最大の難関もあるしな」
日本語を学ぶ上で、誰もが最も涙するのは間違いなく漢字の学習だろう。
漢字の数は、義務教育で学ぶ常用漢字だけでも約2千字。JIS漢字は第四水準までで1万字以上。漢和辞典などに載っている漢字の総数ともなると、5万字を超えるとも言われている。
そんな漢字のいくつかを、康貴は思いつくままに先程まで勉強していた自分のノートの端に書いて見せた。
「な……なんかカクカクして複雑で変な形ですけど……これって本当に文字なんですか?」
「そうだよ。例えば……」
康貴はノートに書いた「人」という字を指差した。
「この一字で「ヒト」……つまり「人間」を表しているんだ。他にも……」
いくつかの漢字を指差しながら、康貴はそれぞれの読みと意味を教えていく。
「なるほどぉ。一文字一文字がそれぞれ意味を持っているんですね。ところで、この「人」って字が人間を表しているのなら、エルフは漢字でどう書くんですか?」
「いやいや。さすがにエルフって漢字は存在しないぞ」
「えええっ!? 人間を表す文字があるのに、どうしてエルフを表す文字はないんですかっ!?」
「いや、だって、こっちの世界にはエルフはいないから」
「え……? こっちの世界ってエルフはいないんですか……?」
思わずきょとんとした顔をするエル。
確かに今日まで、彼女もこちらの世界では人間以外の種族を見たことがなかった。
だけどそれは、この町の住人の大多数が人間であり、エルフやドワーフといった妖精種や獣人種などの亜人種の数が極めて少ないだけだと思っていたのだ。
エルのいた世界では、人間は最も数が多く繁栄している種族であり、ほとんどの町や村の住人は人間が一番多い。中にはエルフやドワーフだけの町や村も存在するが、それらの数は人間の町に比べて極めて少ない。
更には、人間の中には妖精種や亜人種を下等種として差別したり排斥したりする者もいて、そのような者たちだけが集まった集落もある。
「じゃ、じゃあ、ドワーフは? マーマンは? 私たちと敵対関係になりますけど、妖魔のゴブリンとかオーガとかは?」
「隆やあおいから少しは聞いていたけど、やっぱりエルの世界には多くの知的生物がいるんだな。でも、こっちの世界で知的生物といえば人間だけだよ」
「に、人間だけ……」
人間以外の種族が皆無な世界。
多種多様な種族が暮らす世界で育ったエルにしてみれば、それは想像したことさえないことだった。
こっちの世界には人間しかいないと知って、なぜかショックを受けたらしいエル。
とはいえ、それほど深刻なものでもないようなので、エルには冷たいお茶を一杯差し出した後、今度は康貴が風呂に入ることにした。
脱衣場に到着して、服を脱いでいく。
脱いだ服は洗濯機の中へ。最近はエルも洗濯機の使い方を覚えたので、洗濯は康貴が学校へ行っている間に彼女がやってくれる。
正直、康貴にはそれがありがたかった。
洗濯すれば、当然その次は洗濯物を干さなければならない。
洗濯物の中にはこれまた当然ながらエルの服もある。エルの服の中には下着だってあるのだ。
エルが初めて康貴の家に現れた翌日。康貴はエルが着ていた服や下着を洗って庭先に干した。
確かに同年代の少女の下着ということでちょっとどぎまぎとはしたが、それでも直接手に取って干すこともできた。
だが、あの時干した下着はエルの世界のものであり、下着と言えば当然こちらの世界の下着のイメージが強い康貴にしてみれば、エルが用いていた下着はあまり下着とは思えないようなデザインと手触りだった。そのため、割と冷静に干すことができたのだ。
だが。
だが、今は違う。
今、彼女が身に着けているのはこちらの世界の下着である。もちろん、それは康貴がよく知る──あくまでもテレビのCMやチラシ広告などで見ただけ──下着であり、実際にエルが一日身に着けていたものなのだ。
そんなもの、恥ずかしすぎて康貴が直接手に取れるわけがない。
よって、洗濯を干すのも取り込むのもエルの役目となったのは、自然な流れというものだろう。
洗濯物の中には康貴の下着なども含まれるが、康貴が異世界の下着をあまり下着と思えなかったように、エルには彼の下着が下着とは思えないのなのだろう。毎日きちんと洗濯して干し、取り込んだ後はきれいに畳んでくれる。
「最初にエルに洗濯機の使い方を教えて本当に良かった……」
つくづくそう思う康貴である。
着ていた服を全部脱ぎ、下着は専用のネットの中へ。
その際、先にネットに入っていたエルの下着が目に入り、思わず顔を赤らめる。
「……今度から、僕が先に風呂に入ろう……」
そんなことを呟きつつ、浴室の扉の取っ手に手をかける。
その時、浴室の横にある洗面台の上に、見慣れない物が置いてあることに気づいた。
「何だ、これは……?」
康貴はそれを手に取ってみる。
大きさは30センチほど。何かの革でできた筒のようなもので、
持ち上げた際に中からちゃぷんと水音がした。
よく見れば上部は細くなっていて、革紐で縛られている。
康貴は知らないことだが、それは水袋と呼ばれる道具であり、エルの世界で用いられる水筒であった。
日本や中国などのアジア圏には古来より竹という天然の水筒があったため、水袋というものに馴染みがないが、こちらの世界でも竹が自生しないヨーロッパなどでは実際に水筒として用いられていた道具である。
エルの世界で一般的な水袋は、ある種の魔獣や動物の膀胱を革で補強して作られる。もともと膀胱は液体を貯めておくための臓器なので、水袋には最も向いているのだ。もちろん、水袋として加工する際に、膀胱はきれいに洗浄してから用いる。だが、安物や不良品を掴まされると、その水袋から異臭がする場合もあるそうだ。
そんな水袋の革紐を、好奇心を刺激された康貴は解いてみた。
そして中を覗いた途端、水袋から何かが飛び出してべしゃりと顔に貼り付き、思わず康貴は悲鳴を上げた。
リビングで新たな課題となった片仮名を眺めていたエルは、突然聞こえた康貴の悲鳴にリビングを飛び出した。
悲鳴が聞こえてきたのは浴室の方。エルは全力で廊下を駆け抜け迷わず脱衣場へと飛び込む。
「どうしたんですかっ!? 何があっ…………た……ん……?」
脱衣場へと踏み込んだエルが見たもの。それは顔に透明な液体のようなものを貼り付け、床に倒れている康貴の姿だった。
全裸で。
「え……あ……う……おぉ……?」
康貴のあられもない姿を見て、エルの顔が一瞬で赤く染まる。
そして。
「きゃああああああああああああああああああっ!!」
何かいろいろと限界に達したエルは先程の康貴以上の悲鳴を上げ、どたばたと脱衣場を飛び出して行った。
走り去るエルを黙って見送りながらも、康貴にはどうすることもできなくて。
そんな康貴の顔の上で、透明な液体がぷるぷると揺れていた。
顔と言わず胸元まで真っ赤にしたエルは、脱衣場から飛び出してそのまま自室へと飛び込み、ぼすんとベッドへとダイブして頭から布団を被る。
「み、みみみ見ちゃった……ヤスタカさんの……見ちゃった……」
暗い布団の中、いつまでも真っ赤な顔のままで、呪文のようにぶつぶつと呟くエルフさんの姿があった。
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