学校ですか?
翌朝。
眠そうな顔の康貴と、元気一杯な様子のエル。
見た目正反対の二人は、リビングで朝食を摂っていた。
康貴は和食派なので、朝食のメニューはごはんと味噌汁を中心に、焼き鮭と海苔、他にスライスしたハムなど。
当然ながら箸が使えないエルは、スプーンとフォークで器用に焼き鮭の身を解しながら、にこにこと美味しそうに食べている。
あおいたちが泊まった昨日の朝も似たようなメニュー──康貴とあおいの合作──だったが、エルは日本食を結構気に入っているようだった。
「そう言えばヤスタカさん。今日は朝からどこかへ行くって言っていましたよね? どこへ行くんですか?」
「ああ、学校だよ。あおいと隆も同じ学校で、ついでに同じクラスだ」
「ガッコウ……?」
フォークを口元に当てたまま、こくんと不思議そうに首を傾げるエル。
どうやらエルのいた世界には「学校」というものはないらしい。
「この国では、7歳から15歳までの子供は学校に通って、学問を学ばなくちゃいけないんだよ。義務教育と言って、国がそうするように決めているんだ」
「な、7歳から15歳までっ!? 国中の全ての子供が学問を学ぶんですかっ!?」
エルのいた世界、それも庶民の間では、7歳といえばもう立派な労働力である。特に都市部から離れた農村などでは、もっと小さい頃から親の仕事を手伝うのが普通である。
更に、人間は国によって差はあるものの大体15歳ほどで成人とされ、結婚さえ許される年齢なのである。
エルのいた世界の人間とて学問を学ぶ者はいるが、大抵それは貴族などの金持ちの特権である。なぜなら、学問を学ぶためには家庭教師を雇わなくてはならないからだ。
商人などの一部の職種では算術や文字の読み書きが必須ではあるが、それらは仕事を覚えながら同時に覚えていく。
「あれ? でもヤスタカさんはもう16歳だって言っていませんでしたか?」
「ああ。僕は4月生まれだから。もう16歳になっているけど?」
「ガッコウとかに行くのは15歳までなんですよね? だったら、どうして16歳になったヤスタカさんが行くんですか?」
「僕が行くのは高校……高等学校っていう学校なんだよ。15歳まで通う小学校と中学校は確かに義務教育だけど、高校以上は自由意志なんだ。とはいえ、今の日本で高校に行かない人間はほとんどいないだろうけどね」
「へえー……」
ぽかんとした表情でヤスタカを見るエル。
国が定めたこととはいえ9年もの間学校へ通い、更に別の学校にまで通うとは。
康貴は自分を庶民だと言うが、幼い頃からそんなにも長い間学問を学んでいるということは、もしかすると彼は将来国政に関わるような重要な職に就くことを定められた人間なのかもしれない。
エルはそんなことを考えながら、朝食を食べ終えて学校へ行く準備をする康貴を、どこか憧れを秘めた視線でぼーっと眺めていた。
「じゃあ、行ってくるよ」
「はい。行ってらっしゃい」
何となく新婚家庭を彷彿とさせるやり取りを交わす康貴とエル。
「お昼ご飯はサインドイッチを用意しておいたから、お腹が空いたら食べて。後、この家の鍵も一つ渡しておくから。近所なら少しぐらい出歩いてもいいけど、耳だけは隠しておくんだぞ?」
「分かっています。大丈夫ですよ」
この家の近所は昔からの知り合いばかりだ。
エルのことは、ホームステイしている親の知り合いの外国人とでも言っておけば、この近所ならば問題ないだろう。
だが、お巡りさんに職務質問でもされるとさすがに拙い。何せ今のエルには身分を証明するものが何もないのだから。
康貴はそれらの細々とした注意をエルに与えると、耳から翻訳のイヤリングを外してエルに渡した。さすがに学校にイヤリングをして行くわけにはいかない。
「じゃあ、行ってくる」
「ヒィムドラ・イーサ」
もう一度同じ挨拶を交わし、笑顔で手を振るエルに康貴は背中を向けた。
玄関を抜け、庭の片隅を通って門を開けて外へ出る。
思いついて家を振り返れば、まだエルが手を振っていた。それに応えるように手を振り返した康貴は、彼が通う高校を目指して欠伸を一つ零しながらゆっくりと歩き出した。
いつもとそう変わらない時間に教室に入る康貴。
クラスメイトたちと挨拶を交わしながら自分の席に着くと、早速あおいと隆が近づいて来た。
「おはようさん、康貴。土日は世話になっちまったな」
「康貴、おはよう。それでエルは元気にしている?」
「おはよう、隆、あおい。土日のことなら気にしなくてもいいぞ。僕も楽しかったし、エルも楽しそうだったから。それからエルも元気は元気なんだが……」
言葉を濁す康貴に、あおいと隆は訝しげな表情を浮かべた。
「……まさか……エルに何かあったの?」
本当ならばエル『と』何かあったのかと聞きたいあおいだが、そこは努めてエル『に』と尋ねる。
「実は……」
康貴は夜中のエルの様子を二人に語った。
「そう……そんなことがあったの……」
本音を言えば、夜中に密着していたという二人に心穏やかならぬものがあるが、エルの心境も理解できるので怒るわけにもいかない。
隆もまた、痛ましそうな表情を浮かべて康貴の話を聞いていた。
「だからさ、また週末は家に来てくれないか? 二人が泊まりに来て昨日や一昨日みたいにわいわいとやれば、エルも恐い記憶を思い出すこともないと思うんだ」
「そうだな。それにエルちゃんは本物の冒険者だしな。俺たちみたいなごく普通の高校生とは違って、余程精神的に強いだろうし。皆で騒げばそのうち立ち直るだろう」
「そうね。あたしもそれに賛成。週末はまたお邪魔させてもらうわ」
頼みを快諾してくれた幼馴染みたちに、康貴は改めて礼を言う。
それから、康貴はポケットからとあるものを取り出し、机の上に広げた。
「これって……もしかして、エルちゃんが持っていた銀貨と銅貨か?」
それは隆の言う通り、康貴がエルから預かってきた数枚の銀貨と銅貨だった。
「実はエルに頼まれてさ。エルが異世界から持ってきた銀貨と銅貨を、こっちのお金に換金したいそうなんだ。でも、僕じゃどこでどう換金すればいいか分からなくて。だから隆、おまえの親父さんに聞いてみてくれないか?」
「俺の親父にか? 確かに親父なら顔が広いから、古銭を扱っている人の一人や二人、知ってもおかしくはないな」
現状、何から何まで康貴に頼っているエルの立場からすれば、少しでもこちらの世界で使える金銭が手元にあるというのは、それだけでも心強いことだろう。
もしかすると、この異世界のコインに思わぬ高値が付くという可能性もある。
「分かった。出所は上手くぼかして、親父に聞いてみるわ。それに俺の親父自身が西洋アンティークを集めているからな。もしかすると親父が買い取るって言い出すかもしれないし」
「ああ、頼む。一応ネットでざっと調べてみたけど、さすがに異世界の銀貨や銅貨の価値は分からなかったんだ」
「そりゃそうよ。でも、貨幣としての価値はなくても銀や銅としての価値ならあるかもしれないから、最悪の場合はそっちで売却するって手もあるわね」
隆は康貴からコインを受け取ると、ハンカチに包んで慎重にポケットに収めた。
だが。
この数枚のコインが、康貴たちとエルの行く末を大きな影響を与えることになるのだが、神ならぬ彼らは知るよしもなかった。
康貴が用意しておいたくれたハムサンドを食べ終えたエルは、康貴の家の周りを散歩してみることにした。
康貴も家の近所なら少しぐらい出歩いてもいいと言ってくれたし、何より今日は天気がいい。
陽気もぽかぽかと暖かく、家の前の道路の向こうに広がる「田圃」とかいう浅い沼を渡る風が涼しくて実に気持ちがいい。
例の耳覆い付きのニット帽を頭に被り、玄関にあったサンダルをつっかけてエルは外へ出た。
言われたように玄関に鍵をかけ、門を押し開けて外へ出る。
赤塚家の前には細い車道が通っており、時折自動車も行き来している。
目の前を比較的ゆっくり走り去る自動車に興味深げな視線を送りながら、エルは車道に添ってのんびりと歩き出した。
「こちらの世界へ来た時から薄々と感じていたけど、このニホンって国は凄く裕福なんだなぁ」
周囲を見回しながら、誰に言うでもなく呟く。
道路は全て綺麗に舗装されているし、ゴミもほとんど見当たらない。
エルが拠点にしていたプリウスの町は大きな町ではあったが、大通りの片隅に生ゴミが打ち捨ててあったり、薄暗い路地の奥に行くと町中に棲む小動物の糞や死骸、人糞でさえ平気で転がっていた。
更には、路地や通りの片隅には職にあぶれた浮浪者が無気力に座り込んでいたものだが、この町ではそんな光景にお目にかかることもない。
エルの世界では、貧しさから奴隷に売られる子供なんていくらでもいたが、この国では人身売買は禁止されていると聞いた。それどころか国中の子供全員に教育を施しているそうだし、その費用も一部の実費を除けば無料に近い。
中でも一番驚いたのは、たとえ職がなくてどんなに貧しくても、最低限の生活を国が保障してくれるというのだ。
よほど裕福な国でなければ、いや、どれだけ裕福な国でも、ここまで庶民のために金を使うことはない。それが常識であるエルからしてみれば、何から何まで信じられないことばかりである。
田圃の間を走る農道をゆっくりと歩くエルを、農作業をしている農家の人たちが物珍しそうに見つめるが、声をかけるようなことはなかった。
見かけは外国人である彼女。言葉が通じるかどうかも分からないのに、あえて声をかけるような日本人はあまりいないだろう。
田圃脇を流れる用水路を泳ぐオタマジャクシや、畦に咲くタンポポなど、エルは初めて見る動植物に目をきらきらさせながらそれらを観察する。
物珍しいものに対する好奇心や探求心は、冒険者の原動力の一つなのだ。
「考えてみれば、異世界なんて来ようと思っても来られない所だよね」
異世界に来たということで、不安は確かにある。
故郷に帰る方法は不明だし、言葉だって不自由だ。だが、それと同じかそれ以上に、この異世界に対する興味もある。
彼女がそうやって少しは前向きに考えられるようになったのは、もちろん康貴たちのお陰だろう。特に康貴は、見ず知らずの上にまともな金銭を持たない自分を、無償で自分の家に住まわせて食事や衣服まで世話してくれる。
「いつかは、ヤスタカさんにお礼しないと」
そう思いながら、エルは自分が彼のために何ができるだろうと考える。
食事の準備や掃除などは、自分にも手伝うことができるだろう。
料理に関してはこちらの食材は見たこともないものばかりだが、調理方法さえ教えてもらえば何とかなるに違いない。
特に洗濯にはちょっと自信がある。彼女は精霊使いの中でも特に水の精霊と親和性の高い「水使い」と呼ばれる存在なのだ。そのため、水を使うことに関しては康貴の力となれるだろう。それに幸いにもこの国は水が豊富にあるようだし。
周囲に広がる田圃に水が張られているのを見ながら、エルはそう考えた。
だが、気になることもある。
こちらの世界は、エルにしてみれば信じられないくらいマナが
彼女たち「魔法使い」が魔法を使用する際、その代償となるマナ。エルのいた世界ではどこにでも満ちているそれが、こちらではほとんど感じられない。
まだ試したことはないが、こちらの世界ではほとんど魔法は使えないだろう。使えたとしても、威力は大きく減衰し、持続時間も半減以下になるに違いない。
更には、こちらの世界には精霊の力がまるで感じられない。こちらの世界には精霊そのものが存在しない可能性もある。
「精霊が存在しないとなると、精霊使いの私には魔法は無理と思った方がいいかもしれないなぁ……」
では、魔法以外のことで康貴のためにできることはと言えば。
首を傾げながら歩きつつ、あれこれと考える。
考えられることといえば、やはり生活面での労働力の提供だ。どこかで働こうかとも考えたが、言葉が不自由な今は無理だろう。
となると、やはり体を使った奉仕しかエルには思いつかない。
と、そこでふと彼女の歩みが止まった。
「か、体を……使う……?」
思わず彼女が想像してしまったのは、もちろん「夜の肉体奉仕」であった。
康貴も16歳の健康な男性なのだ。そういう欲求は当然あるだろう。なんせ16歳といえば、エルの世界では普通に結婚していて、中には既に子供だっている年齢なのだから。
「ち、ちちちち違う違うっ!! ヤスタカさんはそういうことを強要したりは……」
確かに康貴はエルに「夜の肉体奉仕」を強引に求めたり強要したりはしないだろう。もしも彼にその気があれば、昨夜一緒に寝た時にことに及んでいるに違いない。
「……で、でも……そういうことを求められたら……」
もしも康貴が、エルに真剣にそれを求めたならば。
その時、自分は彼を受け入れるのか、それとも拒絶するのか。
エルは自分のことながら、それをはっきりと判断することができなかった。
一方。
農道で突然足を止め、真っ赤になって頭をぶんぶんと振る外国人の少女を、農作業をしていた人たちが不思議そうに眺めていた。
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