ようやくですか?

 康貴が目を開くと、外はもう明るかった。

 慌てて壁時計で時間を確認する。現在時刻は7時48分。学校の始業が8時30分。康貴の家から学校まで徒歩で30分ほどなので、時間的猶予は10分前後しかない。

「やばい……あ、あれ……?」

 立ち上がり、今、自分がいるのがベッドのある自室ではなく、リビングであることに違和感を覚える。

 だが今は、そんなことよりも急いで学校へ行く準備をしなければ。残された時間は僅かなのだから。

 そう思い、いつもの習慣でテレビをつける。起きてから学校へ行くまでの間、朝の準備の傍ら情報番組を見つつ、画面に映し出される時報で時間を確認するのが彼の習慣だった。

 だけど。

「あれ……? あ、そうか。今日は土曜日……」

 いつもと朝の情報番組が違うことで、今日の曜日を思い出した。

 学校は休みだったと安堵した康貴は、そのままソファに腰を下ろした。どうやら、昨夜はこのソファで眠ってしまったらしい。

「でも……僕はどうしてここで寝ていたんだ? 服もバイトへ行く時に着替えた服のままだし……」

 昨日は学校が終わってから一度帰宅し、私服に着替えてからバイト先の喫茶店にでかけたのだ。

「そして、バイトから帰ってきてから……あっ!!」

 康貴は思い出した。夕べ何があったのかを。

 バイトから帰ると、なぜか自宅のリビングで宇宙人の少女が倒れていたのだ。

 その後、目覚めた宇宙人の少女であるエルとあれこれあり、そして────

 最後に桃源郷を垣間見たような気がするが、どうにもそこだけ記憶があやふやだ。

「そ、そうだっ!! え、エルっ!? どこだっ!?」

 宇宙人の少女の姿を探してリビングを見回してみる。

 だが、探し求める姿はない。

「…………まさか……夢……?」

 自分以外には誰もいないリビングに、自分の声が虚しく響く。

「そ、そうだよな……自分の家にいきなり宇宙人が現れるなんて、夢に決まっているよな。は、ははは。きっと、学校やバイトで疲れて、リビングで知らないうちに寝ちゃったんだ」

 誰に言うでもなく──いや、まるで自分に言い聞かせるかのように一人呟く。

 体のどこかに穴が開いたような奇妙な感覚を振り払うべく、康貴は風呂へと向かった。どうやら夕べは風呂へも入らずに寝てしまったらしく、体のあちこちがどうにも気持ち悪い気がする。

 鼻歌交じりに廊下を歩き、浴室の扉を開ける。

「え?」

「あれ?」

 浴室──厳密に言えばその手前の脱衣場──には、長く尖った耳を持つ肌色の生物がいた。



 浴室に甲高い悲鳴が轟いたしばし後。

 借りたジャージを着て顔を真っ赤にしたエルと、同じく顔を真っ赤にした康貴はリビングに戻っていた。

 なぜか、エルは両手で自分の体を抱き締めるようにしていたが。

 そのことに気づいた康貴。意図せずとはいえ裸を見てしまい、気不味くて何を話したらいいか分からなかった康貴は、丁度いい話題だとばかりに尋ねてみた。

 後で、やぶ蛇だったと後悔するのだが。

「……ど、どうして、自分の体を押さえるようにしているんだ?」

「あ、あの……ヤスタカさんからお借りしたこの服なんですが……そ、その……下はいいのですが、上が……」

 顔を赤くしたエルは、視線を康貴に向けたり逸らしたりしている。

「……絞め紐もボタンもないから、前が開いたままになっちゃって……それでどうしたものかと思ったのですが……ゆ、夕べはヤスタカさんが起きそうもなかったので、このまま手で押さえていたのですけど……そのうち朝になって……ヤスタカさんが起きるまでは本来の自分の服を着ていようかな、と……」

 どうやらエルは、ジャージのファスナーの閉め方が分からなかったらしい。

「……それで、脱衣所で着替えていたのか……」

「……はいぃ……」

 裸を見てしまった方も、見られた方も、それぞれがまた思い出して更に顔を赤くする。

「と、とりあえず、他の服探してくる……っ!!」

 ばたばたと慌ただしくリビングを出ていく康貴。

 そんな康貴の背中を見送り、エルは相変わらず赤い顔のまま少しだけ微笑んだ。



 庭にある物干し台に洗濯物を干しながら、康貴はエルのことを考えた。

 彼女は康貴と一緒に庭に出て、あちこちを珍しそうに見物している。時折背伸びして塀の向こうを覗いたりして、へーとかほーとか可愛い声を上げていた。

 そんな彼女は今、上は康貴のトレーナーで、下は中学時代のジャージというちょっとアンバランスな姿だった。

「エルの服、どうにかしないとな……」

 いつまでも彼女に、康貴の服を着させておくわけにもいかない。いや、男物の少し大き目の服を、だぶだぶと着ているエルの姿は確かにある種の可愛いさがある。

 だが。

 問題はその内側だった。

 康貴は干そうとして手にした洗濯物を見て、またもや顔を赤くする。

 その洗濯物は、小さくて白くてあまり触れたことのない手触りのもので。

「い、いかんっ!! 平常心、平常心! これはただの洗濯物。ただの洗濯物なんだ! 決してエルの下着じゃないぞ。ないったらないんだ!」

 昨日着ていたエルの下着がここにあるということは、エルが今着ているあの服の下は何も着ていないというわけで。

 塀の表面を這っていたカタツムリを、興味深そうに指で突いているエル。そんな彼女をいつの間にかじっと凝視していた康貴は、慌ててその視線を逸らした。

 もちろん、顔は更に赤くなっている。

「……とりあえず、洗濯物を干し終わったらあいつに応援を頼もう」

 康貴はポケットの中にスマートフォンが入っているのを確かめながら、無心で洗濯物を干していった。



 一通のメールが来た途端、その人物は自室へ駆け込むと、先日購入したばかりのブラックのロゴ入り長袖Tシャツの上からオフホワイトのドルマンカーディガンを羽織り、アンダーはダメージデニムのショートパンツに白黒ボーダーのサイハイソックスに素早く着替え、玄関で活動的なパープルのスニーカーを履いて家を飛び出した。

 目的地までは遠くない。歩いて15分か20分の距離を一気に自転車で駆け抜ける。

 そして、目的地の少し手前まで来たところで急停止。持参した小さなバッグの中から手鏡を取り出すと、髪型などに異常がないか手早くチェック。

 少し乱れた前髪を手櫛で整えて、自転車からも降りて服の乱れもささっと直す。

 そして息を整え、平然とした雰囲気を作り出すと、残りの道のりを自転車を押してゆっくりと歩き出した。

 目的地に到達すると、慣れた様子でガレージの片隅に自転車を停める。この場所には小さな頃から何度も来ているのだ。ここに自転車を置くのも、今回が初めてではない。

 勝手知ったる何とやらで、鼻歌交じりに門を押し開けて玄関を目指す。

 その途中。

 庭の方から話し声が聞こえた。聞こえた声は二種類。その片方はよく知っている。この家に住む幼馴染みだ。

 だが、問題はもう一方だった。聞こえてきたその声は、明らかに年若い女性のもの。しかもどうやら日本語ではないようだ。その割には、その二種類の声は明らかに会話をしているのだが。

 慌てて庭に回り込む。するとそこに、よく知る人物とまったく知らない人物がいた。

「ゲラァ ディボルケ ティック テア イムルゥハァベル ゲイラリィ ディルラァネェン」

「え? だから昨日も言ったけど、ウチは貴族なんかじゃないって。家だって大きくないし、それに貴族なら使用人とかもいるものだろ?」

「ゲィル ケア ディティラ バァグラン」

「え? ここは別邸? だから使用人もいない? いや、だからそれ違うから」

 二人はリビングから庭へと続く窓を開け放した所に隣り合って腰を下ろし、楽しそうに会話している。

「や、康貴ぁっ!! そ、その子、一体誰よっ!?」

 楽しそうな二人の様子に、思わず声を荒げてしまった。

 突然声をかけられ、二人は驚いた顔で振り向く。

「よ、あおい。早かったな」

「ボゥルゥ シィルゥ?」

 親しげに手を上げて挨拶する康貴と、その隣で不思議そうに首を傾げる見知らぬ少女。

 その少女が十分に美少女と呼べるような容姿をしていることが、その人物──むらあおいの心をざわりと波立たせた。



 場所を家の中のリビングに移した康貴たち。エルとあおいの中間的存在の康貴が、二人に相手のことを説明していく。

「じゃあ、紹介する。こいつは木村あおいといって、僕の幼馴染み。これで結構口は固い方だがら、エルのことであれこれと相談に乗ってもらおうと思ったんだ」

 三人はリビングのソファに腰を下ろしている。

 康貴の隣にあおい。そして、二人の対面にエルといった位置取り。康貴は隣に座るあおいを指し示しながら、エルに彼女のことを紹介した。

「で、あおい。彼女はエル……本当はもっと長い名前らしいけど、長いからエルでいいそうだ」

 康貴からエルを紹介されたあおいは、訝しげな視線で彼女を見た。

 ほっそりとしてすらりとした体付きで、肌は日本人にはあり得ない白さであり、淡い金色オフゴールドの髪も、脱色や染めているものとは違う自然な輝きを放っている。

 頭は小さく手足が長いそのプロポーションは、これまた根本的に日本人とは別物なのだろう。

 身長は161センチの自分よりやや低く、胸周りと腰周りの豊かさは自分に分がありそうだ。

 そして何より、上へと長く伸びた先の尖った耳。それはまるで、彼女の兄やもう一人の幼馴染みがこよなく愛する、ファンタジー系の漫画や小説に登場するエルフのようだった。

(ってか、見た目はエルフそのものじゃない)

 あおいは肩口で切り揃えた少し癖のある、明るい茶色の髪を無意識に弄りながら、エルの外見をしげしげと眺めた。

「で? 彼女は一体何者なの? どうしてこの家にいるの?」

 自分でも言い方に棘があるな、と感じつつ、あおいは最も尋ねたいことを康貴に聞いてみた。

「エルのことなんだけど……そのことについて、あおいに協力して欲しくて来てもらったんだ」

「ちょ、ちょっと、どういう意味なの?」

 あおいが康貴の家を訪れたのは、彼から届いた一通のメールだった。

〈話したいことがある。家まで来て欲しい。かなり真剣な問題で〉

 たったそれだけの簡素なメールだったが、最後に添えられていた「真剣な問題」という一文が、思わずあおいを舞い上がらせた。

 思わず新品の服に着替え、慌てて自転車を飛ばすこと数分。自転車のペダルを漕いでいる間、ある種の期待がなかったと言えば嘘になる。

 だが、康貴の用件とはあおいが期待していたようなものではないらしい。

 そんな不満と見慣れぬ少女に対する警戒心が、あおいの言葉使いに表れていた。

「実はエルなんだけど……宇宙人らしいんだ」

「はぁっ!?」

 頭大丈夫? と言わんばかりの表情を康貴に向けるあおい。

 康貴もあおいの表情を見ながら無理ないよなと思いつつ、夕べあったことを話していった。

 あおいも康貴が性の悪い冗談や嘘をいう人間ではないことはよく知っているので、彼のする話は真剣に聞く。

 だが、聞いているうちに、あおいの表情は段々と唖然としたものになっていった。

「ちょ、ちょっと待ってっ!!」

 康貴の話が、エルがザフィーラ星系のエルフ星からきたエルフ星人だというくだりに差しかかった時、あおいは思わず彼の話を遮ってしまった。

「確認するわよ、康貴。彼女……エルさんはレクサス王国って国の中に存在するジムニシエラ大樹海出身のエルフで、プリウスって町の冒険者ギルドに所属する冒険者……そう言ったのね?」

「あ、ああ。うん、確かにそう言ったはず。ちょっと確認してみる」

 そう言った康貴は、エルと何やら話し出す。エルの話す言葉はあおいには分からないが、それでも康貴が尋ねていることから大体の予想はつく。

「……それで間違いないってさ」

「そう……やっぱりね。ねえ、康貴。あなた、今の話を聞いて、どうしてエルさんが宇宙人だって思ったの?」

「え? だって漫画とか映画でよくあるだろ? 宇宙人が何らかの理由で地球に不時着するって話。それにエルの耳が尖っていたから、てっきり宇宙人だと思ったんだけど?」

「あなたって……ウチの兄貴やたかしが好きな漫画や小説って読んだことなかったっけ?」

たかのりさんや隆が好きなのって言ったらファンタジーだろ? 僕、ファンタジーはどうも受け付けなくて。漫画はSFかスポーツものしか読まないの知っているだろ?」

 あおいは片手を額に当て、そうだったわねと言いながら溜め息を吐いた。

 だが、あおいは姿勢を改めると、ぴっと人差し指を立てながら自分の考えを告げる。

「これは私の推測だけど……多分、間違っていないと思う。エルさんは宇宙から来たエルフ星人っていう宇宙人なんかじゃないわ。彼女が来たのは宇宙じゃなくて異世界……異世界から来たエルフって種族なのよ」

「い、異世界……? エルフ……?」

 こうして。

 エルフに関する知識のあるあおいの参入により、ようやく真相が明らかになりつつあった。


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