お約束ですか?

 突如、部屋の中にぼぉんという音が連続して響き、エルがびっくりして飛び上がった。

「な、何ごとですかっ!? ま、まさか魔獣か何かの襲撃の警報……っ!?」

「な、何って……ただの時計の音だけど……?」

 康貴が壁にかけられている電波式の壁時計を指差す。

 彼がこの家に帰ってきたのが七時頃だったのに、いつの間にか時計は八時を差していた。

「ありゃ、もうこんな時間か。そろそろ風呂入って宿題やらないと……あ、そうだ。エルも風呂入るよな? 何だったら、先に入るか?」

「え? フ……ロ……ですか?」

 きょとんとした顔で、エルは首を傾げた。

「あれ? ひょっとして、エルの星では風呂なんてものはないのか? もしかして、風呂は原始的な骨董品のような扱いかなのかな? まあ、風呂っていうのは、体を清めたり、一日の疲れを取るためのものだよ」

「体を清める……」

 言われて、エルは今日一日のできごとを思い出す。

 朝早くから迷宮に潜り、そこから出たのは夕方の少し前。

 あの迷宮の中は近くに水脈でもあるのか、妙に湿気が多かった。当然地下にある迷宮の中に風など吹かず、迷宮の中にいる間中は、未知の環境ということもあって緊張でじっとりと汗ばんだまま。

 下級とはいえ、迷宮の中に棲息する魔物とも実際に戦ったし、迷宮の外に出たらそのまま野営地まで歩き通した。

 途中で水浴びできるような手頃な水場もなく、汗を流す機会に恵まれなかったのだ。

 そして、例の襲撃である。森の中を全力で走り抜けたので、当然それなりの汗をかいた。今ではすっかり汗も乾いているものの、それでもやはり体中がべたべたするし、少し臭う気もする。

「はい! 体が清められるのは嬉しいです!」

 体を清められるということは、水浴びをさせてもらえるということだろう。そう判断したエルは、にこやかに康貴に答えた。

「じゃあ、すぐに準備するから。少し待っていて」

 そう言い置いて、康貴はリビングから浴室へと向かう。

 今年の正月過ぎに給湯器が壊れ、新しくしたばかりの給湯器は、ほんの十分ほどで風呂桶に湯を満たしてくれる。

 ぴっぴっぴっと手慣れた手順で給湯のスイッチを押せば、後は一定量の湯が溜まると給湯も自動で止まる優れ物。以前の給湯器は、設定した湯量に達するとアラームで知らせるだけで浴室まで行って湯を止めないといけなかったが、今度の給湯器は随分と便利だ。

 設定を終え、湯が出始めたのを確信した康貴は、脱衣所に置いてある洗濯機を見てあることを思いついた。

「そうだ……着替え、どうするかな……?」

 服の方は、中学の時の学校指定のジャージがまだ残っているので、その上下を貸せばいいだろう。サイズは少し大きいだろうが、着れないことはないはずだ。

 問題は下着である。

「お袋の下着を貸すってわけにもいかないし……ひょっとして、着替えを持っているかもしれない……か?」

 発見した時には荷物らしい荷物は持っていなかったエルだが、なんせ相手は宇宙人のエルフ星人である。物体を小さくするとか、別空間に収納しているとか、そんな技術もあるかもしれない。

「……最悪、一晩だけは下着なしでも我慢してもらうとして……そうすると、新しく買わないといけないな……」

 まさか、男の自分が女性物の下着を買いに行くわけにはいかない。かと言って、宇宙人であるエルを一人で買い物に行かせるなんて以ての外だろう。第一、どこに何が売っているのかも知らないなずだ。

「……事情を説明してあいつに協力してもらうか」

 康貴の脳裏に浮かんだのは、幼馴染みの少女である。彼女ならば、事情をしっかりと話せばエルのことも納得し、彼女が宇宙人であることも無駄に言いふらしたりはしないだろう。

 さて、何と言ってエルのことをあいつに説明しよう。康貴は幼馴染みの少女のことを考えながら、脱衣場を後にした。



 リビングに戻る前に、康貴は二階にある自室に行き、そこでエルの着替え用のジャージを箪笥から取り出し、それを持ってリビングに戻った。

 リビングに戻ると、不安そうなエルの顔に明らかな安堵が浮かぶ。どうやら見知らぬ場所で一人でいることが心細かったようだ。

「ごめん。エルの着替えを探していて時間がかかったんだ」

「着替えですか。それは助かります」

 迷宮までの旅に備えて、彼女も数着の着替えは準備してあったが、それらは全て襲撃された時に野営地に置いてきてしまった。

 今、彼女の持ち物といえば、着ている明るい草色の衣服とその上に纏っている白く染めた柔らかい革鎧ソフトレザー。それ以外には、財布代わりの小袋の中にある十数枚の銀貨と銅貨、逃げる時にも腰に下げていた水袋に護身用兼日用品の小さなナイフぐらいだ。

 エルは康貴から渡された衣服を手に取る。初めて触れる手触りの服に内心で首を傾げていると、突然リビングにリズミカルなメロディと女性の声が響いた。

〈お風呂が沸きました。お風呂に入れます〉

「えっ!? だ、誰ですかっ!?」

 エルは慌てて周囲を見回すが、当然女性の──いや、人の気配などない。

 ひょっとすると、この家に仕える侍女が扉の向こうで控えていて声をかけてきたのだろうか。

 だが、それにしては女性の声は扉の向こうからではなく、直接この部屋の中に響いたような気がする。

 戸惑っているエルに、康貴は何でもないとばかりに平然と告げた。

「ああ、これは給湯器の音声案内。いや、最近の給湯器は本当に便利だよなぁ」

「お、オンセイアンナイ……?」

 聞き慣れない言葉に首を傾げるエルを、康貴は浴室へと案内する。

 リビングから廊下へ。そして廊下の奥にある浴室まで。康貴はエルを連れて行く。

 こう見えて、康貴は几帳面でしっかり者である。無駄な電気は点けない主義なので、廊下に出た時そこは真っ暗だった。

 暗視能力を持つエルは真っ暗でも全く支障ないのだが、それを知らない康貴は廊下に出てすぐにスイッチを押して、廊下の電気を点灯した。

 途端、光に包まれる廊下。それを見て、またもやエルが驚きの声を上げた。

「え、ええええええっ!? い、一瞬で光を……っ!? や、ヤスタカさんって魔術師……それも高位の魔術師だったんですかっ!?」

 呪文を唱えるでもなく、何らかの魔法具マジックアイテムを使った素振りもなく。康貴は一瞬で光を灯したのだ。これはエルの常識からすれば、高位の魔術師以外には不可能なことである。

 しかし、それも康貴からしてみれば何でもないこと。

「僕が魔術師? ははは、僕は手品なんてできないよ?」

 『魔術師』イコール『魔法を使う者』ではなく、『魔術師』イコール『手品師』。それが康貴の認識だった。

 びっくりした表情を浮かべたままのエルに背中を向け、康貴は彼女を浴室まで案内する。

「ここが浴室と脱衣所ね。脱いだ服はこの洗濯機の中に入れておいてくれれば、明日の朝に他の服と一緒に洗濯するから」

 康貴は洗濯機を指差しながら説明すると、浴室のドアを開けてその中をエルに見せた。

 途端、浴室の中から溢れ出る湯気に、エルがまたもやびっくりする。

「お、お湯っ!? こ、これ、全部お湯なんですかっ!?」

 エルの常識では、大量の湯を用意することは決して簡単なことではない。

 湯を沸かすといえば、竃で鍋などで沸かすのが一般的であり、一度に沸かせる湯の量はどうしたって限られる。

 その湯をこれだけの量──湯船一杯──を、しかも僅かな時間で用意するとは。彼女からしてみれば到底信じられない。やはり、康貴は歳こそ若いが極めて高位の魔術師に違いない。

 だが、康貴からしてみれば、どうしてエルがこれほどまでに驚いているのかが、逆に分からない。そのことに内心で首を傾げつつも、風呂の設備を説明してやる。

「湯が熱かったら蛇口を捻って水を足して。逆にぬるいと感じたらこれで温度を上げて」

 康貴が指差したのは、浴室に取り付けられている操作パネルだ。その中の湯温上昇を示す矢印を示しながら説明する。

「じゃあ、ゆっくり入っていいからね」

 そう言って、康貴は脱衣場から出ていった。



 一人脱衣場に残されたエルは、戸惑いながら辺りを見回す。そして、先程は気づかなかったが、背後に大きな鏡があることにようやく気づいた。

「か、鏡……? そ、それもこんなに大きくて歪みなく映る綺麗な鏡があるなんて……先程の紅茶といい、砂糖といい、そしてこの鏡にお湯が一杯入った桶……やっぱりヤスタカさんは貴族なんだ。それでいて高位の魔術師でもある……ということは、もしかしてこの国の宮廷魔術師なのかも……」

 エルの感覚では、湯を浴びたり湯につかるのは貴族だけである。

 先程も言ったように大量の湯を準備することは、それだけ時間と人手を要する。そんなことができるのは、庶民でも余程の大金持ちか貴族だけに限られるからだ。

 庶民が体を清める際は、濡らした手拭で体を拭くか、川や池などで水を浴びるのが常識である。

 そしてこの大きくて写りのいい鏡もまた、エルにしてみれば見たこともないものであった。

 エルの感覚で鏡といえば、鉄板や銅板を磨いて写りがよくしたものである。そのため、大きな鏡などは庶民では手に入れられない。大きな鏡ほど、磨くのが大変だし映像に歪みや曇りなども出やすいからだ。

 庶民が手にする鏡は手鏡のサイズがせいぜいであり、それでもかなりの値段となる。

 当然、ガラス製の鏡など存在しない。というより、ガラス自体が存在しない。

 彼女がガラス製の砂糖ポットや窓ガラスを水晶だと思ったのも、それが理由であった。

 ただ、康貴が高位の魔術師であり貴族だとすると、家の中に使用人が全くいないのが気にかかるが、おそらくここは彼の本宅ではなく、別邸か魔術の研究専用の屋敷ではなかろうか。

 高位の魔術師の研究室ともなると、貴重な魔術の素材や危険な触媒などがあるのが通常であり、素人が下手に触れると危険である。そのため魔術の心得のない使用人は、あえて置いていないのだろう、というのがエルの予測だった。

「えへへ。折角の機会だからお湯を浴びちゃおう。うわー、お湯を浴びるなんて生まれて初めてだなぁ」

 彼女もいろいろと不安を感じている。見知らぬ異国に飛ばされ、果たして故郷に帰れるのか。突然殺されてしまった仲間のことも、思い出すだけで涙が溢れそうになる。

 でも。

 今は。今だけは。

 庶民ならば一生の内で一度あるかないかという機会。ほんの一時でも不安を忘れようと、エルはゆっくりと服を脱いでいった。



 康貴は自室から通学用の鞄を持ってリビングへと降りてきた。

 いつもならば、宿題は自室でやる康孝である。それをわざわざリビングまで鞄を持ってきたのは、エルが風呂から出てここに戻ってきた時、自分がいないと先ほどのように不安がるのではないかと思ったからだ。

 鞄から教科書やノートを引っ張りだし、食事用のテーブルに拡げる。

 そしてまずは数学から片付けよう、と愛用のシャーペンを握り締めた時、ふと彼の体が凍りついたように動かなくなった。

「……い、今……え、エルが風呂に入って……いるんだよな……」

 耳が長くて尖っているなど、見た目は少し変わっているものの、彼女がとても可愛い少女であることは間違いない。

 しかも、自分とはおそらく同じぐらいの年齢。宇宙人の寿命がどれくらいあるのかは定かではないが、見た目から自分とはそれほど変わらないだろう。

 そんな少女が今、自分の家の風呂場で裸でいる。

 その事実は、高校一年生の青少年にとってとても刺激の強いものだった。

 思わずエルの裸体を想像してしまい、康貴は真っ赤になってぶんぶんと頭を振る。

「い、いかん! いかんぞっ!! ぼ、僕はそんなつもりで彼女を助けたわけじゃ……」

 康貴は頭の中の妄想を追い出そうと、ノートの上の数式に集中する。そうしていつもの倍以上の集中力で宿題に取り組んでいると、突然リビングのドアが開かれた。

「あれ? もう上がったの……って、うぎゃわあああああああっ!!」

 リビングに飛び込んで来た肌色の物体が、そちらへと振り向いた康貴目がけて猛然と突っ込んで来る。

「や、やややややややややヤスタカさんっ!! だ、誰もいないのに、ま、また……お、おおおおおお女の人の声が突然聞こえてきて……っ!!」

 肌色の物体──エルは、椅子に座ったまま振り向いた康貴の頭をぎゅっと胸に抱え込んだ。

 今、康貴の目の前──まさに目の前──には、物凄く柔らかくて物凄くいい匂いのするものが二つもあり、それがぎゅうぎゅうと自分の顔に押しつけられている。

 確かに、その大きさはそれほどではない。それでも、目の前でちらちらと揺れる桜色の小さな果実は、紛れもなく本物の「アレ」であり。

 康貴だって健全な青少年である。今までに雑誌やDVD、ネットなどで女性の「コレ」を見たことはある。だが、本物の「コレ」を見たのは初めてだった。

 完全にパニックに陥っているエルは、抱え込んだ康貴の頭を放す様子もなく。

 やがて、柔らかなモノに口を鼻を塞がれたことで、康貴の意識が段々と遠のいていく。

「や、ヤスタカさんっ!? 聞いてますか……って、あれ……?」

 とうとう、抱え込んだ康貴の体から力が抜けてぐったりとしてしまった。この時点になって、エルは自分がどんな格好で康貴を抱き締めていたのかにようやく思い至った。

「きゃ……きゃああああああああああああああああああああああああっ!!」

 ようやく解放された康貴。彼はその時点で完全に気を失っていたが、その顔はどこか至福を含んだものだった。

 ちなみに、エルの言う「誰もいないのに聞こえた女の人の声」とは、彼女が風呂の中で体を伸ばした際、操作パネルに誤って触れたために流れた「設定温度が変更されました」という音声案内だった。

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