何者ですか?
「お疲れ様でしたー」
「はいよー。康貴くん、お疲れー」
太めの体格ながら愛想の良い店長とにこやかに挨拶を交わすと同時に、店の出入り口の扉をぐいと押す。頭上でからんころんとカウベルが心地よい音を奏で、
季節は五月中旬。ゴールデンウィークも過ぎ、一年で最も過ごしやすい季節の一つである。
それでも午後七時を過ぎれば、辺りは既に真っ暗だった。街灯に照らされた通い慣れた道を通り、康貴はのんびりと家までの道のりを歩く。
夕食はバイト先の喫茶店で、まかないのものを食べたので必要ない。
家に帰ってからすることと言えば、学校で出された宿題と風呂に入ることぐらいだけ。
しかも、この春から両親が揃って仕事の関係で県外に赴任したこともあり、家に帰っても誰もいないので慌てる必要もない。
夜風に吹かれながら、康貴はゆっくりと見慣れた風景の中を歩く。
ここは愛知県日進市。
都会というよりはよほど田舎に近い町。
田舎というほど田舎ではなく、都会というほど都会ではない町。
日本有数の都市の一つである名古屋市から電車で約30分という土地であり、ここ数年でかなり発展してきた町である。
それでも自然はあちこちにたくさん残っているし、田圃や畑もあちこちに見受けられる。
町の中心部である日進駅前から、徒歩で十分から十五分ほど。そこに、少し前まで家族と暮らしていた康貴の家はある。
この家を建てたのは彼の祖父らしい。古い家ではあるが内側はしっかりとリフォームがされており、住み心地は悪くない、と康貴は思っている。
「ただいまー」
返事をする者はいないと知りながらも、長年の習慣で家に帰ると思わずそう言ってしまう康貴。
古いけれど広さだけは十分にある彼の家。少し前までは家に帰れば電気は灯っており、家の奥からは母親の返事もあった。
だけど、今は家に帰れば当然真っ暗。そのことを少し寂しく思いつつも、康貴は玄関にしっかりと施錠するとリビングを目指す。
たとえ真っ暗とはいえ、長年住み慣れた家の中。迷うことなく家に入るとまずは廊下の電気を点灯する。
一瞬で闇が駆逐され、少し黄色のかかった暖かみのある光が家の廊下を照らし出す。
リビングにはすぐに到着する。広いとはいえ、あくまでも一般の住宅の規模に入る家なのだ。リビングに到着するまで一分以上もかかるような大邸宅ではないので、当たり前と言えば当たり前である。
そしてリビングのドアを開けて、ドアの横にある電灯のスイッチを押す。
リビングの中に
「…………………………………………え?」
その白い光に照らされたリビングの中で、康貴は見慣れないものを発見した。
リビング自体はいつもの通りである。
中央にソファセット。窓際には少し大き目のテレビが置かれており、その向こうには庭が見渡せる全面ガラス張りの大きなの窓。ここから庭に出ることも可能で、以前は母親がよくここを通って庭の物干し台に洗濯物を干していたものだ。
リビングの奥には対面式のキッチン。それに合わせるように食事用のテーブルと椅子が四脚。他にはキャビネットや戸棚などが置かれており、取り立てて変わったものなどはないありふれたリビング。
──のはずだった。
「…………………………………………ええ?」
康貴は、もう一度リビングの中を確認する。
──うん、間違いない。ここは僕の家のリビングだ。
心の中で呟きながら、もう一度それをじっと見つめる。
リビングの中は、バイトに出かける数時間前とは明らかに違っている。
いや、違っているものが一つだけ存在した。
「…………………………………………えええ?」
電灯の光を反射してきらきらと輝く淡い金色の長い髪。
見慣れない素材とデザインの服。なんとなく、幼馴染みにして親友がよく読んでいる漫画に出てきそうな服だった。
見た目の年齢は十五歳ぐらいだろうか。高校一年の自分と同じか、少し下といったところだろう。
すらりとした白い手足。肉付きはどちらかと言えば薄い方。少なくとも、学校でもプロポーションの良さで上位に食い込むもう一人の幼馴染みよりは、体のあちこちの起伏は乏しそうだった。
閉じられた目蓋の奥の瞳の色は分からないが、それでも十分可愛いとか美少女とか呼べるレベルで。
そして、何より特徴的なのは、長く尖った耳。
「ええええええええええええええええええええええええっ!?」
家のリビングの真ん中で気を失っている──もしかすると寝ているだけかもしれない──少女を見て、康貴は思わず奇声を張り上げた。
これは一体どういう情況なのだろう。
リビングの床──フローリング張り──に倒れている少女を凝視しながら、康貴は必死に考える。
彼が家に帰って来た時、玄関の鍵は確かにかかっていた。それを自分が開錠したのだから、間違いない。
では、この少女は窓から入り込んだのだろうか?
視線を動かして、リビングから庭へと通じる窓を見てみる。
バイトに出かける前はまだ明るかったので、カーテンは開けられたまま。そのため、窓の鍵もしっかりと施錠されていることが、康貴のいる場所からも確認できた。
もちろん、鍵の周囲のガラスを割って鍵を開けた様子もない。
では、別の窓? 裏口? それとも二階からか?
様々な可能性が康貴の脳裏を駆け巡る。それらを確かめに行くべきか、それともこの少女から目を離さない方がいいのか。
彼がリビングの入り口で突っ立ったまま、あれこれと悩むこと数分。
康貴は、この時になってようやく重大なことに思い至った。
それは、目の前で倒れている少女が果たして生きているのか、ということだ。
「も、もしかして……これって住居不法侵入とかじゃなく、死体遺棄事件だったりする……のか?」
生きているかどうかを確かめるには、この少女に触れなければならない。
しかし、この情況で彼女の体に触れていいものか。
仮にこの少女が死体だった場合、それに触れると指紋とかが付いたりしないだろうか。そこから自分が容疑者として疑われたりしないだろうか。そんな疑問が彼の脳裏を何度も過ぎる。
「だ……だけど……このままにしておくわけにはいかない……よな?」
この時点で警察を呼ぶ、という選択はなぜか彼の頭には浮かばなかった。よくよく考えれば、警察を呼べば全て丸く収まるのに、だ。
その理由はやはり、康孝が混乱していたこともあるが、倒れているのが可愛い少女だったから、だろう。これが倒れていたのがむさ苦しいおっさんだった場合、発見して即通報していたに違いない。
なぜかすり足で、少しずつ倒れている少女へと近づいていく康貴。
その途中、リビングの床を掃除するためのフロア掃除用ワイパーが、近くの壁に立てかけてあるのが目に入った。
康貴は腕を伸ばしてフロア掃除用ワイパーを手に取る。そして、ワイパー側ではなくて柄の方で、倒れている少女の身体を少しだけ
その拍子に、倒れている少女が身動ぎをする。
横向きに倒れていた少女が、仰向けの姿勢になる。同時に、彼女の長く先端の尖った耳がぴくりと動いたのだ。
どうやら生きてはいるらしい。康貴は少しだけ安心した。
「しかし……耳……だよな、これ……?」
康貴は彼女の耳をしげしげと見てみる。
人類には──少なくとも地球上の人類は、このような形状の耳を有してはいない。
もしかすると、どこかの部族などの風習で耳を長く伸ばすようなものもあるかもしれないが、その場合は上に伸ばすのではなく、重力に従って下に伸ばした方が楽なはずだ。
「……もしかして……宇宙人……とか?」
そういえば昔、耳が尖った宇宙人が出てくるSF映画を見た覚えがある。
そう思ってよく見れば、彼女が着ている服も何となく宇宙船のクルーが着る制服と思えなくもない。
「宇宙船が事故にでも遭って、この辺りに不時着した────のか?」
SF物によくあるパターンだ。そして非常事態の宇宙船から、緊急転送か何かされた結果、このリビングに現れた……のだとすると、この少女が鍵のかかっていた家の中で倒れていたことも頷ける。
「そうすると……怪我とかはしていないのかな?」
恐る恐る、康貴は倒れている少女へと手を伸ばしていく。
その時。
仰向けだった彼女の顔が、かくん、と康貴の方を向いた。
同時に閉じられたままだった目蓋もひくひくと蠢く。
やがて、ゆっくりと目蓋が持ち上げられ、その奥に隠されていたサファイアのような蒼い瞳が露になった。
「あ、あの────大丈夫? 怪我とか、してない?」
少女の蒼い瞳が徐々に焦点を合わせていき、その焦点は康貴の顔へと向けられた。
ついで彼女の視線が、自分に向けて伸ばされたままの康貴の手に向けられる。
その後、少女の視線は何度も康貴の顔と手を行き来した。
そして彼女の表情が不意に引き締まると、唐突に上体を起こして。
「ヤアラアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアウっ!!」
少女は力一杯の叫び声を上げたのだった。
少女は腰を下ろした状態で、手と足を使って必死に康貴から遠ざかる。
そして、その背中が庭へと続くガラス窓にぶつかった。
背後が絶たれたと思ったのだろう彼女は、慌てて自分の後ろを確認する。そしてガラス窓の向こうに暗くても広い庭があるのを確認すると、慌てて立ち上がって庭に出ようとした。
しかし。
どうやら少女はガラス窓の開け方が分からないようで、必死に窓を押すものの、本来引き戸であるガラス窓が開くはずもない。
やがて窓のアルミサッシに付いている半月鍵の存在に気づき、どうやったら鍵が開くのかも分からず必死に鍵をがちゃがちゃと弄り始める。
「えっと……そんな乱暴にしたって開かないぞ? その窓、鍵がかかっているから、まずはその鍵を開けないと……」
必死に窓を開けようとする少女に向かって、極力穏やかな声で話しかける康貴。
その声に驚いて少女が振り返る。その顔には明らかな怯えが浮かんでいた。
「あ、あの──」
「ヤラウっ!! デア ケルセ イーテング セラウネェンっ!!」
康貴が伸ばした手を恐れるように、少女は身を竦ませた。
「け、怪我……とかしていないか……? もし怪我しているようなら、少しぐらいなら手当てとかできるけど……」
「ガァキィ……? アァールテン……?」
どうやら言葉が通じないらしい。そう判断した康貴は、どうしたものかと思い悩む。
「怪我。手当て。分からないかな?」
「ガァキィ……アァールテン……」
康貴は、改めて目の前の少女を見てみた。
身長は169センチの自分よりもやや低い。おそらく160センチ前後といったところだろう。
背中の中程まで真っ直ぐに伸ばされている髪は淡い金色。しかし倒れていたせいか、その髪は所々が乱れている。
大き目の瞳の色は綺麗な蒼。じっと自分を見つめるその瞳に浮かんでいるのは、紛れもない警戒心だ。
少女はそこが唯一の安全地帯であるかのように、庭へと続くガラス窓から離れようとはしない。
──まるで家の中に突然迷い込んで来た野良猫だな。
康貴は何となくそんな感想を抱いた。
そして、野良猫という言葉からあることを連想する。
「ねえ? もしかしてお腹減ってない? 何か簡単なものでよければ、すぐに作るけど……?」
昔から両親が共働きだった康貴は、いつの間にか家事──特に料理が得意になっていた。今では特技の一つとして上げられるほどに、その腕は上達している。
そんな康貴だからこそ、彼の両親も安心して彼を残して県外に赴任することができたのだが。
康貴は少女ににっこりと微笑むと、そのままキッチンに入って冷蔵庫を開ける。
記憶の通りにそこにスライスチーズがあることを確認すると、食パンとマヨネーズ、そして野菜室からレタスを取り出した。
「少し待っていて。すぐに作るから」
康貴は六枚切りの食パンを包丁で更に半分に割り、割った断面にマヨネーズを薄く塗り伸ばす。そしてスライスチーズとレタスを挟んで、それを食べやすいように縦に包丁で切り分けた。
そんなチーズレタスサンドを更に二つほど作り、同じように縦に切って皿へと乗せ、食事用のテーブルへと運んだ。
康貴はテーブルから椅子を一つ引き出し、それを指差してみる。
「ほら、ここに座って。これ、食べていいから」
椅子を指差し、次いで自分でも椅子に座って見せる。そして、最後に少女をぴっと指差す。
康貴としては、「自分と同じように君も座って」とのボディランゲージを示したつもりだが、果たして通じているのかどうか。
相変わらず少女は窓際から離れようとしないが、その視線はテーブルの上のチーズレタスサンドに釘付けになっている。
しかも片手をお腹に当てているあたり、どうやら空腹ではあるようだ。
「ほら。遠慮なくどうぞ」
穏やかにそう言い置いた康貴は、笑顔のままテーブルから少し離れた。
彼がテーブルから離れると、少女はおずおずとガラス窓から身を離す。そして警戒した様子のまま、ゆっくりゆっくりとテーブルへと近づく。この時、彼女の視線は康貴とチーズレタスサンドの間を何度も行き来していた。もしも彼が不審な行動に出ればすぐにでも逃げ出すためだろう。
そんな彼女の様子を見ながら、康貴は本当に猫みたいだ、と心の中で苦笑する。
やがてテーブルに到達した彼女は、警戒した様子を崩すことなく、それでもチーズレタスサンドに手を伸ばして、立ったままそれを食べ始めた。
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