5
「あの絵、返して」
放課後、花壇に一人でいる佐野誠に接触した。放課後を選んだのは、もちろん人目を避けるため。
「あ、あの、すみません」
佐野は慌てた様子で立ち上がり、頭を下げた。
「ぼく、絵をもらったのに、遠坂さんにちゃんとお礼を言うのを忘れてて。それで、怒ってるんですよね?」
「はぁ?」
いらいらした。とってつけたような、穏やかな物腰に。
佐野は真面目な顔付きで、ふざけた様子は一切なかった。でも、そういうフリをしているだけかもしれない。
「そうじゃなくて。
「待って。バカになんて、するわけないです」
「そういうの、いいですから。どこにあるんですか。部室ですか、家ですか?」
「……返したら、あの絵は自宅に飾るんですか」
カッと頬が熱くなる。だったら、何だと言うのか。
「飾らない!別に賞を取ったわけでもないのに、あんな絵、自分で捨てるから。だから、早く返して」
あんな絵。あんな。一生懸命描いた絵を、そんなふうに言いたくなかった。だけど、天才にバカにされているかもしれないあの絵を、それでも頑張って描いたから思い入れがあるんです、なんてこの人の前で認めたくなかった。羞恥と、それを覆い隠す怒りにこめかみがふるえて、佐野を直視できなかった。だから、佐野の顔が真っ赤になっていることに気付かなかったんだ。佐野は、怒ってた。
「嫌です!」
びっくりした。穏やかさを絵に描いたような佐野から、こんなに大きな声が出るなんて、予想してなかった。あたしは金縛りにあったみたいに硬直した。
なんで、佐野が怒ってるの。逆切れ?
『最近の若者はキレやすくて困ります』
テレビの中、訳知り顔で語ってたコメンテーターの顔がちらついた。
『何をしでかすか、わかったもんじゃありません。刺しますよ、ええ』
「すみません」
謝られ、はっと意識を戻す。
佐野の顔が申し訳なさそうな表情をつくり、しゅんとしぼんでいった。
「本当に、ごめんなさい。でも、あの絵は、ぼくを救ってくれた絵だから。捨てるなんて、そんなこと言わないでください」
「え、っと……」
混乱から抜けきれないあたしを無視して、佐野は語り始めた。自分の目のこと、そして、あたしの絵が佐野にどんな影響を与えたのかを。
「……ぼくは、三色しか、色を認識できないんです。青と、緑と、黄色。遠坂さんの感想文を読んで、初めて知りました。猫も、ぼくと同じ三色しかわからないんですね」
感想文、やっぱり読まれてた。とたんに、頬が熱くなる。
「だからぼくは、遠坂さんが描いたあの絵の猫といっしょなんです」
佐野は空を仰ぐ。薄ぼんやりと、赤みを帯びてきた空。くぐもった野球部の掛け声が、遠くグラウンドから聞こえてくる。
「ぼくの目の障害は、色覚異常って呼ばれてるんですけど。知ってますか?」
知らない。首をふる。聞いたこともなかった。
「全盲とは、違うんです。見えるけど、人とは物の見え方が違う。ちゃんとした色がわからないんです。産まれたときからそうだったから、これが異常なことなんだって、ある程度大きくなるまでわからなかったけど。小学4年生のとき、描いた人物画の肌を、黄緑色に塗ったんです。それで、母が、これはおかしいって気づいたみたいで。昔から、色のことで人と意見が割れることがよくあった。そのせいで、人間関係もうまくいかなくて。原因がわかってからは、ああ、そうか、だからみんなぼくを変な人だって言うのかって納得しました」
佐野は笑うけど、あたしはどう反応すればいいのかわからなかった。だって、いきなり、こんな重い話がくるなんて思わなかったから。
「人と見え方が違うのはぼくのコンプレックスで、失敗するかもしれないって思ったら、なかなか、人と深く関わろうという気も出なくて。なにもかも、嫌になって。投げやりになって。極めつけは、去年とった、あの賞」
「全国大会の……」
「はい」
急な打ち明け話に当惑しながらも、あたしはむかし飼っていた愛猫のリリーを思い出していた。透明度の高い佐野の目と、リリーの目が、なぜか重なった。その瞬間、どんな惑星間よりも切実に遠かった佐野との距離が、触れ合えるほど近くに感じてびっくりする。
「賞をとった絵は、美術館に飾られるんですけど、この絵を評価した理由って、そういう解説みたいなのものが絵の横に付けられるんです。ぼくのには、『独特の色使いが秀逸』って、そう書かれてた。ぼくは色を間違って塗っただけなのに。それが評価されるなんて、おかしな話ですよね。───そんな理由で賞をとっても、ぜんぜん、嬉しくなかった」
ふいに真顔になった佐野は、次の瞬間にはぱっと顔を明るくする。
「遠坂さんのあの綺麗な絵を見て、横に付けられた説明文を読んだとき、ああ、ぼくは他の人より見える色は少ないけど、もしかしたら、そのぶん、世界を素晴らしいものに見ているのかもしれないって、思えたんです。ぼくの絵を評価してくれた審査員だって、ぼくの見る世界を、美しいと賛同してくれていたんだって、はじめて、前向きな気持ちで思うことができた。だから、あの絵は、ぼくを救ってくれたんです」
佐野は、目を細めてにっこりと笑った。透明感のある笑みだった。
『猫には猫の見え方で、その世界が私たちとは違ったふうに見えていて、もしかしたら、私たち人間よりも、世界はもっと素晴らしいものに見えているのかもしれません』
たった三色しか色を識別できない猫を、あたしはやっぱり可哀想だと思う。ずっと、そのことが引っかかっていて、だから、あの絵を描いた。あの感想文を書いた。すべては、自分自身の心の平穏を保つためだった。青と、緑と、少しの黄色と。その美しいコントラストで、彼らはきっと、あたしたちより素晴らしい世界を見てるんだ。そう思っていないと、とてもやり切れない。
佐野誠は、猫と同じ色の世界に生きている。
あたしの絵を救いだと、まっすぐな目をして言う佐野に、あたしは何と応えればいいのかわからなかった。
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