少年

儚見 溺

本編


 普通である自覚がないほどに、少年は普通の少年であった。




 その冬の日も帰路はいつも通りだった。


近道の路地を抜けた先の公園では子供たちの笑い声が響いている。


過去の記憶に重ねながら、といっても5、6年ほどの差しか経ていない時間の遅さに少年は大きなため息をこぼした。


ため息は白い。


2年と半年と4か月の間で着慣れた学ランは、保温性は高くないのか

直接的な風の侵入を防いでいるだけだと思えてくる。


かじかんだ手を少しでも温めようと、学ランのぽっけの中へ指を伸ばす。


しかし、中に入った一枚の紙が少年の右手の侵入を阻害した。


少しよれたざら紙。


その紙は、なんて事は無いただの紙である。


右のぽっけに手を突っ込めば、くしゃくしゃになってしまうだろう。


何なら、その紙を押しのけて手を突っ込めば、紙の保温性でかじかんだ手も気休め程度によくなりそうなものである。


しかし、少年はその紙のことを考えると気が気でなかった。


ついつい、なぜこんなにも悩まなければならないのか、なんて考えが頭に浮かび、

少年は再度ため息をついてしまう。


そんな屁理屈がその紙の前では、酷く軽く感じたのである。

少年にとって、その紙は重かった。


ぽっけの中には納めきれないほど重かったのである。


少年は再度ため息をついた。




 少年は分岐点に立っていた。


それはもちろん、帰路が二つに分岐していたわけではない。

もっと長い道の分岐点である。


立っていた、というのも少年にとっては正しくはない。

気付いたら立たされていた、

否、経っていたというのが正しいのかもしれない。


実際に立っているのは窮地、というのが少年の現状であった。


少年は人生の分岐点に立っていたのである。


そしてその道のさきには何も見えなかった。


一寸先とまでは言わないとしても、余裕があるとは言えないほどには直前に。

闇が迫っている。


その闇を照らす為の灯はぽっけの中。

ぽっけに入った紙には『第一回進路希望調査』の字がでかでかと(実際には一寸も無いないのだが少年にはその文字がとてつもなく大きく見えて)印刷されていた。


第一希望の記入欄はまっさらである。

勿論、その下の第二、第三の欄にも空白が広がっていた。


少年はため息をつく事しかできなかったのである。




 そんなことを考え、少し酸素不足に陥りながらも。

少年はいつも通りの帰路を進み、自宅であるマンション前まで到着していた。


今日は父親の帰りが遅い。

宿題は少し休んでからでも良いだろうなんて考えで現実から目を逸らしつつ、少年は階段を上った。

築10年ちょっとの比較的新しいマンションにはエレベータが付いているのだが、

避難時などに用いる為の階段も設置されていたのである。


とはいえ、4階の住民である少年の母親はエレベータでしか上ることは無い。


運動系の部活に所属していない、運動の機会が少ない思春期の少年には、丁度いい負荷をかけてくれるのだ。


いつもなら少し小走り気味に上る階段も今日はゆっくり上っていく。

考え事のさなかであったから、というよりは単に気分が乗らなかったのである。


目的の階層まで階段を上がり、そこから少し歩を進めたところの扉。

自宅の玄関扉のドアノブに手をかけた。



 がちゃり、と。

玄関の扉は簡単に開いた。


中には少年の母親がいるのでおかしくはない。


外出もしないのに玄関に鍵をかけるようなことはしない母親であったのだ。


ただ、なにか。


何かが違った。


思わず、帰宅後の一声を忘れてしまうほどの違和感。

その違和感を少年は鼻で感じていた。


いつもとは違う甘い。


とても甘い、だが果物の様では無い。独特な香りが少年の鼻孔をくすぐっていた。


ふと、少年はその香りに母親のつける香水を想起する。

しかし、なにかがちがう。それはまるで


「女子?」


一人っ子である少年は、母親以外女性のいない自宅から香るにはあまりに不自然な香りに思わず呟いた。


そう、それはまるで若い女性とすれ違った時の様な。

あの何とも言えない甘い匂いと酷似していた。


不審に思いつつも、少年ははいていた通学用の靴を脱ぎ棄て、持っていた学生かばんも靴箱の横に放り投げて。

この時間ならおそらく母親は食器を洗っているだろうという確信のもと、


ダイニングキッチンのあるリビングへの扉のノブを回した。


少年は気が付いていなかったのだ。


ここで気が付くのは少し難しかったのかもしれない。


この場所が自宅のある4階ではなく、

階層違いである3階層であることに。


同じ間取りでありながら別の住民の住む、部屋である事に。


「______________え」


ただそれだけ。

その一言だけがリビングの中に首を伸ばした少年の口からこぼれた。




 赤————————。


「赤」と聞いて何を思い出すか、と聞かれた人は何と答えるだろうか。

花や果実、時によっては太陽や感情。職種や状態によっても答えが変わってくるであろうその質問の答え。


しかし、少年にとっては今のこの状況こそ、何よりも「赤」であるといえた。


おそらく白が基調であっただろう部屋に、まるでアクセントの様な赤。


おそらく数分、もしかしたら数秒だろうか。


そんな短い間にこの部屋は白から赤へ。


まるで装飾のように巻き散らかされたのだろう。


天井から吊り下げられた照明の明かりはともっていない。


おそらくこの状態になる前までの部屋の印象ならば、


全体的に見ればシンプルだが、所々の小物やインテリアなどに女性らしさを感じる部屋。

そんな風に思っただろう。


カーテンや、カーペット、壁紙なんかを見ればこの部屋の主は白色が好きなのだろうかと誰にでも予想はできた。

少年の自宅と同じ間取りに備え付けられてあるダイニングキッチンには、

調理器具にこだわりがあるのだろう、可愛らしい見た目のフライパンや鍋敷きがそろえられている。


なんて事を思って。


少年はなんとかこの状況を理解しようと、動転した頭を必死に動かした。


しかし、目をそむけようとも、気を紛らわそうとしようにも


少年の視線はリビング中央に鎮座した、大きな机。

4人掛けの机をまたいだ向こう側。


そこにたたずむ一人の女性から離れなかった。


20代前半ほどの若い女性だ。


少し乱れているが、セミロングでストレートの綺麗な黒髪。


腰辺りまでは机に阻まれ見えないが、白を基調としていただろう清楚だった装い。


そして、作り物と思わせる程の整った相貌。


その肌は赤色が引き立てているのもあってか、異様なほど白く見えた。


不意に、女性の瞳が少年の方向を向く。


「・・・あ・・・え・・・」


少年の喉から、嗚咽にも似た声が漏れる。


しかし少年にはその声が自分の声帯を通って出たものだと思えなかった。

全ての感覚が奪われる錯覚。

それほどまでにその女性は異質で変質で。

何よりも「虚無」。


特に少年の目は女性の目に。

黒く、淀んで、何を見ているのかわからない瞳から視線が外せなかった。


少年には女性のブラックホールの様な目が人間を捉えているようには見えなかった。

人の形をした何かだと捉えているような感覚がしてならなかったのだ。


少年はぼんやりと、その事実を拒絶しながらも、理解していた。

おそらくこの「赤」は彼女の物ではない。

彼女から流れたものではない。立っていられるはずがない。


最も赤かったのは、少年から見て女性の目の前にある大きな机の下だった。


フローリングの床はその机の辺りだけは見る影もない。


ただただ赤。


赤がそこに溜まっていた。


少年からは机の陰に隠れて見えない、女性の足元。

見えないのは偶然か、それとも故意的になのだろうか。

あそこに何かがある。



否、居る?



少年は顔を白くして女性の目を見ていた。


女性はまだ口を開かない。

激しい運動でもしたのだろうか、よく見ると酸素を求めるように女性の肩は上下に揺れ動いていた。

白い服におびただしいほどの赤い水玉模様が浮き出ている。

赤い液体に濡れて服が体にくっ付いているのだろう、女性の体のラインがはっきりと浮き出ていた。


これがただの赤い水ならばどれほど良いだろうか。


だが違う。


確実に違う。


透明度のない、少し暗めの赤。


炎よりも強烈で、薔薇よりも鮮烈な赤。


受け入れたくない事実。


否定を否定する確信。


ああ、この赤は。


血液なのだろうと。




 沈黙が鮮血と流れる。


足はすくんで動かない。


恐怖で嗚咽すら出ない。


視線が女性から動かせない。


思考が乱れて働かない。


空気が————————


「ねえ、君」


沈黙と少年の考えを断ち切るような


穏やかで、軽やかで、緩やかな声が少年の鼓膜を揺らした。


少し困惑したような顔をした女性と少年の目が交差する。


先ほどからずっと見ていた瞳と、目があったのは初めてのように感じた。


「いつからそこにいたの?」


そんな単純な質問をする彼女に、思わず少年は恐怖を抱く。


彼女の質問があまりに単純に感じた。あまりにも自然な様相だった。足元にはまるで何もないような錯覚すら覚えさせた。


しかし、床を見れば血だまりが今も凄惨に広がっている。


「ぃ・・・今、です」


開くのを恐れている様に、固く閉じようとする声帯を何とか開き、少年は声を振り絞る。


明らかに怯え、動揺している少年を見て女性は何を思ったのか、


「そっか」


短くそうつぶやいて、ほんの少しだけ口角を上げた。


血にまみれた女性の、あまりに場にそぐわない


穏やかで柔和な微笑。


彼女は息が整った様子で、肩の揺れはもう見受けられない。


反対に、少年の心臓は早鐘をうち、酸素を求めるように肩を揺らす。


心音が、静かな空間の中では異常なほど大きく聞こえた。


「ねぇ、きみ」


彼女は微笑を崩さないまま言った。


声が出ない。


本能だけが逃げろと脳内で叫び続けてる。


「確か、ここの上の部屋に住んでる子だよね」


少年はここで自分の犯したミスに、


あまりにも小さなミスに気が付いた。


階層を間違って入り、違和感を感じながらも他人の家に上がり、母親を探してリビングの扉をくぐり、真っ赤な女性と出会った。


どうしてこうなってしまったのだろう。


誰にでもありそうな些細なミス。


小さなミス。


絶望的な状況。


ほんの一時間前までは学校で授業を受けていたのが、遠い過去の事に感じる。


「階を間違えちゃったのかな?・・・ついて無いね、君も。」


少し憂いを帯びたような、そんな声。


今日じゃなければ。もし昨日だったならば。


なんて、きりのない思考が少年の頭の中でぐるぐると回っていく。


「なんで・・・」


こんなことに。


少年は思わず声に出てしまった疑問があまりにも空虚に感じた。


「なんで?」


少年のつぶやきを聞いた彼女は何を思ったのだろうか、


微笑から真剣な顔に戻った彼女は、少し考えるように少年から視線をそらし、大きなため息をついた。


そして、足元に視線を落とした。


その瞬間、恐怖が少年の体を容赦なく震わせる。


あの目だ。


少年の本能が彼女の瞳に、視線に、そこにある虚無に、戦慄していた。


このリビングの扉を開いて女性と目の合った瞬間と同じ目。


少年はこの既視感に、思わず嘔吐しそうになるのをこらえる。


「それ・・・」


吐き出しそうになるのを必死に抑え、少年が声を発する。


もしそうだったら、なんて希望的観測を籠めて。


「なにかの動物・・・ですか・・・?」


藁にもすがるような、今にも消え入りそうな声。


もし動物だったら、もしそうでなければ。


許されない行為でも、許容できるような気がした。

この状況を飲み込める気がした。


その声を聴いて、少年に視線を合わせた彼女は一瞬戸惑いの表情を浮かべ


「・・・あ・・・見えてないんだ・・・」


呟いたかと思うと、再度考えるように眉をひそめ視線をそらした。


しばらく考え込むように目をそらしていた彼女だったが、やがて少し目を伏せがちに


「ごめんね・・・。」


と小さく呟いた。


ごめんね。彼女は確かにそういった。


謝罪。


この言葉の意味は。


いや、でも、もしかしたら。


なんて少年の思考を


「これは、もともと人間です。私は人を殺めました」


彼女の一言は蹂躙した。




 人を殺める。


それが犯罪行為であり、許されざる行為であり、人の道を踏み外す行為であることを現代の日本の人間は子供の頃から知っている。


誰から教わるでもなく、知ることになるきっかけがあるわけでもなく。


自然と、育っていくままに、日本国で普通に育っていくならば知っているのだ。


さらに言うならば「殺める」という言葉を人間は忌避している。


家畜でも、野生動物でも、虫でも、害獣や害虫でも。


殺生が好ましいとされることは少ないといえた。


少なくとも少年の知っている常識は、その様になっていたはずだった。



しかし。


「ついさっき、このビンで、叩いて。」


言って。彼女は足元に手を伸ばし、おそらくワインボトルだったのだろう長細いビン状の、ビンであれば飲み口にあたるところをつかみ、机より上に持ち上げた。


彼女が使用したときに割れてしまったのだろう、底の部分は無くなり鋭利なガラスから血液が滴っている。


「ごめんね。私は嘘をついたほうが良かったんだと思うよ。

でも、自分がやったことに、自分が犯したことに嘘をつきたくなかったんだ。


・・・本当にごめん」


伏せ見がちな目で呟くように彼女は言葉をつないでいたが、


その言葉は耳を素通りし、少年の脳は状況を理解していなかった。


否、理解したくなかったというのが真実である。


目の前にある現実が、事実が、惨劇が。


すべて夢幻であると理解しようとしていた。


ふと、学ランの中に着たYシャツが濡れていることに気が付いた少年はそれが自分の汗であった事に思わず、現実味を感じる。


そこまで考えて。ついに、少年は嘔吐した。


びちゃびちゃと、少年の足元に胃酸が広がっていく。


これは現実であると、口に広がる胃酸の酸味が訴えてくる。


「大丈夫?・・・早く帰ったほうがいいよ。それ、私が片付けておくからさ。」


彼女は申し訳なさそうな顔で少年の吐瀉物を一瞥した。


少年の鼓動と呼吸が最高速度を迎え、酸素を求めた肺が肩を大きく上下に揺らしている。


とびちってしまった元々は少年の昼餉の弁当だった一部が、胃酸と共に鮮血に交じっていた。


しかし、嘔吐は不思議と少年の思考に冷静さを取り戻す気付けになった。


思考を取り戻した脳は一つの疑問を抱く。


「あの・・・」


手の甲で口元をぬぐいつつ、少年はまともに動くようになった声帯を震わせた。


「なんで・・・やってしまったんですか・・・?」


「え?」


「なんで人を・・・殺してしまったんですか?」


少年は慌ただしく繰り返される呼吸と動悸をどうにか抑えながら、


殺人を犯した彼女の、状況を、感情を、動機を。


日常から乖離した行動の意味を。


少年はこの場から立ち去る事より、問う事を選んでしまっていた。


少年自身もなぜこんなことを聞いてしまったのか判らなかった。


あまりに異質なこの状況に気でも触れたのだろうかとさえ思える。


彼女は少年の唐突の問いに驚いたような表情をしていたが、しばらくして少しためらいがちに口を開いた。


「・・・今日も殺そうと思って、会ったわけじゃないの。


なんで・・・か。なんでだろうね。・・・いままで耐えてたのに」


少年は彼女の唇が少し震えている事に気が付いた。


少しの間、なにかを躊躇しているのか、言葉を選んでいるのか。なかなか口を開かない彼女であったが何かを決めたように少年の目と向き直った。


「私、あざだらけなんだ」


あざ。その言葉に少年はつい、彼女の顔の肌が見える部分を注視する。


血と血の隙間からのぞく皮膚には肌色以外は見受けられない。


「顔を見ても何もないよ、あるのは服の下。」


彼女が右手の長袖をまくり二の腕を外気にさらす。


手首までの元より見えていた部分にはべっとりと血が付着しているのだが、服をまくったところは肌色のままだった。


ただし、所々の青くなったあざを除いて。


目立つものでは5か所、小さなものや細かいものを含めると倍以上の数になるだろう。


細かい切り傷なんかも見受けられる。


腕だけでこれならば全身すべてのあざや傷の数は計り知れないように思えた。


痛々しい彼女の二の腕に少年は思わず眉間にしわを寄せる。


「まぁ、こんなものより激しいのが足元にあるんだけどね」


なんて笑いながら彼女は二の腕をまた袖の下に隠した。


彼女にとってあのあざはあまり見せたいものではなかったのだろう。


先ほどの微笑とは違う乾いた笑みに少年はそんなことを思った。


「・・・言いたくないことなら別にいいですよ」


彼女の苦々しいよりも苦しそうな笑顔に、声をかける。


嘔吐からしばらくたって少年の動機と息切れは回復傾向にあり、なんとなく気も落ち着いてきていた。


「優しいんだね、君は。


・・・でも、せっかくだし聞いてもらおうかな。私も私自身を整理するいい機会だと思うんだ」


彼女の言葉に余裕は無かった。


息苦しいのか、言葉と言葉の間に息継ぎをするような間がある。


彼女の震える唇がまた少し開いた。


「これ・・・、・・・この机の下の人ね。私のお付き合いしている人だったの。


周りからもお似合いって言われたりする、そんな恋人同士だった。


・・・でも、周りの人が見てる彼と私の見てる彼は全然違った。」


少年は唾を飲み込んだ。


恋人同士、あざ、殺人。


点と点がつながっていく感覚。


「いろんなことをされたよ。


殴られて、蹴られて、突き飛ばされて、踏まれて、髪を引っ張られて、髪をたくさん引き抜かれて、リモコンでたたかれて、椅子を投げられて、机を倒されて、ボールみたいに蹴り飛ばされて、おなかを何度も殴られて、おなかを何度も蹴られて、水をかけられて、飲み物をかけられて、お酒をかけられて、唾をかけられて、熱湯をかけられて。


でも、顔は避けるの。


他の人に知られないように。」


彼女の声質に少し怒気がこもっているような感じがした。


ビンを持っている手が少し震えている。


DV。少年の予想は正しかった。


しかし少年の予想のはるか上をいく壮絶さに、嫌悪感がこみ上げてくる。


「まだ2か月しか付き合ってなかったのにさ、思いつく以外にもたくさんされた気がするよ。」


少年は机の下から流れてきている血液を改めて眺めた。


その血がなんとなく黒ずんで見えるのは、彼女の話を聞いたからだろうか。


「・・・別れようとはしなかったんですか」


つい、少年は口を開いた。


色恋沙汰には縁のない少年であったが、


そんな相手と一緒にいたいと思うような人間がいるのだろうか。


自分なら、友人でも嫌だ。そんなことを思って。


「したよ。いや、しようとしていたんだよ。・・・今日ね。」


今日。


彼女は今日殺してしまう前に、別れ話をしようとしていたのだ。


別れて、関係を断ち切ろうとしていた。


暴力から逃れようとしていた。


しかし、その話の結果はこの惨劇である。


「別れてくださいって頭を下げたら首を絞められた。


『別れてやる訳ないだろ』って。


そのあとも罵詈雑言を浴びせられながら私の首を鷲掴みしてきたよ、彼は。


悪魔に見えた。人の皮をはがして身にまとった悪魔。


苦しくてもがいて、逃れようとして、とっさにテーブルの上に置いてあった赤ワインの瓶をつかんで・・・さ」


ガシャン


そんな音が少年には聞こえた気がした。


何かが割れるような音。ワインの瓶の砕ける音だろうか、


「彼の手が離れても何度も、何度も振り下ろした。


何回も、何十回も。もしかしたら何百回も。」


それとも、砕けたのは、彼女の心だったのだろうか。


「ほんとに悪魔に見えてたのかな、殺しても人を殺したって実感がわかなかったよ。


すっきりしたって感情の方が強かった。


あはは・・・・・・・最低だよ、私は」


彼女は笑っていた。しかしその頬には大きな水滴、赤くない水滴が流れている。


流れた涙を拭こうと手を顔までもっていこうとし、その手にまんべんなくついた鮮血を見て、笑みが消え、さらに大粒の涙を流した。


「・・・・・・・」


少年は何も声に出せなかった。


中学生の、進路に悩んでいるような子供の言葉には


何も価値がないような気がしてならなかった。


「こんなんじゃ涙も拭けやしないよ」


彼女はまた、泣きながら笑っている。


笑顔に見えないような笑顔で、ごまかすような笑顔で。


少年は彼女が自分を責めるのはあまりにも間違いだと思えていた。


しかし声がでない。なんと言えばいいのか、なにを話すのが正解なのか。


正解がどこにあるのかなんて。正解が存在するのかどうかすらも。少年にはわからない。


何も言えずに立ち尽くしていた少年は思わず唇をかんでいたことに鉄の味がしてから気が付いた。


指を唇に当て、付着した赤い液体に驚いた少年を見て彼女は何を思ったのだろうか。


「本当に、優しいね君は。


君がここに来たことは君にとって不運でも、私にとっては不幸中の幸いに思えてきてしまうよ」


なんていって、浮かべているのは先ほどまでと同じような微笑である。


頬を流れる大粒の涙は止まっていない。


大きなため息が彼女の口からこぼれた。


「あーあ、何もかもお終いだよ。


私、頑張っていい大学に入っていい成績も取って


これからしたいことが出来るなんて思ってたのにさ」


唐突に、全てがどうでもよくなったような口調で彼女は呟いた。


彼女はまるで明後日の方向でも見るように血の付いた天井を眺めている。


「人生は何が起こるかわかんないね。突然宝くじが当たるなんてこともあれば突然こんなことになる事もあるんだ。


きみはこうなっちゃダメよ?」


こう、とは机の下の人物を指しているのか、それとも彼女自身を指しているのか少年にはわからなかった。


「毎日普通に日常を生きててさ、唐突に人を殺しちゃうなんてことがこの世にはあるんだ。


どれだけ頑張って生きてて、どれだけ真面目にいきてて、自分は人を殺さないなんて自信があったとしても。


多分、人は人を殺すんだよ。


私は今日それを学んだ。私はもう、そんなことを知っててもしょうがないからさ、教えておいてあげるよ」


なんていって、今までよりも少し角度の高い笑みを浮かべた彼女はそれまで持っていたビンをコトンと机の上に置いた。


「ごめん、意地悪なことをいったね。


それじゃあ、もう帰りなさい。私はこの後警察の人に電話しなきゃいけないから。


・・・直接、交番に行きたい所なんだけどこのまま街中は歩けないよね」


彼女はそう笑いながら手を振った。


「ばいばい、今日は災難だったね」


「いえ・・・」


少年は女性の顔を直視できなかった。


あまりに苦しそうな、まるで死人のような彼女の笑顔に耐えられなかったのである。


リビングの扉を閉めながら、つい頭を下げてしまったのは申し訳のなさからだろうか。


なんでお辞儀なんてしてるの、例の笑顔で彼女がそうったのを最後に聞いて少年はリビングの扉を閉めた。


吐瀉物が少年のドアの開閉を邪魔するように溜まっていたが、少年は気にしなかった。


結局、少年には何もできなかった。





 そのまま間違えて脱ぎ捨てた靴を履き、鞄を持ち、玄関を抜ける。


外の空気がひどく冷たく感じた。


すっかり日が落ち、暗くなっているものだと思っていたが存外時間は立っていなかったらしい。


夕日が暗闇に慣れた少年の目にはとても眩しかった。


進みの遅い時の流れにため息をつきつつ少年は足を動かし始める。


階段をゆっくりと下り、マンションの外に出た。


ぶらぶらとマンションの周囲をぶらつく。考え事もせず、ただ白い息をふかしていたかった。


あの部屋で起こったことをすべて忘れてしまいたかった。




 しばらくして日が沈み、あたりに夜のとばりが落ちた。


どこか遠くでパトカーのサイレンが聞こえている。


気温が下がり、少年は手の感覚はマヒし始めてしまっていた。


少しでもかじかんだ手を温めようと、学ランのぽっけに指を伸ばす。


中に入った紙が少年の右手の侵入を阻んだ。



『第一回進路希望調査』



少年はためらわず、ぽっけに両手を突っ込んだ。


ぽっけの中は、あまり暖かくなかった。

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