31/20 近原友治の話⑩

「君はさ、さっき、この話を僕がしたとき、無意識に自分で身体を触ってみせたよね。どこを触っていたか、覚えている?」

「……胸」


 男はやはり、そのごつごつした手を胸板にあてた。


「笹貫さんに容姿を聞かれて、僕が触診をすすめたのはそれもあったんだよ。ただ単に自分の性をだけなのか、それとものか、判断がつかなかったから。でも笹貫さんは自分を女性だと自認しなかった。遠回しに口にしてみたこともある」


(――僕は……――男だから。……君と違って)


「笹貫さんには届いていないようだった。それどころか不調にさせてしまって、あの日は申し訳なかったよ」


(――いま、聞こえた? 僕が何て言ったか、認識できた?)


「それは、性同一性障害とは違うモンなのか」

「性同一性障害は性自認の問題だから。肉体の性と精神の性が異なるからこそ生まれる悩みなんだ。つまり、自分の体の性別を認識していないなんてことはあり得ない。だから笹貫さんは性同一性障害ではない」

「言っちゃ悪ィが笹貫透はその、あんまねェだろ、胸。男と勘違いしたとか」

「うーん、ないかな……笹貫さんは否が応でも自らが女性だと知らされる出来事があったんだ。それでも、笹貫さんは自らの性を認めようとしなかった」

「否が応でも知らされる出来事?」

「月経だよ」


 聞き慣れない単語だったのか、男は数度まばたきを繰り返したのち、ああ、とひとり納得したように頷いた。


「そもそも、健康体であれば、トイレで用を足す、風呂で体を洗う、そういった日常生活のなかで自ずとわかるはずだ、自分の体が男女どちらの性なのか。にもかかわらず、性別すらわからない、というのは……。あえて認識の外に追いやっている、と僕は考えた」


 中性的な魅力を漂わせていた笹貫透の容姿を思い返す。健康的な笑顔を見る日もあったが、再びああやって笑える日が来るのはいつになるだろう。

 しばらく考えこんでいた男が急に膝を打つ。


「アレだ、苦しいから性別ごと忘れて思い出したくないってヤツじゃねェのか」

「うん。そう」

「んあ?」


 肯定が返ってくるとは予想していなかったらしく男は素っ頓狂な声をあげた。


「笹貫さんの状態は、まさにそれなんだ。失くした自分自身についての記憶、そのなかに性別が含まれているのではなく、んだよ」


 近原の言葉をゆっくり咀嚼するように口の中で転がし、男は手のひらで顔を覆う。


「……なんで事件のことまで忘れた?」

「それはついで、かな」

「ついでだと?」

「だからさ、ほら。記憶は必ず何かと紐付いている、だよ。事件の記憶は笹貫さんにとっての芋づるだったんだ。だけど忘れたからこそ笹貫さんは記憶を取り戻したがった。悪夢を見てでも。けれど真に忘却したかった記憶を開示はできない。だから脳は策を講じた」

「忘れた記憶のすり替え、か」

「そう。事件の記憶を、笹貫さんは思い出した。芋づるでしかない、それを」

「殺した動機は何だ?」


 男の問いに近原は数秒、口を閉じた。それは逡巡でもあり、猶予でもあり、決心でもあった。これから近原が話すことは笹貫透の恥部だ。すべて忘れて閉じ込めてしまうほど触れてはならない、心の最奥そのものだ。決して軽はずみに他人へもらしていい話ではない。ではない、が。

 罪を犯し法廷へ立つ以上、理解される必要がある。少なくとも、おかしなレッテルを貼られず平時と変わらぬ扱いをされるよう、努める義務が近原にはある。それに元々、笹貫透の二十日間の記録はすべて男へ渡す、そういう仕事だ。

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