第六十九話 横浜築城

 鎌倉府での詮議の結果、岩橋親子は出家することになる。岩橋輔胤、孝胤、勝胤の三人であるが、鎌倉近在の寺に分かれて送られる。岩橋家の家督は、孝胤の次男が継ぎ親父の偏諱を受けて知胤と名乗り、もともとの所領印旛郡印東庄岩橋郷に入った。千葉宗家は、予定通り従五位下東下野守常和とうのしもつけのかみつねかずが継ぎ、従五位上千葉権下総守常和となった。一先ずは、臼井城に入り、佐倉城を再建する予定のようだ。彼の後ろ盾になるのは、常陸川南岸の東庄とうのしょう東家とうのけ宗家を始めとする千葉家分家の面々である。とはいっても、下総のほとんどの家が原家の血が入り、原一族といっても過言ではない。岩橋を支えていたのも原一族だが、少し系統が違うのでややこしい。


 千葉家を臣従させ、内海東京湾の安全を確立したので、いよいよ横浜に築城することにした。築城にあたって、横浜湊を見下ろす崖の上には望楼を築くことにした。天守閣のつもりである。望楼は石垣に白亜の漆喰である。そのため、近江から京極六郎殿に頼み込んで穴太衆を派遣して貰うことにした。石は乾坤山(鋸山)のものを使うが、石材の差配は上総武田家に任せた。伊豆よりも、遥かに近いからである。


 当面は、本牧山の北東の崖に近いところに天守閣的な建物を作らせ、いずれは根岸や塚越までの、東西4km南北3kmの広大な城郭とその内側の田園地帯を含めた惣構えを考えている。この横浜が海上交通の重要な拠点となり、東海道、鎌倉街道の陸城交通にも影響を与える場所にしなければならない。そのためには、横浜を発展させねばならない。築城のため人を集め、支払った銭を目当てに商人が集まる。そして住民が増え、やがては市が立つようにもなるだろう。


 市が立つには名目が必要だ。寺前市とか門前市とか。丁度洲の先の小島に洲干弁天社があるので、移築させよう。海岸線の道と入海沿いの道が交わるあたり。三方向から鳥居を並べ大きな神社にしてしまおう。もともとは伊豆から勧進したらしいし、鎌倉公方の二代目足利氏満が般若心経を納め、太田道灌が修復を手掛けたとか、それなりに鎌倉公方家には縁がある神社だ。道灌の嫡男の太田資康に差配を任せることにした。神社の移築と山頂までの道の造成が当面の作業となる。別当寺は秀閑寺という小さな寺であったが、これも弁天社の隣に移築し真宗の僧に管理を任せることにする。勝子の周囲を美味い話はないかと何かと伺っているから、飛びつくに違いない。


 築城に合わせてこのあたり一帯を鎌倉公方直轄地にしたわけだが、当然もともとの領主がいた。その人物は、平子という鎌倉幕府からの地頭で300年程もこの地を領有していた。出自は三浦家の諸流であり長らく山内上杉家の重臣であった。先の下総遠征で、岩橋親子を捕らえたのは実は平子家のものであった。山内上杉家の奉行格の家柄で大幅に加増して、猪鼻(千葉)城や馬加の地を与えられ、引っ越しの準備に大わらわといったところであった。


 平子氏の居城は磯子湊にほど近い、磯子城である。平子氏が造営した眞照寺は城のすぐ裏手にある。禅馬川の河口を利用した磯子湊から少し遡った、川と海双方の水運を管理するのに都合の良い場所に位置している。また、磯子周辺は付近でも指折りの穀倉地帯と言って良い。

 

 変な話だが、この時代、大河が流れる、だだっ広い平野は穀倉地帯にはなりえない。灌漑技術が未熟なため、大きな河川から用水を引くことができないからである。どいういうことかいというと、川の水面は岸よりもかなり下にあるのが普通であるため、灌漑をするためには川の適当な場所に堰を作り用水路で取水できる位置まで水面を上げなければならないからだ。小さな川に堰を作るのは容易いが、大河に堰を作るのは大事業である。


 例えば、江戸城のすぐ傍まで、大きく内陸に切り込んだ入江周辺は、日比谷と呼ばれ、江戸湊として、太田道灌が開発していたが、そのすぐ北東の荒川や利根川などは、水運として利用はされていたが、堰を作るなど不可能、河口周辺は葦が生い茂り陸も水面も定かでないそんな土地であった。だから、江戸周辺の石高はさして多いものではないのだ。


 それに比べ、磯子という土地は、水運に使われる禅馬川は兎も角、水神川、白幡川、陣屋川といった、灌漑をしやすい適度な大きさの川がいくつもあり、水田を作りやすい平らな土地がその周りに広がっていたのである。延喜式(平安中期に定められた律令の細則で格式を定めたもの)で定められた大国(収入つまり石高が特に多い国)に内陸の上野国が入っているのは、灌漑技術の未熟さに理由があるのだろうと思う。


 一通りの手配を終えて鎌倉に還ることにしたが、洲干弁天社で出会った、平子家の神奈川目代に強引に誘われ、磯子城に立ち寄ることになってしまった。根岸から北の領地を削られ、一所懸命の意識から、さぞや不機嫌かと思いきや、本牧周辺は平子郷の中でも飛び地的な場所で、そこの代わりに下総馬加ということなら、今までに倍する所領となり、対古河公方勢力の前線に近く(つまり武功がたて易い)、水運にも咬める(米以外にも収入がある)と、諸手を挙げての歓迎ムードであった。戸惑いながら、歓待を受けることになったが、嘘はないようであった。


 現代では平子氏というと、上杉謙信の有力家臣として知られているが、磯子の本家は山内上杉家の有力な家臣でもあって、代々奉行職を務めていたらしい。関東管領上杉顕定は、越後上杉家出身なのだが、越後守護代長尾能景の子、長尾為景が越後守護上杉房能(顕定の実弟)を攻め殺した(永正の乱)事件に、顕定が弟の敵討ちとして越後長尾氏を成敗するため、武蔵の平子一族は越後まで動員され、挙句敗戦したために、関東に帰ることができず、先に鎌倉時代に越後小千谷の有力者となっていた一族を頼り、そのまま土着していったり、残った係累も後北条氏の圧力を嫌って移住したことで、横浜には残らなかったのだが、こちらの時間線ではどうなるのだろうなと思う。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る