第三十七話 関東激震

 古河(関宿)は古くから関東河川水運の中心である。

 陸奥の文物を西へ船で運ぶのであれば、太平洋岸の場合いくつもの難所が待ち構えている。中でも房総半島の南端野島崎沖は最大の難所であった。黒潮が房総半島に遮られて蛇行し偏西風が容易に西への進路を取らせてくれない。また、犬吠埼も野島沖ほどではないがやはり難所であった。


 また、古来から、常陸、下総、武蔵の国境地帯は大小様々な河川が入り組んだ沼沢地帯であり、香取海かとりうみまたは香取浦かとりうらと呼ばれ、海と同様のものとみなされてきた。この香取海を中心として、野島沖、犬吠埼の難所を通らずに、内海の品河や六浦の湊へ行くルートが、平安前期の坂上田村麻呂の東征時にはほぼ確立していた。


 現在(室町期)の代表的なルートは常陸北部の那珂湊から始まる。那珂湊から涸沼、涸沼川を上り岩間付近で巴川に乗り換え、北浦を南下。潮来のあたりまで来るとそこはもう穏やかに水が流れる海のようなもの。そこから鬼怒川を上流にさかのぼり、古河あたりで、渡良瀬川(太日川おおいがわ)に乗り換えそのまま江戸あるいは品河、六浦へと進む。この行程中陸路は古河周辺だけである。岩間近辺は水田地帯の用水路や点在する沼を通るので、渇水期を除けば 荷を船から馬に積み替えることはない。


 短くても陸路を通らざるを得ない。この、香取海交易路の結節点ともいうべき古河を抑えることで、莫大な利益が転がり込んでくる。逆に言えば古河を抑えている限り、古河公方家は金策に苦労しないということだ。ならば、古河を通るより楽なルートを開発してしまえば古河は干上がるのではないか?


 というわけで、探したところ、手賀沼に注ぐ大津川が太日川の支流真間川ままがわと上流の松戸あたりでごく近い場所があるということが判明した。松戸のあたりは、下総千葉氏の所領。ならば、動くべきだろう。


 俺は、親父を説得して、下総千葉氏に文書を発給した。

 地域住人のため、交易推進のため、領国発展のため、大津川・真間川間に陸路を整備せよ。ついては、費用の一助として一千貫与えるので、鎌倉まで取りに来るように、というものである。


 分かりにくいだろうが、一文=100円と考えてみると、一貫は1000文で10万円、一千貫で一億円ということになる。一億円を領内インフラ整備のためにあげるよ。だけど欲しかったら、取りに来てね。それを敵国相手にやったわけである。しかも、秘密にしなかった。千葉氏にこういう文書を送ったと、俺も親父もことあるごとに話した。公言した。


 一億円取りに来るかな? 下総千葉氏は千葉輔胤が当主である。嫡男の孝胤は、古河公方について河越城にいる。ガチガチの古河公方シンパである。鎌倉になど来るはずがない。

 たとえ取りに来たとしても、鎌倉殿政知から受け取ったという事実が大事なのである。古河から鎌倉に鞍替えしたかと後ろ指をさされることになる。千葉氏にしても理のある話である。交易路が構築できれば、相当に実入りが見込めるのだ。ただし、それは、古河の実入りが減るということも意味する。周辺を抑える結城氏との関係も悪くなるだろう。


 では、金だけ受け取って、好きに使えばいいじゃないかという向きもあるだろう。しかし、鎌倉府としては、当然事実を公言するし、工事を始めなければ、公金を私した慮外者、謀反を起こすのかと詰ることもできる。また、公言されているから、商人や町人からの突き上げも期待できる。上総武田氏や千葉自胤にも謀反を起こす下総千葉氏を攻めよと言えば、喜んで攻めてくれるだろう。





 11月初旬、関東管領上杉顕定は、またも兵を挙げた。目標は万人が知るところ、河越城攻略である。行軍としては驚くべき速さで、荒川に沿って南下した。

 相対する扇谷定正は対応が遅く、ようやく出兵した時には、関東管領軍は石戸宿を発して、荒川の渡河にかかるころであった。


 扇谷軍も入間川を渡河。下郷松原で戦端が開かれた。

 荒川の広大な河原で行われたこの合戦は、数刻で終わった。総大将の扇谷定正が討ち死にしたのである。

 定正が督戦しようと前線に出たときに、管領軍の一斉に石礫が投げられ、驚いた友軍の馬が棹立ちになり倒れた際定正とその騎馬を巻き込んでしまったのである。定正は落馬したこともあるがその上に馬が倒れ掛かって圧死したのだという。


 その報告をしたのは、大石信濃守定重、つい先日まで扇谷定正の許で武蔵野国守護代であった大石遠江守顕重の庶子であったが大石家を相続することが決まっているという二十歳そこそこの武将であった。

 鎌倉府の一室で、親父と並んでその報告を聞いたが、いよいよ俺の知る歴史から変化してきているぞというぞくぞくするような実感と、さんざっぱら世間をかき回した挙句あっけなく死んでしまった扇谷上杉定正という男に、他人には話せない思いを馳せた。だが、最大の驚きはその次にやって来た。


「続けても?」

「う、うむ」

 押し黙っていた俺たち親子に話してもよいか訪ねてきた大石定重は、いかにも貴公子然とした美男子である。美男子の好きな定正の好みらしい。そういう関係か? 大石家の後継なったのも定正の肝入りなんだろう。「定」の字も定正の偏諱か。


「逃げる敵を追って河越城に迫る途中で、荒川を渡河しようとした一群が斥候の網にかかりまして、捉えてみれば、関東公方足利成氏と自称するではありませんか。とるものもとりあえず陣中にお連れしたところ、折悪しく管領様と行き合わせ、激しい口論に及んだところで、顕定さまが一刀のもとに・・・」


「よもや、切ってしまわれたのか」

「はい、止める間もありませなんだ」

「ご遺体は、どうされた?」

「急ぎ櫃を拵え、後続の部隊が運んでまいります。御世子様の塩が大量にあって助かりました」


「鎌倉で葬るかの。古河には遺髪でも送ればよいか。して、四郎殿は?」

「河越城にて、剃髪いたしまして、上様の御指示を待っているとのことにございます」

「隠居するということか。確か、実子はおらず養子がおったの」

「五郎殿。あいや、兵庫頭憲房殿です」


 上杉憲房は、俺の十歳ほど年上の温厚な若者だった。顕定の養子で後継者ではあるが、顕定とは不仲が噂されていた。しかも、悪いことに、実父は僧侶で権力も政治力もない。つまり、上杉家内での後ろ盾がないのである。俺にすれば僥倖ではあるのだが。


「合戦はどうなった?」

「あ、河越城に迫ると、治部少輔朝良殿があっさり開城しましてございます。軍は、越後上杉の御世子左馬助房定殿がまとめて、鎌倉に向かっております」


 関東管領家、扇谷家、いきなり変わってしまうとは。そしてこれからの関東をまとめるための方策。古河公方の今後、どうするべきか、頭が痛いところだ。


 管領が何故そんなに怒ったのか、こっそり聞いてみた。どうも、真名の顕定をあてこすられたらしい。同じ名の扇谷上杉当主、上杉式部大夫顕定、扇谷上杉家初代当主のことである。足利尊氏の執事であった養父の上杉朝定の遺志に従い足利直義の遺志に従うべく、丹波守護職室町幕府の出世コースを捨て鎌倉に下向した人物である。上杉家では、忠義と孝行の代名詞とも言って良い。関東管領顕定にとってはそれこそ地雷だったのだろう。

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