第三十八話 幼き当主

 古河公方死す。しかも、関東管領が手ずから斬った。その事件ニュースは燎原の火のごとく関東中に広がった。

 この戦乱の中で、扇谷定正も死んでいた、しかも扇谷軍の混乱の契機となったのが、定正の死であった。そのようなことすらも忘れられがちになっていた。

 足利成氏の葬儀が、親父足利政知によって行われる。そのことに、関東中が震撼したと言って良い。


 そんな中で、足利政氏は、父の死に伴い関東公方就任を発表している。自らの陣営の混乱を留めたかったのであろう。だが、事態は政氏の期待通りには進まなかった。豪族、国衆といった面々が軒並み鎌倉に挨拶に訪れることになったのである。関東内海の北部の湊、八幡、船橋、今井などから、彼らは船に乗ってやってきた。


 とはいっても、鎌倉に直接船をつけることはない。三浦半島の先端、城ケ島はそれなりに難所だし、三浦水軍は難癖つけて関銭を巻き上げようとするに決まっているからだ。だから、大部分の東関東からの参列者は、六浦むつらで降りて、馬なり徒歩なりでやって来た。鎌倉街道下ノ道を通るわけだが、十分に整備されているとは言い難い。俺は、下ノ道整備を心のメモの最前列に記した。


 鎌倉府はてんやわんやになった。割を食ったのは、申次衆と呼ばれる奉公人である。多くは、親父が今日から下向する際に付いて来た武士団の二世達である。プライドだけは高い連中で、関東一円の武士の名など覚えているわけがない。次から次へと訪れる来客にパニック一歩手前だった。そこに現れたのが、太田源六郎資康である。父太田道灌のもとで、上杉家の家宰と成るべく育てられた彼が仕切りだすと、混乱は嘘のように収まった。


 そして、関東中の武者の前で、事件の収拾を図るべく沙汰を下した、親父は得意満面であった。

 上杉顕定は、剃髪して入道可諄かじゅんとなり隠居。上州、西方寺に入る。

 山内上杉家の後継は顕定の養子、上杉兵庫頭憲房である。関東管領職も継ぐ予定である。また、養子であるが故の立場の弱さを解消するため、世田谷の領地を回復した吉良左衛門佐成高の猶子となってもらった。

 扇谷上杉家だが、家督の相続は養子である朝良と認めた。但し、武蔵国内の領地の全てと糟屋庄を除く相模国内の領地は関東足利家足利政知が収公する。朝良は、鎌倉府において引付衆別当として務めることになった。


 武蔵国の守護だが、関東屈指の大国であるため西部を大石、東北部を太田、東南部を吉良が各々守護格とし、分郡守護という体裁をとった。なんのことはない、域内で最大の領地をもつ武将を頭にしただけの話である。


 相模については変わらないが、扇谷の後継たる朝良の所領は糟屋庄であり、現代でいうと伊勢原市のほぼ全域に当たり、無視できない力を保持していた。

 安房は里見義実を守護とし、千葉自胤を守護代としている。

 そして、古河公方家だが、親父は足利成氏の嫡男政氏に、鎌倉に来て仕えるよう手紙を送っている。政氏が受け入れるとは思えないが。


 さて、河越城開城に伴い、逃げそこなった武将は、足利成氏だけではなかった。多賀谷和泉守もその一人である。結城家の筆頭家老であり、幼い当主を支えるよくできた家来という評判の男だった。結城家を専横する家老であったとして後年つとに評判が悪い。

 だが、結城家宿老の多賀谷和泉守の返還を求めて、当主が現れたのである。当主とは結城七郎政朝当年とって九歳である。


 結城政朝が結城家中興の祖などと呼ばれるようになったのは、二十歳の時に当の多賀谷和泉守を粛清してからのことであるので、歴史の綾とは何とも不思議なものだ。

 評定の間に居並ぶ武将に臆せず、幼い当主は親父の前に平伏し、口上を述べた。

「我が家臣を迎えに参りました」


 堂々としたその様に居並ぶ武将からは感嘆の声が漏れた。

 多賀谷和泉守は、居合わせただけである。都鄙合体以来結城家は関東管領や鎌倉公方家に直接敵対してはいない。確かに先の戦(須賀谷原合戦)では、後詰に兵を出してはいるが、直接干戈を交えたわけではない。今後の鎌倉への出仕も検討することもあり、重臣(和泉守)を返してほしい。

 訥々と口上を語る少年に、むくつけきおっさんばかりの武将達から優しい視線が注がれる。


「なかなか大したものよ。結城七郎殿。結城ほどの大身。奉公衆格として迎えたいが」

「は、今はまだ某の一存にて。しかし、共に参りました宿老の水谷には賛同の意を受けておりますゆえ」

「ほう」

 古河公方とは切っても切れぬ仲であった結城家が鎌倉に参ずるとなればパワーバランスが大きく変わることになる。


「うむ。多賀谷和泉は連れて帰るがよかろう。出仕については、追って文を出そう」

「は、ありがたき幸せ」

「上様、よろしいか」

「なんじゃ。相模守」


「この度、関東の東方の家からの客が多く。受付にも難渋いたしました。当府の者では関東東方の家については詳しいものがおりません。引付に席を用意いたしますので、七郎様ご家来衆から一人馳走いただきたいもの」

「はい。では。水谷を残して行きましょう」

 打てば響くように答える。


「おう、おう。見れば見るほど、結城殿は我が倅、相模守の昔を思い出させる。そうではないか? 治部」

「は、誠に」

 親父の言葉に、後方に控えている、犬懸上杉治部少輔政憲が頷いて返す。爺は麒王丸(小鹿新五郎の子で、政憲の曾孫)の機嫌でも見てればいいのに。

 返しようがなくて、どんな顔をすべきか悩んでいると、俺を突き刺すような視線に気が付いた。

 平伏した姿勢から僅かに顔を上げ、結城七郎が俺をねめつけていた。


馬加まくわりも、原も顔を見せませんでしたな」

 千葉自胤が轟くような声で話しかけた。

 結局、下総千葉氏は使者も送ってよこさなかった。自胤が、早舟で鎌倉に顔を出したのにである。

 武蔵千葉氏にとっては、不倶戴天の敵である下総千葉氏は敵のままの方が都合がよかった。自胤にしてみれば、今は千葉と名乗ってはいるものの、下総千葉家は古河公方の命により、父胤直、兄胤宣を攻め殺した時の千葉家家老の馬加まくわり一族であって、千葉とは呼ばない者たちなのだから。原は、反乱に与した馬加の同族である。


「攻める理由ができたではないか」

「理由などいくらでも作りましょう程に」

 だが、と去って良く自胤の後姿を見ながら考えた。もう一人忘れてはいけない人物がいる。河越城から、うまうまと逃げおおせた、長尾四郎左衛門尉景春こと其有斎伊玄(春景の出家後の名前)である。現状の関東の混乱の元凶ともいうべきあの男は、いまだに自らの意志を通すべく戦い続けるのだろうか?




 その夜、評定の様子をこっそり覗いていた、お松が言った。

「あの、七郎君、可愛かったわねぇ」

「まだ、数え十歳だからな」

「去年は、旦那様も可愛かったわよ」

「去年?」


「すくすく育っちゃって、背格好だけなら、大人みたいだよ」

「俺は早く大人になりたい。元服は済ませているけれど、周りは大人と扱ってくれているけれど、まだ酒は吞めないし、足軽すらも目の奥に侮りが見える」

「時間が解決するよ」

 お松は、俺の月代を、剃ってつるつるになった額を撫でた。

 そこは撫でるな!

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