第三十二話 甲賀衆伊豆へ

 水口城は後世中村一氏が築いた水口岡山城とは全く別の城である。

 美濃部氏は、菅原道真の支族で、菅原氏の荘園に土着した後裔であるという。土地の名を姓としたわけだが、歴史を経るうちに土地の名も美濃部から水口へと変遷したにもかかわらず姓は変えなかったということらしい。


「大谷茂国と申します。お見知りおきを」

「若いな。幾つだ?」

 自分の歳のことは棚に上げておく。

「十六にございます」

「美濃部は菅原道真公の裔だそうだな」

「はっ。天神公落命の折に菅原家の嫡子様が手ずからの木彫りの像を氏神として、美濃部天満宮を造りし時からの名乗りで」


「天城の西、仁科川の上流に天満宮があったな。ツツ丸」

「白川天満宮でしょうか」

「そう、それ。美濃部天満宮から御霊分けして貰えばよかろう。手紙を書いておく」

「ありがたき・・・」

「それと、大谷と申したな。これから、蔵人と呼ぶことにする。さよう心得よ」


「はっ」

「それと、土地はやれん。銭にて仕えよ。必要な貫高をツツ丸に伝えておけ」

 その若者は、丁寧に襖を閉めると、足音も立てずに帰っていった。

「若様、蔵人とはどういう?」

「菅原道真公が昇殿を許された最初の官職が蔵人頭だ」

「ははぁ、それであんなに感涙していたのですね」


「ところで、ツツ丸」

「はい、なんでしょう?」

「美濃部に渡す貫高だが、しっかり値切っておけよ」

「……しわいですね」

「当たり前だ。風魔の貫高を減らしていいのなら別だがな」

 ツツ丸は、肩をすくめると、次の瞬間にはいなくなっていた。



 神奈河湊の続報である。

 間宮芳彦四郎信盛と名乗った若者が平伏している。

 神奈河に詰めていた部隊の生き残りらしい。

 神奈河近辺は、山内、扇谷双方の領地が入り組んでおり、その間には鎌倉八幡の領地や、六浦湊をも差配する称名寺の権利地など入り組んでいた。


 このとき、神奈河湊を守っていたのは、矢野彦六という山内上杉家の武将であった。

 払暁と共に海賊衆が大挙して攻めて来て係留中の船に火をつけて回ったという。そこに、元相模守護代の上田氏が攻め込んだという。矢野氏も多勢に無勢なすすべもなかったとのことである。


「父は、大音声でおめき叫んで、上田方の陣へと郎党と共に突撃いたしましたが、三人、五人と打倒しましたが、しまいには雑兵が折り重なるように・・・」

 芳彦四郎信盛はそのまま悔し涙に暮れるのであった。


「では、神奈河湊は扇谷のものになったということか」

「はい・・・」

 おれは、間宮少年の隣で憮然とした面持ちの左京に視線を移した。


「左京、どうした?」

「父に義絶されました」

 左京は、長尾景春の嫡男である。

 長尾景春の乱において、父に付き従った四年であったが、険の強い父の物言いには常に違和感があったという。日野城が太田道灌に攻め落とされ景春と共に落ちのびる際に、捉えられ、そのまま二年ほど山内家で人質として暮らし、改めて山内上杉家に仕えようとして、俺の上洛に同道することになったということらしい。


「義絶とはまた、・・・」

 もう親でもなければ子でもない、たとえ遭っても親子とは認めない。系図からも名前は消す。そういうことになるだろう。

「景春殿が義絶状を鎌倉様に送られました」

 態々親父に送るとは、酔狂なことをする。父と言わず景春殿というところが哀しいな。袂を分かっても親子という例は多いんだがな。


「で、どうする?」

「改めて、相談したき儀がございます」

 平伏する。珍しいな、左京がこんな真似を。それだけ参っているってことか。

「分った。あとで時間をつくろう。 間宮殿もゆっくり休むがよい。暫くは伊豆で過ごせばよい。伊豆の間宮は父祖の地でもあろう」

 二人は黙って平伏した。


「さて、里見の爺よ。恐れた通りのことが起きたな」

「まことに」

「父は安房を攻めるよう命じねばならぬ」

「はい」


 里見義実の顔色の悪さから思うところがあった。

「腹は切るなよ」

「しかし・・・」

「爺には息子だろうが、親父には謀反者だ」

「知らせが遅うございましたか」


「三浦によって里見が焼かれ」

「……」

「その恨みで、里見が三浦か鎌倉を襲う。その繰り返しになる」

「……」

「それを止めるには、里見をつぶして、千代松を当主に据える。他にあるまい」

 里見義実は俯いたまま動かない。

「明日。もう一度話そう」

 俺は自室に戻った。


「で、話とは何だ?」

「鎌倉様には、長尾を継げぬのであれば、鎌倉には置けぬと」

「……だろうな」

「若も、いらぬと仰せになりまするか」


 思わず腕組みをした。この有能な男を放逐するなど、できるわけがない。

 目を開けると、平伏した左京の姿があった。

「名を変えよう」

「は!?」


「上洛の折、左京は役に立ってくれた。信頼できる有能な家臣とはこういうものかと思った。自分の家臣でないのが悔しかった」

「……」

「だから、儂に仕えよ。儂が欲しいのは、長尾の血ではない。左京が欲しい」

「……」


 俺は筆を取ると、端切れのような紙にさらさらと書いた。

「仲尾唐四郎綱英というのはどうだ?」

 紙を渡すと、左京は受け取り、食い入るように見つめた。

「仲尾は長尾のもじりだな。いにしえの長尾の家は東漢の出だそうだから東に音を合わせて唐。綱は俺の偏諱だ。どうだ?」


「あ、有り難き幸せっ」

「おう」

「茶々丸様!」

「おう。元服して政綱だがな」

「も、申し訳ございませぬ。政綱様、ありがとうございます」

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