第二十八話 鎌倉入部と伊豆完全領国化

 実蒔原さねまきはらの戦いの後、関東管領上杉顕定かねさだは鉢形城へ、上杉定正は河越城へと、両者は本拠地へと引き上げた。

 これこそ、親父、関東公方足利政和の待っていた好機であった。

 三島大社に詣でた親父は、翌日には軍を整え、函南から熱海峠を越え熱海に入る。此処から、親父は船で小田原へ、早川を遡り東海道にでて、実相寺へ泊る。実相寺は真宗の寺である。今や、関東(堀越)足利家は本願寺の縁者であり、諸手を挙げての大歓迎であった。領主の大森氏が良い顔をするはずもないが、そこは守護不入の地。広大な境内内に千を超える軍勢を納めれば何の問題もなかった。何日か逗留し軍が整うのを待って、東海道を東進する。


 相模の中央を北から南に流れる二大河川花水川と馬入川(相模川)に際しては、三浦義同が岡崎城から駆け付け、渡河を手伝った。

 東海道を下るのは藤沢の宿まで。藤沢と言えば遊行寺、遊行寺と言えば藤沢と言われるくらいだが、遊行寺は時宗の寺である。時宗は常に公権力に近く、鎌倉下向軍の宿泊を拒むことはなかった。藤沢からは東海道を離れ鎌倉へ向かう。遊行寺から境川に沿って歩き、柏尾川を渡って、大仏切通しを抜け大仏を横目に見ながら南下すると、足元が砂地になり小さく開けた場所に出る。ここを流れるのが稲瀬川。源氏には縁の深い川である。万葉集に『鎌倉の美奈能瀬みなのせ河』とあるのがこの川のこと。そして、あたり一帯を長谷と呼ぶ。


 長谷はもう鎌倉の一部である。東へと進むといくらも歩かぬうちに若宮大路に出る。

 ついに鎌倉入部を果たす。親父政知は鶴岡八幡の赤い色が剥げかけた浜鳥居を見て感動に打ち震えていたようだ。

 主だった者が、鶴岡八幡に詣でた後、妙本寺で旅装を解いた。

 十日ほどかかったが、道中何の障害もなく鎌倉に着くことができた。言を左右して鎌倉入部を阻んできた扇谷定正にはいい面の皮である。天気にも助けられた、まったく雨も雪も降らなかったのである。


 さあ、やることが目白押しだ。

 今後俺は、嫡子として公方の留守の堀越を預かることになる。鎌倉との連絡を密にする必要がある。内浦三津から鎌倉小坪まで廻船航路を設置する予定だ。三日もあれば行き来が可能になるだろう。

 若宮大路に沿って流れる滑川を渡って、妙本寺に向かう途中に新鎌倉府を構える予定である。

 また、鎌倉の防衛用の城として、小坪に城を築く。ここには深いキールを持った新型船が停泊できる湊ができる。鎌倉市街と小坪の間に市を開こう。そうだ、楽市楽座を目指そう。材木座近くに楽市楽座か。


 若宮大路を歩いて思ったが、寂れすぎだ。大路沿いにも廃屋が点在している。焼けたままの場所がある。

 復興するには、金が必要だ。金は商人が持っている。商人を集めるには、それには人を集めなければだめだ。鎌倉が商売をするのにいい場所だと思わせなければだめなんだ。

 江川に支店を出してもらおう。澄酒造りの技を持った手代をつけてもらって、鎌倉に行けば澄酒が飲める。買えるようにしよう。なに、米の集散地六浦が近いんだ。いくらでも作れるだろう。

 あとは何か、何か足りない。そうか、温泉がない。いまさら糟屋(伊勢原)でもあまいし、三浦半島まで行かないとないか。衣笠ってところが有名なの?


 室町幕府の欠点の一つは、直轄領が少なかったこと。そして幕府政所は独自の蔵を持たなかった。つまり、財政基盤が薄かった。どころではなく、財政基盤そのものが無いに等しいと言えるだろう。そもそも、幕府の財産管理から出納業務まで民間の金貸しがその実務を請け負っていたのである。如何に財政を軽視していたかということであろう。


 伊豆に帰った俺は、伊豆の完全領国化に手を染めることになった。

 伊豆という土地は、府中(三島)と韮山周辺を除いて山がちで点在する平地ごとに領主がいるそんな土地柄だ。守護は山内上杉氏だが、その領地は蒲谷郷、河津荘、三津荘、仁科荘、稲津郷等と多数存在したが、各々に代官を置いた。

 実は、関戸播磨守などは山内上杉家の下田周辺(河津荘や稲津郷)の代官に過ぎない。


 文明十四年の都鄙合体(幕府と古河公方の和睦)により、伊豆一国を我が関東公方の領国とみなされることにはなったが、山内上杉家は伊豆国の守護職という地位は相変わらずであり、伊豆国中での最大の地主でもあった。

 伊豆にも、荘園、寺領、神領は散在していた。これは墾田永年私財法という歴史の彼方に消えかけている法令により土地を開墾し土地を私有するに至った人あるいは集落、村が、その土地を貴族、寺、神社に寄進してその庇護下に入った(それだけ国司の収奪が激しかった)ためでその貴族なり寺が本来手の届かないような遠方に荘園を持つことになったため、当然都から遠方の荘園は、荘園主が直接経営などできないから代官が置かれる。荘園の数ほど子飼いの部下がいるわけではないので、代官請負という形で年貢等の収納・輸送を、武士や僧侶に請け負わせた。

 

 室町時代は多くは守護に請け負わせることが多かった。これを守護受けという。守護はその被官である国人に代官職を割り振り、給分とした。そのため守護職は旨味があったし権威も上がった。国人領主を代官とすれば押領の危険があったが、他からの侵害の心配は低いので、危険込みで多く利用された。また、僧出身の金融業者(土倉と呼ばれた)が請け負うことも多かった。土倉等は、代官職は儲かればやるが儲からねばやらないという計算の基に受ける。その土地柄や面積、気候の予測等による豊凶の見込み等によって、代官職の相場がいつの間にか形作られていたのである。伊勢屋や楠美に相場を調べさせて、京との手紙のやり取りを始めた。


 代官職の相場は、毎年の豊凶によって年貢が変動する『所在所務』と豊凶にかかわりなく一定の年貢額を納め続ける『請切』という契約を始めるものが現れ始めていた。この請切は投機性が高く、代官職の受け手が借金まみれになることも多かった。


 そこで俺は、伊豆国内の代官職を請負の額で一旦回収したことにさせ、各々の荘園や寺社領に、改めて関東公方が代官をまとめて受ける旨通告し、その上で、年貢を半額に値切り、請切で銭で払う旨荘園主と契約し、同じ代官に所在所務で契約先を関東公方伊豆総代あてに結ばせた。荘園主には格安の年貢相当の金を支払い、国人領主との直接の結びつきを強くする。


 代官にとっては今までと同じ仕事を維持してくれてありがたいとの礼状が多く来たが、荘園主からは悲鳴が聞こえるような手紙が来ていた。しかし、国人領主に押領されれば一文も収入がなく飢え死にする公家もいるのだから、半額なら遥かにましというものだろう。問題は山内上杉家だったが、交渉相手があの長尾左京だったのでなあなあで押し切った。きっと関東管領本人は気が付いていないだろう。それどころか、伊豆の各地で金を採掘していることすら知らない可能性もある。


 博多からは、交渉の甲斐あって明産のスズが入ってくるようになった。

 東伊豆では、銭の私鋳を始めた。温泉地帯は煙をごまかしやすい。このために東伊豆を選んだのだ。いずれは金属加工にハンダ付けを使えるかもしれない。金銭、銀銭も大きさ、重量、合金の混合比率等統一規格を作り私鋳を開始した。規格のための一匁の錘。十匁、百匁、関東の刻印を入れて売り出す。


 規格と言えば、枡もだった。一升、一合を作り焼き印を入れて売り出す。作らせたのは天城山中の風魔である。彼らの資金源として作らせた。制作過程で、平かんなとかのみとか曲尺かねじゃくも作る羽目になった。曲尺作りは非常に苦労した。元を取ろうとしたら大変な値段になるので誰も買わないのじゃないかと思う。売り出すか悩んでいる。


 金銀の採掘は順調である。あまり一気に世に出すと暴落するので抑えている。各現場には鉱毒が下流に流れないように厳命した。初めは信じなかったが、西国から来た金堀の話を聞いて半信半疑ながら守ってくれているようだ。

 

 気がつけば早三月。米の塩水選とか始めたほうが良いだろうか。米と言えば、六浦や品河の米相場が高沸しているらしい。定正め金に任せて買い漁っているな。米だけじゃない、鉄も銅も値が上がっている。備蓄はあるが売らないように圧力をかけるのは難しいかな。里見には物がいかないように気を付けないと。そうそう、豆駿国境に城を作らなければ、香貫山には砦があるし、牛臥山だと不便だ。徳倉山が良いか? そうそう徳倉山の西の張り出しが丁度良くないか? 山影に山道の入り口があったはずだ。 妙蓮寺とかいう寺があったはずだ。あのあたりは塩が多くて稲が育たないんだが、綿花植えてみるか。塩が抜けるまで何年か植えてみよう。

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