第一章 堀越関東府
第一話 公方なれど支配は伊豆一国
死なないために、何をすれば良いか。何をしなければいけないのか。あるいは、何をしちゃいけないのか。
現状を確認してみよう。
俺は、足利茶々丸。
そして、俺の父は、足利政知。所謂堀越公方である。官職は左馬頭。実は左馬頭という官職は、征夷大将軍候補という意味があって、仮にも公方と名乗らせるための形作りなんだろう。堀越とは、伊豆国府の南の韮山の町近くに設けられた、関東公方府である。
関東公方。実は、元々正式な役職名は関東管領である。しかし、鎌倉に本拠を置いたため。鎌倉殿、転じて鎌倉公方と呼ばれるようになった。なんというか、武家の約束事は結構いい加減なのだ。次に鎌倉公方の一の家来である、関東執事がいつの間にか関東管領と呼ばれるようになっていた。京における、公方と管領を当てはめて呼び習わしたわけだ。
父が鎌倉公方として派遣された背景、と流れを整理してみよう。
かつての鎌倉公方、四代足利持氏は、殺生公方とまで呼ばれた足利六代将軍足利義教との仲を、決定的にこじらせ、乱を起こした挙句、ついにはほとんどの家臣に背かれ自刃。ここで、一旦鎌倉公方という制度は廃絶になる。しかし、将軍が自分の息子( 実は、この息子こそが父政知だったのだが)を鎌倉に派遣しようとすると、今度は持氏の遺児を担いだ関東諸将が反乱。この乱は鎮圧され持氏の遺児達も
幕府は、急いで六代将の義教の九歳の嫡男(
だが、これで収まるわけがない。成氏にとってみれば、自分の父や兄に背いて殺した一族、兄たちを担ぎ上げて反乱を起こした一族、そんな連中に囲まれているわけだ。本人が覚えていなくても、周りは覚えている。そして話す。煽る。嘲る。関東の武士はとにかく、堪え性がない。大小の乱が頻発する。それに加えて、幕府の管領が対関東穏健派の畠山持国から強硬派の細川勝元に替わったことなどが重なり、就任して五年、ついに暴発する。関東は、上も下も我慢が足りないと思うのは俺だけだろうか。
成氏は、以前から意見の合わなかった関東管領上杉憲忠を謀殺。さらに、武蔵、下総、常陸と転戦して、上杉一族を追い詰める。そこで、上杉家は幕府に救援を依頼。幕府は朝廷から成氏追討の綸旨と御旗を得て、討伐軍を編成、駿河守護今川範忠に、転戦中の成氏の留守の鎌倉を攻めさせ占領。成氏は、鎌倉を放棄、関東府を古河に移すことを宣言。古河公方と称した。
なぜ古河に行ったかというと、この下総西部から下野、常陸一帯の大名、小山、結城氏などが成氏の支持基盤で、戦争継続には鎌倉よりも都合が良かった。相模は扇谷上杉家の領国だし、伊豆、武蔵、上野は関東管領家の領国だしね。そして、下総、常陸は、米がよくとれる、豊かな国だった。兵糧調達などの面で、有利だ。そして、古河、関宿といった街は関東水運の結節点の一つで、東北地方からの船荷の多くはここを通過する。これら川湊からの運上金は魅力的だったからね。
そうなると、時の将軍義政は、関東に自分等の意向を忠実に反映させる、傀儡が必要だと考えた、幕府は既に五山の第一席天龍寺の僧侶だった俺の父を還俗させ、関東に送り込んだ。都合の良い人材と思ったんだろうな、元々、関東に送るために教育されていた時期もあったみたいだからね。
占領中の鎌倉なら、容易く入府できるだろうと思ったら差に非ず。相模守護の扇谷上杉家が先陣で鎌倉に乗り込み、鎌倉府の備蓄を
実際に成氏の影響力は高く、鎌倉に援軍として来ていた今川氏が帰国した直後、成氏によって当時陣所としていた伊豆国清寺が焼き討ちされ、約4km離れた円成寺にうつることになり、ここに館を構えた。これが堀越御所である。このとき、手引きしたのが、横井相模介といい、史実では北条早雲の嫡男の正室の実父である。横井氏は鎌倉執権北条氏の後裔と自称していた。その縁で伊勢氏綱は北条と姓を変えたわけだが、それは未来の話。
さて、鎌倉公方たる我が父、政知である。実は、将軍義政より年上であるが、将軍家外戚の日野家の意向で、幼少時から寺で暮らしており、還俗して元服するまで、武家としての教育は全く受けていなかったということになっている。傀儡が欲しかった幕府中枢としては、そういう人物を選んだのだから、仕方がない。しかし、京を出立して武士の常識がないのは流石にまずいとなったらしく、近江の
何がまずいと言って、とにかく、二十過ぎまで女性に指一本触れていなかった。一向宗の寺などならともかく、京五山筆頭臨済宗天龍寺は、天下の名刹である。女などいるはずがない。当然、男色一辺倒であった。ところが、還俗して武家ともなれば、まずは世継ぎが必要になる。形だけは教えられたのだろうが、高僧だったし、長子である俺が生まれたのが、伊豆に居を構えて17年たっているからな、推して知るべしだろう。
父は、息子の俺が言うのもなんだが、面白味のない男だ。武家としての教養を学んでこなかったこともあるだろう。槍や太刀を振るうことはする。孫子や公問対を諳んじたりもする。だが、槍を振るっても舞を舞うような、兵法書を諳んじても。経を読むように、見えてしまう、聞こえてしまう。だが権勢欲は人一倍のようだ。足利一門の例に漏れず眉目秀麗なだけに、物陰で何か陰謀めいたことを思いついたのか、こっそり嗤うのを目撃した時など背筋がぞっとしたものだ。
話は変わるが、先日身罷った俺の母だが、遺言したように、山内上杉家の娘、養子ではあるが、出自は扇谷上杉家の重臣三浦家の先々代の末の娘である。この輿入れは山内と扇谷両上杉家、三浦家の先々代と今代の、二重の争いを纏める為に企図された。三浦家は、今は扇谷家の家臣となってはいるものの、元相模守護の家柄。鎌倉に居を構える関東公方の正室としては問題ない。義兄上というのは、北条早雲と何度も矛を交わしたかの有名な、三浦家現当主三浦道寸のことであろう。母は、嫁いでから、十年以上努力に努力を重ねて、遂に子を孕んだのであった。その子が俺なわけだが。
だが、都での戦乱、応仁文明の乱が終わった頃。突如、高位の公家の娘、武者小路家の姫が父の元に嫁いできた。応仁文明の乱の戦火を避けて、川手(美濃土岐氏の本拠地)に居たが、将軍正室の富子の勧めで、輿入れに来たものらしい。この、お姫様実は、富子の従姉妹で何千貫も銭箱を抱えていた。応仁文明の乱の際、富子は東西両陣営に金を貸すというトンデモ財テクで巨万の富を築いている。地盤の薄い堀越御所が追い返せるはずがない。
父は、
見方を変えて、武者小路家のお嬢様の立場に立ってみよう。
「ド田舎だしちょっと年上だけど高位の殿方に嫁げる。それに、富子お姉さまが、持参金をずいぶんと援助してくれるとか。東武士とか、ちょっと怖いけどワイルドだって思えばいいし、日野家で仕込まれた性テクでメロメロにしちゃうんだからっ!」
多分、こんな感じ。
ところが、伊豆に着いてみると、予想外のことが起きていた。
「自分が正室のつもりだったのに、相手には正室がちゃんといるし、それにもう子供を孕んでいるって、如何いうこと? おまけに、あの女、私と同じ名前(母の名は月姫である。末っ子なので尽きるに掛けたらしい)じゃないの! キィ~! 今更、京には帰れないし、こうなったら、正室には早く死んでもらって、何とかして、私の息子を、後嗣にするよう、いろいろと動こう。持参金は旦那になんか渡さないで、有効に使わなくちゃ。公家女の陰謀力見せてやるわっ!」
ってなことがあったんだろうな。
母が死んで四十九日も済まないのに、父は、武者小路家の
そして、この俺。茶々丸だが、史実では、行状甚だ悪し、ということで何年も土牢に押し込められたあげく、勝手に牢を出て、義母と異母弟を殺して、元服しないまま関東公方を名乗る。
そして、北条早雲に、攻め滅ぼされる。二年くらいは方々に逃げまわっていたらしいがね。
絵に描いたようなDQNだね。誇れるものは血筋のみ。でも、それが俺なんだ。とはいっても、まだ十歳。これからの運命はともかく、関東公方の嫡男として扱われているし、傅役の関戸播磨守吉信に文武ともに厳しく鍛えられている。おかげで、この時代稀に見る成長ぶりだ。というか、武家とそれ以外では、体格が違うのが普通だ。俺の場合かけ離れてという枕詞がついてしまう。が。信頼関係が築けているこの髭面の大男の傅役に、俺の
それはともかく、母が
北条早雲より先に、
嗚呼いったい如何すれば良いのだろう?
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